第四話 待っていない人
第四話 待っていない人
待っていない人の不在は、約束した人の遅刻よりも早くわかる。
けれど二度目の夜会へ出る支度をしていたエイサは、まだそのことを知らなかった。
鏡の中には、前の夜より少しだけ女らしくなった自分がいた。
灰色へ一滴の菫色を落としたシルク・タフタのドレス。胸元は最初の夜会で着た白いドレスより高く、鎖骨を覆う薄いチュールには、銀灰色の糸で細い蔓草が刺繍されている。
身頃は胴へ沿い、腰の細さを隠さなかったが、息ができなくなるほどには締めさせなかった。
最初の夜会の翌朝、脇腹に残った赤い痕を見て、エイサ自身が紐を一段緩めるよう命じたのだ。
あの夜は、侍女の言う通りに腕を上げ、息を吸い、締められるまま立っていた。
今夜は違う。
「右の髪を、もう少し低くして」
侍女が櫛を止めた。
「こちらでございますか」
「ええ。耳が全部見えると、幼くなるわ」
黒髪は後頭部でゆるやかにまとめ、額の両脇へ短い波を作った。灯りを受けると、葡萄酒を陽へ透かした時のような褐色が、ごく薄く浮かぶ。
耳には小粒の真珠。
首には何もつけない。
若い女の細い喉と、チュールを這う銀糸の蔓草だけを残す。
エイサは鏡の中の自分を眺めた。
白いドレスの時よりも、賢そうに見えた。
誰かに庇われることを待っている娘ではなく、大学で法を学び、自分の言葉を持っている若い女に見える。蜂蜜色の目も、灰紫の布の中では少し深く、冷たくなった。
これなら、今夜は見られる。
そう思ったことを、エイサは鏡の中の娘にさえ知られたくなかった。
「少しは自信がついた?」
背後からマリアが訊いた。
伯母は黒に近い葡萄色のベルベットを着ていた。広く開いた襟ぐりには古い黒レース。胸元には、夫の商会の印を図案化した金のブローチがある。
「少しだけ」
エイサは認めた。
「結構」
マリアは鏡越しに姪を値踏みした。
「でも、鏡はあなたに好意的すぎるわ」
「夜会の皆様よりは、ましでしょう」
「鏡はあなたしか映さないもの。広間へ出れば、あなたより美しい女も、賢い女も、値打ちのある女もいる」
「支度を終えた娘に、いま言うこと?」
「自信は持たせすぎると、香水より早く周囲へ気づかれるの」
侍女が笑いを堪える気配を見せた。
エイサは鏡の中で少し唇を尖らせる。
「伯母様は、私を高く売りたいのか、値を下げたいのかわからないわ」
「売り物自身の見積りが高すぎれば、競りは失敗するものよ」
やはり投資家だった。
けれど今夜は、その言葉にも以前ほど身体が硬くならなかった。
売り物であることは、もう知っている。
見られることも。
ならば、こちらも見ればよい。
*
旧司法卿官邸の正面階段は、前回と同じ白大理石だった。
同じように見えるだけで、左側の欄干には砲撃で欠けた跡があり、上部の円窓には色の違う板硝子が三枚嵌め込まれている。
修復用の石材も硝子も、すでに地方から届いていた。
ただし鉄道は、東部戦線へ兵、砲弾、石炭、乾燥豆を送り、代わりに負傷兵を帝都へ戻すために使われている。官邸の傷は、戦争が一段落するまで放置されることになっていた。
それでも今夜、階段には赤い絨毯が敷かれている。
欠けた大理石を覆うためだった。
国家が傷を治せない時、社交界はその上へ布を敷く。
玄関の中は暑いほどだった。
外套を預ける間にも、石炭を惜しげなく焚いた暖炉の熱が頬へ触れる。市中の共同住宅では、一家が冬季配給を前倒ししても一部屋を暖められないというのに、この官邸では玄関と控えの間だけで三つの炉が燃えていた。
マリアが扇を閉じたまま、エイサの肘へ触れる。
「顎を少しだけ上げて」
「肩ではなく?」
