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プロローグ 崖っぷちの家



 西日が部屋に差し込んでいた。

あの夕日は、後年の歴史家は、まさに華やかなりし帝国社会の斜陽の始まりだと嘆いたという。女はそうでもあろうし、言われるほど暗い出来事ばかりではなかったと後から思う。



窓辺に立った娘の黒髪が、その光を受けて一瞬だけ赤く燃える。

エイサ・レーア・フォン・ヤーパンは、何かに呼ばれるように丸いベランダへ出た。


秋の終わりかけの陽は、もう高くはない。

それでも最後の火だけは執拗で、若い頬の高いところをやわらかく照らし、そこから磨き落としていくみたいに細い卵形の輪郭へすべり降りる。

まっすぐな鼻筋、小さな唇、静かに整った顔立ち。

どれも冷たく見えてよさそうなのに、その時の彼女は、ひどく生き生きとしていた。


空を見ていたからだ。


帝都は西の稜線の向こうにある。

日が転がり落ちてもなお、その方角だけが赤い。

最初、巨大な鳥が何羽も旋回しているのかと思った。

けれど違う。

黒く塗られた航空爆撃飛行艇だった。

腹に鈍い光を溜め、帝国軍の記章をつけたまま、王宮のある空を悠々と横切っていく。


それは奇妙に美しかった。

夕焼けの中を飛ぶ巨大な影。

燃える都。

崩れかけた時代の中心。

何かが、ようやく始まったのだとわかる光景だった。


(始まったのだ)


