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鉄錆の王国  作者: VEPLE
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レノーラの布袋

暗闇は、鉄と冷たい泥の味がした。


石の斜面を滑り落ちたゼノは、濡れた岩肌に背中を強く打ち付け、短い呼吸を吐き出した。右腕の工具箱は抱えたままだ。中に入っている真鍮の円盤が、胸骨のすぐ下で、まだ微かに余熱を帯びて震えている。


上空──排水路の錆びついた格子蓋の隙間から、帝国の青白い捜索灯の光が、生き物の触手のように暗い水面を舐めていた。


「ノア。」


頭上から降ってきたのは、足音よりも先に、しわがれた低い声だった。


ヘイマーが、木杖を泥に突き立てながら斜面を滑り降りてきた。不自由な足をかばう手つきは荒々しかったが、その呼吸は驚くほど乱れていない。彼はすぐにゼノの襟首を掴み、頭上の格子蓋から死角になる、古い水路の分岐点へと引きずり込んだ。


「……ヘイマー、無事だったのか。」


「年寄りの心配をする暇があるなら、息の仕方を思い出せ。」


ヘイマーはそう言い捨てると、ゼノの胸元を乱暴に叩いた。

そこには、逃げ際に手渡された、あの古い革の布袋が押し込まれている。


「持っているな。」


「ああ、母さんの、レノーラの布袋だって言ったな。どうして今まで──」


「上を見ろ。」


ヘイマーが杖の先で天井を指した。

格子の向こう側で、激しい軍靴の音と、帝国兵たちの怒声が響いている。

『裏口から地下水路へ逃げ込んだ形跡あり! 執行班は第三区画の点検口へ回れ!』


「時間が惜しい。一度しか言わんぞ。」


ヘイマーは木杖を壁に立てかけ、ゼノの抱える工具箱の蓋を迷いなく開けた。そして、その底板の隙間に押し込まれていた革の布袋を引っ張り出し、作業台の上で行うように、手際よく結び紐を解いた。


湿った暗闇の中、ヘイマーの手元だけを、格子の隙間から漏れる青白い捜索灯の残光が、頼りなく照らし出す。


布袋の中から現れたのは、母の形見と呼ぶにはあまりに無骨で、実用的な「道具」の数々だった。


──黒ずんだ銀の刻印が施された、手のひらサイズの歪んだ金属片。

──煤と油が染み込み、王国時代の幾何学回路図が細かく描かれた、極薄の古い紙片。

──先端が僅かに曲がった、ゼノが見たこともない形状の極細のピンレンチ。

──そして、帝国規格には存在しない、琥珀色の丸い結晶が詰まった小さな遮光薬瓶。


ゼノは、それらを見つめたまま息を呑んだ。


「これは……。」


「レノーラから預かったものだ。お前がいつか、あの工房の外へ歩み出る日が来た時のために、あの女が命がけで遺した備えだよ。」


ヘイマーは金属片を指先で弾き、乾いた低い音を暗闇に響かせた。


「だが、それが何を動かすためのものか、どこで使うべきものなのかは、わしには一切教えんかった。」


「そんなはずはないだろ! あんたは母さんと約束を──」


「約束したのは、お前を生かして、この道具を渡すことだけだ。」


ヘイマーはゼノの目を、落ち窪んだ暗い眼窩の奥から真っ直ぐに見つめ返した。


「知らんまま、この街の平凡な修理屋として一生を終えられるなら、そのほうが遥かに良かった。だからわしは教えなかった。……だが、お前は揚水機を開けた。自分でその境界線を踏み越えたんだ。」