「二度目の娘は、何も知らない顔をしてはいけないわ」
大広間の扉が開く。
光。
音楽。
軍服の濃い色。
女たちの絹。
蝋燭と新しい電灯の白さが混じりきらない、半分だけ近代になった夜だった。
エイサが一歩入ると、実際に視線が動いた。
前回より早く。
前回よりも、意味を持って。
あの白い娘。
テラスで若い大尉を動かした娘。
兄のために新政府の記録を探らせている旧伯爵家の庶子。
ファーレンハイト少佐から、一輪の薔薇を贈られたらしい娘。
噂が先に広間へ入り、今夜のエイサは、その後から自分の身体を運び込んだ。
若い少尉がこちらを見る。
法務官の息子も。
長身の銀行員が会話を止めて、一度目を向ける。
エイサの胸の内に、鏡の前で生まれた小さな自信が戻った。
今夜は、見られている。
その実感は少し甘かった。
だが二度目の夜会では、視線が向くことだけでなく、その視線がどこから命じられたかまで見えた。
若い少尉が一歩踏み出す前に、壁際の母親が扇を傾ける。
銀行員はエイサの顔を見たあと、マリアの金のブローチと、その隣に立つ商工評議会員を確かめた。
法務官の息子は微笑みかける直前、姉らしい年長の婦人へ目をやった。婦人がごく僅かに首を振ると、彼は何事もなかったように進路を変え、別の令嬢へ向かった。
エイサは、甘さが舌の上から消えていくのを感じた。
自分が男たちを惹きつけているのではない。
彼らの家族や後援者による値踏みを通過し、今夜、近づいてもよい娘に分類されている。
娘たちは広間の中央で回っていた。
しかし、誰と誰を回すか決めている女たちは、壁際から一歩も動いていない。
その中に、ひときわ美しい夫人がいた。
三十代の終わりほどだろう。
深緑のベルベット。白い肩。胸元には、旧王家の接収を免れたものらしい青い宝石が一つだけ置かれている。
若い娘より深く胸を開いているのに、売られているようには少しも見えなかった。
将官が自ら近づき、銀行家が挨拶を待ち、若い将校が夫人を笑わせようとする。
夫人が男の袖へ指先を置いた。
娘なら、縋っているように見える触れ方だった。
彼女がすると、話を終わらせる命令に見えた。
指先が離れると、将官は素直に一歩退く。
エイサは、自分の細い腰へ集まる若い男たちの視線より、あの女の指一本のほうが大きな力を持つことを知った。
「ゲルトルート・フォン・レーヴェン夫人よ」
マリアが囁く。
「旧宮廷女官。夫の爵位は効力を失ったけれど、ご本人は商工評議会の文化委員へ入ったわ」
「入った?」
「新政府の男たちは礼式を知らないでしょう。恥をかかずに外国使節を迎えるため、彼女を必要としたの」
レーヴェン夫人が、こちらへ顔を向けた。
目が合う。
エイサは反射的に微笑んだ。
夫人は優雅に会釈を返す。
けれどその目は、エイサの顔だけを見ていなかった。
髪。
胸元。
腰。
ドレスの布。
耳飾り。
歩き方。
背後にいるマリア。
すべてを一息で数えた目だった。
「お姪御さん?」
夫人は、エイサではなくマリアへ訊いた。
「ええ」
「よく踊れそうね」
「踊らせすぎると、値が落ちますわ」
マリアも微笑む。
夫人の唇が僅かに深くなった。
「娘は踊るためにいるのでしょう?」
「道具ほど、扱いを誤れば壊れますもの」
二人の会話は穏やかだった。
エイサはその間に立ち、若い身体を持つ当人でありながら、品物の取り扱いについて相談されているような気持ちになった。
夫人が、ようやく彼女へ声をかける。
「二度目?」
「はい、夫人」
「では今夜からは、踊るだけでなく見ておくことね」
「何をでしょう」
「誰が、あなたを踊らせようとするか」
夫人は、それ以上説明しなかった。
将官に呼ばれ、扇を閉じる。
