十二年ぶりの声
暗闇の中で、砂利が小さく擦れる音が、もう一度だけ響いた。
ゼノは壁の岩肌に背中を密着させ、息を限界まで殺した。右手で握りしめた精密ドライバーの金属柄が、手のひらの汗で滑りそうになる。
相手もまた、こちらの存在に気づいている。暗闇の奥から、衣服の革が擦れる微かな摩擦音と、慎重に重心を移動させる気配が伝わってきた。
(帝国の追手じゃない。)
ゼノは耳を澄ませながら、ここへ至る坑道内で目にした「痕跡」を思い返していた。
天井の崩落を避けるために正確に打ち込まれた古い楔。罠を警戒して足元を避けた形跡。素人の鉱夫なら、とっくに頭上の岩盤を崩して自滅している。敵の地方兵であれば、もっと乱暴に靴音を響かせ、魔光灯で暗闇を照らし散らしているはずだ。
先行しているのは、この北坑道の複雑な構造を熟知し、闇と同化することに慣れた「熟練の兵」だ。
「……誰だ?」
ゼノは低く、しかし明確な意思を込めて声を投げた。
「そちらこそ。」
闇の奥から返ってきたのは、驚くほど澄んだ、しかし酷く硬質な「女性の声」だった。
その響きが、ゼノの思考を一瞬だけ空白にした。耳馴染みがあるわけではない。十二年の歳月は、少女の声を完全に大人のものへと変えていた。だが、その声の「輪郭」の奥に、かつて王都の庭園で自分の名前を何度も呼んでいた、あの幼い日の残響が、奇妙なほど完璧に重なった。
ゼノの喉が、引きちぎれそうなほど強張った。
「まさか……。」
「その声、ノア……? いや、違う。」
暗闇の向こうで、カチリと小さな金属音がした。携帯用の魔光灯が細く開かれ、一本の鋭い白い光の矢が、ゼノの顔を逆光の中に真っ直ぐに射抜いた。
眩しさにゼノは思わず左腕で顔を覆った。
光の光源の向こう側、淡い逆光の中に立ち尽くしている人影が見える。
泥を被った濃紺の外套。肩を飾る王国騎士団の擦り切れた飾り帯。指示を出す左の包帯を巻いた手首に括り付けられた、見覚えのある「折れた木剣の柄」。
光を掲げる彼女の顔は、朝霧のような青白い光に照らされていた。
整った細い眉。射抜くように強い、意志に満ちた琥珀色の瞳。
「エリアナ……?」
ゼノの口から、無意識にその名前が零れ落ちた。
魔光灯の光が、微かに揺れた。
彼女の琥珀色の瞳が驚愕に丸くなり、それから、きつく唇を噛み締めるのが見えた。
「──本当に、ゼノなの?」
生存の確認。十二年ぶりの邂逅。
それは劇的な再会のはずだった。涙を流し、互いの無事を喜び、抱き合うべき瞬間。
だが、二人の間に横たわっていたのは、甘い感傷ではなく、冷え切った坑道の「空気」と、お互いが手にした「武器」の金属光だった。
エリアナは魔光灯を掲げたまま、もう片方の手をゆっくりと腰の短剣の柄から離した。だが、その姿勢はいつでも動けるように極めて実戦的で、無防備な少女の隙はどこにもない。
「生きていたのね。」
「あんたこそ。」
ゼノは右手のドライバーをゆっくりと下ろし、工具箱の脇へと収めた。
「どうしてこんな場所にいる。」
「あなたを連れ出すために来た。帝国の魔導局が、アイゼンベルクでの『王家認証系』の反応を掴んで動き出している。ここにいれば、確実に回収されるわ。」
エリアナの声は、実務的で、信じられないほど冷静だった。
再会できた安堵の表情の裏で、彼女の脳はすでに「脱出の算段」と「敵の配置」を計算しているのが分かった。
その徹底した指揮官としての態度が、ゼノの胸の奥を微かに逆撫でした。
「ヘイマーが囮になった。」
ゼノは工具箱の取っ手を強く握りしめた。
「俺を逃がすために、あの脚で帝国兵を引きつけに走ったんだ。工房も、全部壊れた。」
エリアナは一瞬だけ目を伏せた。その長い睫毛が、青白い光の中で小さく揺れる。
「ヘイマー様が……。でも、あの御方ならそうするはずよ。あなたの価値を、誰よりも理解していたから。」
「価値?」
ゼノの声が、無意識に尖った。
「王家の生き残りとしての価値、ということか?」