エイサは手すりに指をかけた。

遠い炎の色が、瞳の底にまで映る気がした。


おもしろい時代が来るかもしれない、と思った。


息苦しかった。

庶子としてこの家にいることが。

自分を見るたび、ほんの少しだけ目を逸らした正妻のことが。

姉上とも兄上とも呼べず、ただその人たちが正しく家の子として先に席につき、先に名を呼ばれ、先に未来を与えられていくのを見ることが。

泥だらけで痩せていく小作人たちを密かに屋敷の中では「下」と扱っていたことが。


—停滞しているより、ずっとましだわ。


"正しい"人たちが倒れていくのは、少し気分がよかった。

そう思ってしまう自分を、その時の彼女はまだ恥じていなかった。


「おもしろい時代がくるわ」


声に出してみると、その言葉は思ったより幼く響いた。

でも、その幼さごと胸が浮き立った。

世界がひっくり返る。

古いものが燃える。

血筋や順番だけで決まっていたものが、全部灰になればいい。

その灰の中から、自分にも何かひとつくらい、別の未来が拾えるかもしれない。


その時だった。


下の玄関ホールから、女の悲鳴が上がった。


ひとつではない。

止めようとする声、呼ぶ声、何か重たいものを運び入れる足音。

屋敷じゅうの空気が、いっぺんに反転する。


エイサはベランダから身を引いた。

さっきまで西日に燃えていた髪が、急にただの黒へ戻る。


何かが起きたのだとわかった。

遠い帝都の火ではない。

もっと近い。

もっとこの家の肉に近いところで。


廊下へ出る。

階段を下りる。

途中で、使用人のひとりが泣きそうな顔で立ち尽くしていた。

ホールへ駆け込んだ瞬間、エイサは見た。


姉だった。


先に嫁いでいった、正妻腹の姉。

帝都と領地の間の釣り合いの取れた上流市民へ。あの白いタフタを幾重にも重ねた花嫁姿の美しさは今でも語り草だ。

きれいで、正しく、この家の娘として育てられた人。

その人が、ぼろ切れみたいになって担ぎ込まれていた。


 「反乱軍のやつらですわ!エリケ様のお屋敷に押し入って…飢えのかわりに宝石を盗んで行った!そして…あぁ…」


 侍女の一人が怒りと悲しみでそう叫んだ。


髪はちぎれ、肌は泥と煤に汚れ、唇は切れていた。

衣服は裂け、首もとには爪で引きむしられたような赤い痕がある。

生きているのが不思議なほど静かな顔で、目だけが壊れた硝子みたいに虚ろだった。


エイサはその場で立ち尽くした。


ついさっきまで、帝都の火を美しいと思っていた。

正しい人たちが倒れていくのは少し気分がいいと、そう思っていた。

新政府、革命者たちは高らかに言っていた

「明日からは皆平等だ!」

けれどその火は、こうして女の身体に降るのだ。

正しい改革者であるはずの、新しい政府を名乗り始めた者たちの側からでも、暴徒は同じ手つきで女を壊すのだ。


その瞬間、エイサは初めて知った。


改革は正義ではない。

正しい言葉を掲げた者たちが、正しい手で世界を触るわけではない。


ホールの奥で、正妻が声にならない声を上げた。

雷が、遠くで鳴った。



その夜、雷は近づいた。


窓硝子の向こうで白く裂け、遅れて屋敷を震わせる。

姉は奥の部屋へ運ばれ、医師が呼ばれ、使用人たちはひそひそ声で走り回り、屋敷はにわかに病家の顔になった。

ついさっきまで帝都の火が美しいと思っていた自分が、どこか遠い娘のように思える。


エイサは長い廊下の途中で立ち止まり、閉めきられた扉を見た。

姉のいる部屋だ。

傷ついた獣が唸っているような声を時折あげる。

先に嫁ぎ、先に社交界へ出て、先に未来を与えられた人。

その人が、今はこうして戸の向こうで、名前も身分も関係のない、ただ傷ついた女の身体として横たわっている。

(お姉様…痛いの?苦しいの?なにか、持ってきた方がいい?)