その小さな動作だけで、周囲の男たちの位置が変わった。
エイサは、去っていく深緑の背を見た。
「娘は踊る道具」
小さく言う。
「ええ」
マリアは否定しなかった。
「伯母様も、あちら側でしょう」
「もちろん」
「私も、いつか?」
「生き残ればね」
ずいぶんひどい激励だった。
けれどエイサは、少しだけ笑った。
娘は踊る道具。
ならば、回されている間に、回している手を覚えればいい。
*
大広間の正面には、東部戦線の地図が飾られていた。
旧司法卿の紋章を外した跡へ、新政府の歯車と麦穂の旗が掲げられ、その左右に戦況図が置かれている。
赤線が新政府軍。
黒線が旧貴族連合。
河川。
鉄道。
橋。
金色の小さな星は、破壊された軍事目標を示していた。
地図を夜会の装飾にするという発想は、宣伝局のものだろう。
星を貼られた大河鉄道橋の周囲には、将校と官吏が集まっている。
「北方二城は冬まで持つまい」
「ファーレンハイト少佐の航空隊だそうだ」
「橋を落とし、弾薬庫も一つ焼いた」
「皇帝の宮殿を撃った男には、橋くらい易しいだろう」
笑いが起こる。
給仕が銀盆を持って通った。
発泡酒。
山羊乳のチーズ。
塩漬け魚の小さなパイ。
砂糖を薄くかけた胡桃。
前回より簡素になったという。
それでも今朝、帝都の配給所では黒パンが一人半斤へ減らされた。
官邸では砂糖を胡桃へかけ、市中では母親たちが子どもの粥へ入れる塩を量っている。
広間の暖炉は燃え、楽団は演奏する。
ただ、前回第二ヴァイオリンを弾いていた若い男はいなかった。
代わりに、白髪の奏者が座っている。
徴兵されたのか。
死んだのか。
別の土地へ逃げたのか。
音楽は欠員の理由を説明しない。
代わりの弓が同じ譜面を弾けば、曲は続く。
*
「フォン・ヤーパン嬢」
声をかけられた。
振り返る。
パウル・ディートリヒ・ヴァイス大尉が立っていた。
遅れてきたらしい。
淡い灰褐色の髪には外の湿気が残り、礼装のために撫でつけた一房が、もう右眉へ落ちている。頬は冷気で赤く、呼吸もわずかに速い。
濃紺の軍服は官給品だった。
真鍮釦。
少し余る腰。
着慣れた布から浮いて見える、新しい大尉肩章。
右袖には、白い紙埃が一本残っていた。
本当に走ってきたような男だった。
「遅くなり、申し訳ありません」
「お仕事でしょう」
「はい。それから、少し探し物を」
エイサは、胸の内側が動くのを感じた。
けれど、すぐに問い詰めるのは少し悔しかった。
今夜の自分は、鏡の前で少しだけ大人になったはずなのだ。
「今夜は、皆様がよくこちらをご覧になるの」
エイサは何気ない調子で言った。
パウルは、改めて彼女を見た。
「はい」
ひどく真面目に頷く。
「とてもお綺麗ですから」
エイサは一瞬、言葉を失った。
「……そういう時は、少しくらいためらうものではなくて?」
「なぜです?」
「もう結構です」
「何か失礼を?」
「していません。していないところが困るのです」
パウルは理解できない顔をした。
エイサは笑いそうになるのを堪える。
壁際では臈たけた夫人たちが、目配せひとつで男を動かしている。
この男は、その手のひらの上へいることにも気づかず、思ったことをそのまま言う。
政治的には危うい。
少しだけ、かわいい。
「それで」
エイサは声を低くした。
「見つかったの?」
パウルの顔から、若い男の戸惑いが消えた。
「はい」
彼は広間を見回す。
「少し、お話しできる場所へ」
二人は隣接する小回廊へ移った。
完全な密室ではない。
柱の間から広間が見え、人の行き来もある。ただ、音楽と談笑が壁へ反射し、個々の会話までは届かない。
パウルは胸ポケットから、小さく折った紙を出した。