老技師の言葉は、冷たく、そして重かった。


「中身の使い方は、お前が自分で見て、お前の指先で触って決めろ。お前には、そのための『手』がある。」


「ヘイマー……。」


ゼノは、指先で金属片の歪んだ輪郭をなぞった。

冷たい鉄の感触の奥から、言葉にはならない、しかし確かに自分を促すような微かな熱が伝ってくる。


母レノーラは、王子としての自分を守るためだけに、この道具を遺したのではない。

いつかすべてを奪われ、暗闇に突き落とされた時、**「ただ守られるだけの子供で終わるな」**と、その背中を工具で突き動かすために、これを託したのだ。


その意思の重さが、布袋の重量となってゼノの両手にずっしりと伝わってきた。


『地下水路の捜索網を広げろ! 逃がし管の圧が完全に下がりきる前に確保するんだ!』


上空の格子蓋のすぐ近くで、小銃の遊底を引く鋭い金属音が響いた。


ヘイマーは即座に布袋をまとめ、ゼノの工具箱の中へと押し戻した。そして、乱暴に蓋を閉めると、ゼノの胸を強く突き放した。


「行け、ノア。」


「あんたはどうするんだ?」


「わしは北坑道の点検口へ回る。帝国兵どもの耳は、古い木杖の音によく反応するからな。」


「駄目だ! そんな脚で囮になれば、今度こそ捕まる!」


ゼノはヘイマーの外套を掴もうとしたが、老技師の木杖がその手を鋭く叩き落とした。


「お前が捕まれば、レノーラの遺したものはすべて灰になる。この十二年が、ただの無駄死にに変わるんだよ!」


ヘイマーのしわがれた声が、暗い排水路の壁に低く反響した。

「見捨てるな。だが、見つかるな。わしがお前に教えた最後の修理の手順だ。──行け!」


ゼノは、手堅く差し伸べようとした手を、自身の工具箱の取っ手へと戻した。

ここで立ち止まり、師匠の脚を引っ張ることは、「優しさ」ではない。自分を逃がすために工房を、これまでの生活をすべて壊した老技師の覚悟を、泥で汚すことだ。


自分が今すべきなのは、泣き言を言うことではなく、この託された道具の意味を、生きて解き明かすことだけだった。


「……死ぬなよ、ヘイマー。」


「誰に向かって口をきいている。」


老技師はひねくれた薄い笑みを一度だけ浮かべると、二度と振り返ることなく、暗闇の奥へと木杖を力強く叩きつけながら歩き出した。

わざと大きく、壁に反響するような音を立てて。


『水路の奥に足音あり! 第三区画へ急行せよ!』


帝国兵たちの騒がしい靴音が、ヘイマーの去った方角へと一斉に遠ざかっていく。


ゼノは工具箱を抱え直し、逆の暗闇、北坑道へと続く古い崩落防止用の木枠の隙間へと、滑り込むように走り出した。

背後で、囮となった師匠の杖の音が、暗い水音に混じって小さく消えていく。


涙は出なかった。

ただ、工具箱を抱える腕の筋肉が、引きちぎれそうなほどに張り詰めていた。


どれほど走っただろうか。

足元の冷たい泥水が徐々に枯れ、周囲の壁が石造りの排水路から、剥き出しの黒い岩肌へと変わっていく。北坑道──十二年前に完全に放棄され、帝国の採掘記録からも外れた、アイゼンベルクの「骨」の領域だった。


空気は乾燥し、鼻腔を突くのは古い泥と、微かな可燃性ガスの匂い。


ゼノは息を切らせながら、坑道の分岐点の壁に背中を預けた。

工具箱を地面に置き、暗闇の中で、母の布袋から取り出したあの琥珀色の薬瓶を口にする。乾いた苦い粉末が喉を焼き、肺の奥の痛みが、ゆっくりと退いていくのが分かった。


(守られるだけの時間は、終わった。)


すべてを聞けないまま、答えを与えられないまま、不十分な材料だけで、次に進むべき進路を自分で決める。

それは恐ろしいことだった。だが、同時に、自分の指先がようやく自由になったのだという、奇妙な高揚感が胸の奥で微かに弾けた。


ゼノは工具箱の底から、あの真鍮の円盤を再び取り出した。

針はもうない。だが、円盤を手に持っているだけで、北東の暗闇の奥から、かすかな「脈動」が伝わってくる。


第一エーテルリアクター跡。


壊れた世界を直すための、最初の目的地。


ゼノが再び工具箱を抱えて立ち上がろうとした、その瞬間。


前方の、完全な暗闇に沈んでいるはずの坑道の曲がり角から、微かな「砂利の擦れる音」が響いた。


帝国兵の軍靴の音ではない。もっと軽く、しかし極めて俊敏な、獲物を狙う野生動物のような足音。


ゼノは息を止め、工具箱の脇から、最も鋭利な精密ドライバーの柄を、自らの指の骨が軋むほどの力で握りしめた。


暗闇の向こうから、冷たい風が吹き抜けてくる。


その風の中に、確かに「人の気配」が混じっていた。

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