思わずエイサは扉の隙間からそう問いそうになってやめた、お姉様なんて、呼べる立場でない。

いっしゅん目が合う、泣いているのか、怒っているのか、そのどちらもなのか、エイサにはわからない。

わかるのは、あの人がこの国の正しさの中で初めて、本当に何かを壊されたということだけだった。


「こちらへいらっしゃい」


伯母の声がした。


振り向くと、廊下の端の小さな居間の扉が半ば開いている。

燭台の火が、室内を狭く、しかしはっきりと照らしていた。

正妻もそこにいた。

扇を握りしめたまま、今にも折ってしまいそうな手つきで立っている。

雷がまた鳴る。

この家の女たちは、そこでようやく、誰も男の帰りを待っていないことがはっきりわかる。

決めるのは自分たちだ。

少なくとも今夜だけは。

いや、これからは。


エイサは部屋へ入った。

扉が閉じる。

小さな居間の中で、雨の匂いだけがやけに近い。


正妻が先に口を開いた。


「修道院へ行きなさい」


あまりにも早かった。

迷いぬいた末の言葉というより、もうそれしか言えないところまで追い詰められた人の声だった。


「せめてあなたは、神のもとへ隠されるべきよ」


隠される。

救われる、ではなく。

エイサはその言葉の正確さに、

妙に冷静な気持ちになる。その気持ちのまま問うた。


「大学は…まだ残っています…」


正妻は続けた。


「はぁ、そんなこと言っている場合ではないの、あなたは若い。目立つ。

エリケを見たでしょう。外では何が起こるかわからない。

新しい政府だとか、自由だとか、あの人たちは好きなだけ言えばいいわ。

でも女の身体に降る時、それは結局、いつも同じなのよ」


雷が近く落ちた。

一瞬だけ部屋の中が白く光り、正妻の顔の痩せ方が浮き彫りになった。

その顔を見て、エイサはこの人が自分を嫌っていたのではなく、ずっと扱いに困っていただけなのだと、初めて少しだけ理解する。

庶子の娘。正しくない娘。

黒髪の、東方の血の混じった、美しい娘。

見たくないものを見せてくる娘。

自分の夫の罪も、この家の偽善も、小作人たちの飢えも、何もかもをその存在だけで思い出させる娘。


伯母がその沈黙を切った。


「祈りで兄は戻らないわ」


正妻の肩がぴくりと動く。


「姉さま」


「違う?」


伯母の声は静かだった。

静かだからこそ残酷だった。


「エリケを隠すことはできても、あの子の傷をなかったことにはできない。

それに、兄は収監されたまま。

いまこの家に必要なのは祈りではなく、出入口よ。

新しい政府に通じる出入口が」


「だから…この子を差し出すの?」


正妻の声が少しだけ上ずる。

怒鳴るのではない。

怒鳴るより先に、喉が裂けそうになっている。


「あなたは昔からそう。

何でも帳簿と風向きで考える。


でも女は、売り物ではないわ!」


伯母は、その言葉を真正面から受けた。

笑わない。

誤魔化さない。


「そうであってほしかったわね」


そこに皮肉はなかった。

あるのは、長く生きた女の疲れ切った本音だけだった。


「でもそうじゃなかった。

あなたも知っているはずよ。

あなたは正妻として家の奥に置かれた。

私は商会へ嫁がされて、貴族号の代わりに現金と物流を手に入れた。

この子は庶子として端へ寄せられた。

置き場が違っただけで、皆べつべつの棚へ載せられてきたの」


雨が、ようやく落ちてきた。

窓を叩く音が、細かく、しかし確かに強まっていく。


正妻は扇を握る手をさらに強くした。


「だから、なおさら。

この子まで同じ目に遭わせたくないのよ」


「あら」


伯母はわずかに首を傾げた。

その仕草だけで、空気が少し変わる。


「同じ目?」


「そうよ」


「違うわ」


その否定は、冷たかった。


「エリケは家の都合で嫁がされた娘よ。

けれどエイサは違う。

この子は、まだ選べる。

いや、選ばせてやれる」


正妻が笑いそうな、泣きそうな顔になる。


「選ぶですって?