「正式な写しではありません。記録簿を持ち出すことは認められなかったため、私が書き取りました」
紙を開く。
整った小さな字。
姓名。
年齢。
旧身分。
拘束日。
移送元。
現在地。
コンラート・レオポルト・フォン・ヤーパン。
北部暫定保安拘置所。
旧聖ベネディクト修道院。
生存確認、三日前。
罪状欄は空白。
拘束根拠、暫定保安令第三項。
「生きているのね」
言葉が、呼吸より先に出た。
「三日前の点呼簿に名前があります」
「怪我は?」
「医務記録までは閲覧できませんでした。拘置所内での処罰記録はありません」
「面会は」
「原則禁止です」
エイサは紙を見つめた。
世界のどこにもいないかもしれなかった人間が、一つの建物へ戻ってきた。
北部。
旧修道院。
石壁。
点呼。
寒い寝台。
少なくとも、想像できる形になった。
想像できるということは、そこへ向かう道も考えられるということだった。
「罪状がない」
「はい」
「何も書かれていない」
「はい」
「それでも、拘束できるの?」
「暫定保安令では、国家転覆または反乱への関与を疑われる者を、身柄審査まで拘束できます」
「審査はいつ?」
パウルが黙った。
その沈黙が、答えだった。
「決まっていないのね」
「拘束者が多すぎます。地方から証拠も届いていません」
「罪を調べてから捕らえたのではなく、捕らえてから罪を探している」
「そう見えます」
彼は新政府の軍服を着ている。
革命によって昇進した。
それでも、新政府に都合のよい答えを選ばなかった。
「拘束理由の開示を求めれば?」
「法務局へ申立てができます。身柄審査の実施も要請できます」
「では、すぐに」
「フォン・ヤーパン嬢」
パウルの声が低くなった。
「申立書を担当課へ渡し、受理を拒ませないところまでは、私にできます」
「その先は?」
「担当者の机へ載せるところまでです」
「審査を始めさせることは?」
パウルは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「私には、命じられません」
エイサは紙を持つ指へ力を入れた。
「では、誰なら命じられるの」
「法務局の部長官。保安委員会から任命された審査官。あるいは、担当部署が回答を保留できない立場の方が、正式な照会を出せば」
「回答を保留できない立場」
「はい」
「貴方は違うのね」
口にしてから、責めるように聞こえたことへ気づいた。
「ごめんなさい。そういう意味では」
「事実です」
パウルは、言い訳をしなかった。
「私は記録を探せます。申立書の形式を整えることも、受付へ持ち込むこともできます。ただ、審査の順番を変えろとは命じられません」
彼の声は静かだった。
自分の力を大きく見せようとしない男の声だった。
エイサは、かえって苦しくなった。
この人が足りないのではない。
この人に与えられた権限が足りない。
三時間を費やし、自分の手で帳簿をめくり、コンラートの名を世界へ戻してくれた。
それでも、拘置所の扉までは開けられない。
「大学の教授へ相談します」
エイサは言った。
「申立書を作るわ」
「私も、正式な記録写しを取れるよう動きます」
「これ以上、迷惑をかけられません」
「迷惑ではありません」
「お仕事ではないでしょう」
「約束したことです」
「約束したからといって」
「約束は、守るためにするものでは?」
パウルは、ひどく当たり前のことを言う顔をした。
新しい肩章。
古い軍服。
袖の紙埃。
指に残ったインク。
エイサは一度、目を伏せた。
「何時間、探してくださったの?」
「それほどではありません」
「何時間?」
「初日に一時間。今日、勤務後に三時間ほど」