「それも含めてよ、ゼノ。」
エリアナは魔光灯の光を少し下げ、二人の足元を照らした。
「『折れたる獅子』には、あなたの力が必要なの。王国の旗を再び掲げ、帝国の支配を覆すためには、アトラスに干渉できる『王の血脈』が、王太子の存在が絶対に要る。」
ゼノは一歩、後退した。
(やっぱりそうだ。)
目の前に立っているのは、かつて王都の朝に「また明日ね」と笑い合っていた、あの無邪気な幼馴染ではない。
人を逃がし、切り捨て、薬箱と情報を秤にかけ、王国の復活という巨大な重荷を背負って泥の中を歩いてきた、抵抗組織の現場指揮官「エリアナ・レオハルト」だった。
「俺は、ノア・グレイだ。」
ゼノは冷たく言い放った。
「王太子ゼノは、十二年前のあの炎の中で、両親と一緒に死んだんだよ。俺はこの街で、ただの修理屋として生きてきた。王家の旗なんてものに、興味はない。」
「ノア・グレイとして生きる安寧なら、もう数時間前に終わったはずよ。」
エリアナの言葉は、冷酷なまでに正しかった。
「工房は壊され、ヘイマー様は捕らわれ、帝国はお前の『手』を求めてこの坑道を塞ぎ始めている。今更、ただの修理屋に戻れると思っているの?」
ゼノは言葉に詰まった。
確かにそうだ。安寧はもう、音を立てて崩れ去った。戻るべき場所など、どこにも残されていない。
それでも、目の前のエリアナが掲げる「王国の再興」という大義名分に、自らの自由意志を明け渡すことだけは、どうしても拒絶したかった。
ヘイマーの「見捨てるな、見つかるな」という教えは、帝国から隠れるためだけのものではない。
誰の支配にも屈せず、ただ己の技術と手順で、自らの進路を決めて生きろという意味でもあったはずだ。
「ついてはいけない。」
ゼノは工具箱を強く抱え直した。
「俺には、行くべき場所がある。お前たちの戦いとは関係ない場所だ。」
「どこへ行くというの?」
「第一エーテルリアクター跡だ。」
ゼノがその固有名詞を口にした瞬間、エリアナの琥珀色の瞳に、鋭い警戒の光が走った。
「リアクター……? なぜ、そんな危険な場所へ。」
「母さんの布袋と、リックが拾ってきたこの円盤が、そこを指し示している。俺は、壊れた仕組みを直すために、この目で見に行かなければならないんだ。」
エリアナはゼノをじっと見つめた。
その視線は、かつての王子を憐れむものではなく、一人の頑固な「技師」の芯を見極めようとする、実務者の厳しい目だった。
やがて、彼女は小さくため息を吐き出した。
「分かったわ。ここで力ずくでお前を連れ帰っても、意味はない。」
「諦めるのか?」
「いいえ。状況がお前を諦めさせないだけよ。」
エリアナは魔光灯を消し、再び辺りを濃密な暗闇へと戻した。
しかしその暗闇の奥から、彼女の強い体温と、鋼のような決意の気配がはっきりと伝わってくる。
「坑道の入り口は、すでに帝国軍によって封鎖され始めている。このままでは、お前はリアクターにたどり着く前に、ネズミ捕りに引っかかるわ。」
「……お前たちは、どこから入ってきた。」
「秘密の旧水門水路よ。そこからなら、帝国の包囲網を抜けて、吸気山脈の麓まで出られる。」
ゼノは暗闇の中で、己の唇を噛んだ。
拒絶したばかりの相手の「避難路」を借りなければ、目的地へ進むことすらできない。その屈辱的な現実が、ゼノの胸を小さく抉った。
エリアナが暗闇の中から告げた。
「水門へ急ぎましょう。案内するわ。」
「……分かった。」
「ただし、ゼノ。」
彼女の気配が、一歩、ゼノのすぐ近くまで近づいた。
十二年の隔たりを超えて、彼女の纏う鉄と泥の匂いが、ゼノの鼻腔を掠める。
「安全な場所へ出たら、次に進む前に、必ず『王国』の話をさせてもらうわ。私はお前を、ただの野良技師として野垂れ死にさせるために、ここまで来たわけじゃないから。」
ゼノは答えず、暗闇の中で、ただ右手の精密ドライバーの柄を、静かに握り直した。