修道院に隠れるか、男に売られるか、それのどこが」


伯母はそこで、初めてエイサを見る。

伯母の目はいつも、値踏みと現実の計算でできている。

だがその夜は、その奥にほんの少しだけ別の熱があった。

この家の中で、いちばん現実を知っている女だけが持てる、冷たい愛情の熱だった。


「大学へは通わせてあげる。」


エイサはその言葉に、はじめてまばたいた。


伯母は続ける。


「学問をやめさせない。

卒業させる。

そのあいだに、帝都で顔を覚えさせる。

ただ美しい娘ではなく、教養があり、場の空気を読み、言葉で相手を立てられる娘として」


正妻が息を呑む。


「そんなことをしている間に、この国がどうなるかもわからないのよ」


「だから急ぐの」


伯母は答えた。


「この国はもう、血筋だけでは回らない。

けれど、新しい男たちも、結局は誰と寝て、誰を妻にし、どの家と結ぶかで権力を固める。

なら、こちらもそこへ娘を出すしかないでしょう」


その一語が、部屋の中で硬く響く。


娘。


正妻の娘ではない。

エイサのことだ。

庶子。

黒髪の娘。

まだ売れる清らかな娘。


エイサはじっと立っていた。

腹が立つ。

正妻の言う通り、これはひどい。

でも伯母の言うことのほうが、この国では現実なのだともわかる。

悔しいほどに。


「私は」


気づくと、自分が声を出していた。

二人が同時にこちらを見る。


エイサは少しだけ喉を鳴らし、それでも言った。


「私は、修道院へ行きたくありません」


正妻が目を閉じる。

傷ついた人の顔だった。


「そう」


「エリケお嬢様…いえ、姉上をあんな目に遭わせた人たちを、

神に任せる気はないわ」


その言葉は、若かった。

まっすぐで、青くて、少し残酷で、ひどく二十歳らしかった。


「……兄上も」


言ってから初めて家族らしい呼び名が口をついた。正妻は咎めなかった。

姉上。

兄上。

今までは心の中でもうまく使えなかったその言葉が、こんな時に出る。

エイサは少し自分で驚きながら、続けた。


「兄上も、ただ貴族だからというだけで閉じ込められるなんて、おかしいわ。私たちは決められた王宮から定められた税を、徴収し、再分配してきたのよ。

なのに暴虐ではなかった兄が血のために捕まるなんて、それでは、やられたことを返しているだけじゃない。

この国は一生、復讐のやり合いで終わってしまう」


正妻はその言葉を聞いて、初めてまともにエイサを見た。

庶子の娘としてでも、扱いに困る美しい子としてでもなく、

自分の家の破滅に、ちゃんと怒っている若い女として。


「……あなた」


その先は出なかった。

泣きそうになったのかもしれない。


伯母が静かに言う。


「ほら。

祈っているだけの娘じゃないでしょう、この子は」


そしてエイサへ顔を向ける。


「あなたの願いは、何」


エイサは一瞬だけ息を止めた。

窓の外では雨が強くなり、雷がまた近く鳴る。

帝都は燃えている。

王宮のある空を、軍の飛行艇が埋めている。

姉は壊れ、兄は収監され、この家はもう、昔のままでは持たない。


そのすべてを胸の中でまとめるように、エイサは言った。


「議会がほしい」


二人とも、少しだけ目を見開いた。

正妻は悲しげに。

伯母は、面白いものを見る目で。

長年貴族が牛耳っているものだった。故にこそ、司法も警察も今エリケを「被害者」にしてくれない。


「貴族だけの政治ではなく、法律家も、平民も、言葉を持てる場所がほしい。

それから、姉上をあんな目に遭わせた者たちを、見つけて裁きたい。

血筋だから、家柄だからじゃない。ちゃんと、法で」


そこで少しだけ、声が揺れる。


「もうひとつは……兄上を助けたい」


雷のあと、一拍遅れて重たい音が屋敷を揺らした。


若すぎる願いだと、自分でもわかっていた。

青すぎる。

教科書みたいで、滑稽なくらいまっすぐだ。

でも、ほかに何を願えばいいのか、エイサにはわからなかった。


伯母は長く黙ったあと、ふっと息をついた。


「いい願いだこと」


正妻が怒ったように顔を上げる。


「姉さま」


「いいえ、本当に」

伯母は微笑んだ。

「愚かで、青くて、だから高く売れる」


エイサは思わず顔をしかめた。


「伯母さま」


「だってそうでしょう。

 兄を助けたい、姉の仇を法で裁きたい、議会を作りたい。

 そんなことを、いまこの国で真顔で言う娘は、そうそういない」


「笑っているの」


「少しはね」


伯母はあっさり言う。


「でも、半分は本気よ。

 そういう娘を、男はときどき思ってもみない値段で欲しがるの」


「欲しがる、なんて」


正妻が顔を歪める。

けれど伯母は引かない。


「ええ。欲しがるの。

 自分が作った新しい国を、女の身体で正しいと思いたい男がいる。

 逆に、古い家の香りを妻の形で持っておきたい男もいる。

 軍人も、法律家も、政治家もね」


そして、やわらかく言った。


「大学へ戻りなさい、エイサ」


エイサは伯母を見た。


「卒業しなさい。

 昼は学びなさい。眠くても、馬鹿らしくても、ちゃんと法を覚えなさい。

 夜はコルセットを締めなさい。

 嫌いでも、くだらなくても、家のための男を見なさい。

 その二つをどちらも捨てなければ、あなただけのやり方ができる」


それは祝福ではなかった。

命令でも、完全な救済でもない。

けれど、この夜のどの言葉よりも、エイサには生きる道に聞こえた。


正妻はしばらく何も言えなかった。

やがて、低く、壊れそうな声で言う。


「……本当に、それしかないのね」


伯母は扇を閉じた。


「修道院か、売るか、ではないのよ。

 隠されて終わるか、使って生きるか、よ」


その言い方の残酷さに、エイサは少しだけ震えた。

けれど震えながら、同時にわかってもいた。

自分は、隠されて終わりたくはない。


「わかりました」


そう言った時、自分の声が思ったより静かで、少し驚く。


「大学へ戻ります」


正妻が、目を閉じる。

同意ではない。

諦めでもない。

ただ、娘たちの人生がいよいよ自分の手から零れていくのを知った人の顔だった。


伯母は短く頷く。


「いい子」


その言い方は、いつものように少し帳簿めいていた。

けれど今夜だけは、それでもよかった。


雨はさらに強くなった。

雷は遠ざかりきらない。

姉は奥の部屋で眠らされ、兄はまだ閉じ込められている。

帝都は燃え、統一評議政府を名乗り始めた新しい男たちは、正義と再建の言葉を掲げている。


そしてエイサは、あれほど馬鹿だと思っていたコルセットを、これからは自分の身体に締めることになる。

授業では眠くなり、法律を読みながら、夜には家のための「男漁り」をしなければならない。


惨めだ、と思った。

けれどその惨めさの中にしか、兄への道も、姉の仇への道も、議会への道もないのだと、今夜の雷ははっきり教えていた。


窓の外で、もう一度だけ空が白く裂けた。


その光の中でエイサは、自分の未来がどこかへ開くのではなく、

狭く、いやらしく、しかし確実に一本だけ伸びるのを見た気がした。


だったらその道を、自分で歩こうと思った。



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