「三時間」
「記録簿の字が細かいので」
「大尉」
「はい」
「貴方は、もう少し自分を高く売ったほうがよいと思います」
「売る?」
「三時間探したのに、『それほどでは』で済ませる。伯母様なら、たいへん叱ります」
パウルは反射的に広間のマリアを見た。
遠くにいた伯母と目が合う。
マリアはグラスを僅かに上げた。
すべて見ていたらしい。
パウルの耳が赤くなる。
エイサは笑った。
夜会用に選んだ笑みではなかった。
肩の力が、ほんの少し抜けた。
「本当に、ありがとうございます」
今度の言葉には、飾りがなかった。
パウルは、それだけで十分なものを受け取った顔をした。
「お役に立ててよかった」
*
小回廊を出ると、マリアが待っていた。
パウルは深く一礼し、申立書の様式を明朝までに屋敷へ届けると約束して、楽団の脇へ離れていった。
マリアは、その後ろ姿を見送る。
「よい方ね」
「ええ」
エイサは、すぐに答えた。
「貴方が泣けば、自分で記録室へ降りて、一冊ずつ帳簿をめくってくれる」
「泣いたからだけではありません」
「そうね。約束したからでしょう」
マリアは否定しなかった。
「それの何がいけないの」
「何もいけなくはないわ」
伯母は、広間の正面に飾られた戦況図を見た。
「人としては、とても上等よ」
「人としては?」
「でも、権力のある男は、自分で帳簿をめくらない」
エイサは黙った。
「明朝までに、その帳簿を机へ持ってこいと命じるの」
「自分では探さずに?」
「ええ」
「それでは、大尉のほうが立派でしょう」
「どちらがよい男かは、別の話よ」
マリアは扇を開いた。
「けれど、拘置所で冬を越せるかどうかは、男の立派さでは決まらない。誰が審査の順番を変えられるかで決まるの」
広間の向こうには、金色の星を貼られた鉄道橋がある。
その下で人が何人死んだのか、この場所からは見えない。
星を貼る者。
星を貼らせる者。
星の意味を決める者。
力には、階層がある。
見られることと、誰を見るかを決めることが違うように。
記録を探すことと、審査を始めさせることも違う。
「大尉では、若君様を助けられないと仰るの」
「いいえ」
マリアの返答は意外なほど穏やかだった。
「あの方は、最初の扉を開けてくださった。立派なことよ」
「でも、最後までは」
「一人で全部の扉を開けられる男など、ほとんどいないわ」
マリアの目が、広間のどこかへ動いた。
そこには本来、ひどく背の高い軍服の男が立つはずだったのかもしれない。
だが今夜、その場所には知らない将校がいる。
「そして全部の扉を開けられる男が、よい男とも限らない」
「何を選べばいいの」
「それを決めるために、あなたは今夜も見ているのでしょう」
マリアはそれだけ言い、旧知の夫人へ挨拶するため離れた。
エイサは一人で立った。
手の中には、パウルが書き取った紙がある。
善良な男の三時間。
けれど、その三時間だけでは動かない国家。
*
楽団が次の曲を始めた。
パウルが戻り、手を差し出す。
「一曲、いただけますか」
「ええ」
二人は広間へ出た。
今夜の彼は、前回より少しだけ上手だった。
二度目の旋回で、エイサは気づく。
「練習なさったの?」
「わかりますか」
「前より、足を踏まれそうな不安がありません」
「踏みませんでした」
「踏みそうではありました」
「……同僚に頼みました」
「女性の?」
「いいえ」
エイサは顔を上げた。
「男性?」
「同室の中尉です」
「どちらが女性役を?」
パウルは答えなかった。
「大尉?」
「最初は、私が」
エイサはとうとう笑った。
「見たかったわ」
「お願いですから忘れてください」
「無理でしょう。とてもよい話ですもの」
「どこが」
「今夜いちばん平和な話です」
パウルも、仕方なく笑った。
その笑顔には戦場の名残も、夜会の計算もあまりなかった。
エイサは思う。
この人となら、日々はきっと穏やかだ。
彼は約束を守る。
自分を見てくれる。
母の出自を知っても、エイサの価値が変わるとは思わないだろう。
若君様の名を探すため、勤務後の三時間を使ってくれる。
安心できる男だった。
曲の途中で、正面扉が開いた。
背の高い軍人が入ってくる。
淡い髪。
濃い軍服。
エイサの視線が、パウルの肩越しに動いた。
違う。
白髪の将官だった。
「どなたか、お待ちですか」
パウルが静かに訊いた。
エイサは視線を戻す。
「いいえ」
「そうですか」
「なぜ?」
「扉が開くたび、ご覧になるので」
見ていたのか。
パウルは、人の言葉を待つ目をしている。
優しいが、見えていないわけではない。
「来客を確認しただけです」
「どなたを?」
「特定の方ではありません」
「では、私の勘違いです」
彼はそれ以上、訊かなかった。
その優しさが、少し痛かった。
「ファーレンハイト少佐は、東部戦線にいるのでしょう」
エイサは自分から言った。
言わなくてもよかった名だった。
「おそらく」
「貴方は、少佐とお話ししたことが?」
「軍務局で二度。私が作成した補給地図を戻されました」
「なぜ?」
「縮尺が不適切だと」
「それだけ?」
「二度目は、凡例が見にくいと」
エイサは小さく笑う。
「嫌な方ね」
「正しかったです」
「正しい嫌な男ばかり」
「私も含まれますか」
「大尉は、まだ」
「まだ?」
「今後に期待しています」
曲が終わる。
パウルが礼をする。
「次も、いただけますか」
「三曲目なら」
「ありがとうございます」
彼は嬉しそうだった。
その顔を見て、エイサも嬉しかった。
本当に。
それでも次に扉が開いた時も、彼女はほんの一瞬だけそちらを見た。
*
楽団の音が止まった。
商工評議会議長が壇へ上がる。
「皆様」
広間の会話が静まった。
地図の脇に立った若い文官が、紙を開く。
「東部戦線より、正式な戦況報告が届きました」
金色の星を貼られた橋へ視線が集まる。
「本日未明、新政府軍東部航空打撃大隊は、大河鉄道橋および北岸弾薬集積所への攻撃を実施。鉄道橋を破壊し、旧貴族連合の北部補給線を遮断しました」
拍手。
「地上軍は北岸へ進出。水門および周辺村落を確保し、敵軍は北方へ後退中です」
さらに大きな拍手。
「航空隊の損害は、飛行艇一機喪失。戦死三名、負傷八名。地上軍の損害は現在集計中」
一機。
三名。
八名。
数字になれば、小さかった。
この広間には二百人以上いる。
三人が消えても、見た目はほとんど変わらない。
だが、その三人には食卓があり、椅子があり、冬服があり、帰りを待つ者がいる。
エイサは、最初の夜会へ来る途中に見た黒い飛行艇を思い出した。
夕焼けの空。
燃える帝都。
美しいと思った影。
あの時、一機が帰らなければ、その中から何人が消えるのか考えもしなかった。
「作戦指揮官、ウォルフガング・ヘルマン・フォン・ファーレンハイト少佐の功績に、敬意を」
グラスが上がる。
「新しい国家に」
「勝利に」
「東部軍に」
エイサも、発泡酒のグラスを持ち上げた。
透明な液体の中を、細い気泡が上っていく。
その向こうに、金色の星を貼られた橋が見えた。
パウルは、三時間かけて一人の名を探した。
ファーレンハイトは、一度の命令で九機の飛行艇を動かし、橋を落とし、戦線の順番を変えた。
どちらがよい男かは、別の話。
マリアの言葉が、胸の中へ戻る。
楽団が演奏を再開した。
白髪の第二ヴァイオリン奏者は、先ほどまでと同じ顔で弓を動かす。
戦死三名。
曲は続く。
エイサは酒へ口をつけた。
甘かった。
その甘さが、少し嫌だった。
*
夜会が終わる頃には、外の雨は上がっていた。
帰りの車の中で、マリアはコンラートの記録を書き取った紙を読んだ。
車内灯の下で、細かな字を一行ずつ追う。
「北部暫定保安拘置所」
「旧修道院だそうです」
「生存確認、三日前」
「ええ」
「罪状欄は空白」
「ええ」
マリアは紙を折った。
「ヴァイス大尉は、思った以上によく走るわ」
「伯母様まで、そのような言い方を」
「約束した翌日から記録室へ通う男は、なかなかいないもの」
「本人は、それほどではないと」
「だから余計に値打ちがあるのよ」
車窓の外を、夜の帝都が流れていく。
街灯は燃料節約のため、一つ置きに消されていた。
配給所の前には、明朝のパンを得るため、すでに人が並んでいる。
官邸では、砂糖をかけた胡桃が盆に残されたまま厨房へ下げられていた。
同じ都市。
同じ新政府。
同じ夜。
「少佐は来なかったわね」
マリアが言った。
「東部にいるのでしょう」
「知っていたの?」
「戦況報告で」
「残念だった?」
「なぜ私が」
「訊いただけよ」
「待っておりませんでした」
「そう」
「大尉は来てくださいました。若君様の所在も見つけてくださった。今夜、重要なのはそれだけです」
「そうね」
マリアは否定しなかった。
それが、かえって腹立たしかった。
「何です?」
「何も言っていないわ」
「顔が」
「あなたは、ファーレンハイト少佐のようなことを言うのね」
エイサは黙った。
窓硝子に、自分の顔が映る。
灰紫のドレス。
黒い髪。
蜂蜜色の目。
今夜、若い男たちに見られた娘。
その視線を動かす女たちを知った娘。
よい男と、権力のある男が同じではないと知った娘。
誰も待っていなかったはずの娘の顔。
*
屋敷へ戻ると、パウルから届いた花束は鏡台の脇に残っていた。
白い小菊は、少し頭を垂れている。
乳白色の薔薇は、昨日より大きく開いていた。
窓辺の一輪挿しには、琥珀色の薔薇がある。
まだ形を崩していない。
侍女が耳飾りを外し、髪からピンを抜く。
黒髪が肩へ落ちた。
「今夜、何か届きましたか」
何気なく尋ねたつもりだった。
侍女は、ドレスの背を緩めながら答える。
「いいえ、お嬢様」
「そう」
「ヴァイス大尉からのお届け物でしたら、ございませんでした」
エイサは鏡越しに侍女を見た。
「誰からとは言っていないわ」
「失礼いたしました」
少しも慌てていない。
この屋敷の使用人は、皆マリアに似てきたらしい。
「別に、待っていたのではありません」
「はい」
「お返事が必要なものが届けば、困るでしょう」
「左様でございますね」
「夜会へも、いらっしゃるとは思っていませんでした」
「はい」
肯定だけが続く。
エイサは振り返った。
「本当に、そう思っている?」
「何をでございましょう」
「……もういいわ」
コルセットが外れる。
胸の奥まで、ようやく深く息が入った。
夜着へ着替え、エイサは窓辺に立つ。
一輪挿しの水が、少し減っている。
琥珀色の花弁へ指を触れる。
冷たい。
名のない花。
約束のない男。
来るはずのなかった人。
待っていなかったのだから、失望する理由はない。
それでも広間の扉が開くたび、彼女は見た。
濃い軍服。
淡い髪。
ひどく背の高い影。
そのどれも、彼ではなかった。
明日は大学へ行く。
教授へ、拘束理由開示の申立てについて相談する。
パウルが探した記録を、法的な手続きへ変える。
コンラートは生きている。
それだけで十分な夜だった。
十分でなければならなかった。




