襲撃
扉は、二度叩かれた。
客の叩き方ではない、とゼノは思った。
客なら、この錆びた鉄鈴を鳴らすか、立て付けの悪い木枠を労るように叩く。だが向こう側の意思は、厚い板の向こう側から直接、工房の空気を揺らすような暴力的な音を立てていた。魔光灯の覆いは完全に下ろされ、工房は暗闇に沈んでいる。作業台の上には、さっきまで吸気山脈を指し示していた真鍮の円盤の、冷たい気配だけが残っていた。
ヘイマーは返事をしなかった。ただ、暗闇の中で杖を握る手が、かすかに革紐と擦れる音だけが聞こえた。
扉の前でも、相手は待たなかった。
「帝国巡察管理局補助執行班だ。設備検分および押収確認を行う。開扉を」
淡々とした声だった。昼間、この町の揚水機の前で聞いたマルセル・クラインの声音に近い。だが、その背後に混じる鉄板と革の擦れる靴音は、一人や二人のものではない。小隊規模の重さがあった。
ヘイマーが低く、しかし驚くほど静かな声で言った。
「工具箱を持て」
ゼノは屈み、使い慣れた木箱の取っ手を握った。二段式の底板の下には、先ほど布で厳重に包んだ真鍮の円盤が収まっている。重さはいつもと変わらないはずなのに、箱の中にアイゼンベルクでの十二年分の生活すべてを押し込んだような、 鉛じみた重みがあった。
古い蝶番が悲鳴を上げ、扉が内側へ押し開けられる。外の湿った夜気と一緒に、鉄錆と雨合羽の革の匂いが暗がりに流れ込んできた。
「待て」ヘイマーが杖の音を一つ立てて前へ出た。「年寄りの工房だ。乱暴に壊したら、直す部品も出んぞ」
「だから夜には踏み込むなと言ったのだ、地方兵どもは」
外套に染み込んだ雨を払いながら、マルセルが最初に入ってきた。その手にはすでに、青く光る測定杖と、記録用の石板が握られている。彼の後ろには、鎧の胸当てをつけた帝国地方兵が四人、手にこじ開け棒や短い破城具を持って並んでいた。
マルセルの静かな目が、暗がりの中でゼノの足元にある工具箱で止まった。
「ノア・グレイ」
帳簿の偽名で呼ばれた瞬間、ゼノは首筋がわずかに冷えるのを感じた。
「旧王国由来の未登録部品を所持、および隠匿している疑いがある。直ちに提出を求める」
提出、で済む段階ではないことは、後ろの地方兵たちの、苛立ちを隠さない呼吸で分かった。彼らにとって辺境の廃鉱町は、ただの「記録外の塊」に過ぎない。
ゼノは工具箱を握ったまま、一歩だけ前に出た。
「入るなら、裏の蒸気炉には触るな」
地方兵の一人が鼻で笑った。
「小僧、役人に命令する気か」
「命令じゃない。怪我をしたくなければ、という忠告だ」
ゼノの声は平坦だった。怒りではなく、機械の構造を説明するときの冷たさを意識した。
「あの炉は、乾燥棚へ圧を送り続けている。炉蓋をいきなり開ければ、配管の圧が逃げ場を失って、壁の古い逃がし管が先に裂ける。そこから吹き出す過熱蒸気は、目に見えない。触れただけで腕の肉が溶けるぞ。この工房だけで済めばいいが、配管は隣家の壁にも噛んでいる」
マルセルが眉をわずかに動かし、背後の兵に手を挙げた。
「……裏の釜には触れるな。まずは作業台と棚の検分を優先する」
地方兵は不満げに舌打ちしたが、こじ開け棒を引いた。その瞬間、ゼノの脳内では工房の「三次元の配管図」が静かに回っていた。
裏の蒸気炉の逃がし弁は、確かに老朽化している。だが、そこから噴き出す蒸気は、隣家へ回る前に、作業台の左上にある古い研磨機の駆動軸にぶつかる構造になっている。
(直せはしない。だが、壊し方は選べる)
ゼノは呼吸を整えた。
兵たちを裏の釜から遠ざけたのは、彼らを守るためではない。被害をこの「工房の内側」だけに閉じ込め、かつ逃走のための時間を作る「隙間」を計算するためだ。
兵の一人が、作業台の陰にある古い棚へ近づく。そこには、帝国規格に合わない旧王国の補助歯車がいくつか転がっている。
「そっちの棚は、棚受けのボルトが死にかけている」ゼノはわざと言葉を投げた。「触ると落ちるぞ」
「うるさい小僧だ。これは押収品だ!」
案の定、兵は言われた通りにされるのを嫌い、わざと乱暴にこじ開け棒を棚の隙間にねじ込んだ。
金属が軋み、ボルトが千切れる甲高い音が響く。
ゼノはその音の高さから、吊り棚の鎖が受ける負荷を瞬時に計算した。──半秒遅い。
彼は自ら工具箱を置き、床の上を滑るように研磨機の駆動レバーへ手を伸ばした。
「下がれ!」
ゼノが叫ぶのと同時に、研磨機の補助軸が狂った角度で噛み合い、轟音を立てて逆回転を始めた。研磨石が火花を散らしながら砕け散り、その衝撃で天井から吊り下げられていた鉄板の束が、雪崩のように地方兵たちの足元へ崩れ落ちた。
「うわああ!」
「光を当てろ!何が起きた!」
暗闇と火花、そして崩落した鉄の音で工房内は一瞬にして混沌に包まれた。マルセルが外套で顔を覆いながら一歩引き、地方兵たちは互いに衝突しながら後退する。崩れた鉄板は、完璧に工房の入り口と中央の通路を塞いでいた。ゼノが昼間のうちに、わざと緩めておいた鎖の通りに。
だが、その混乱の最中、ゼノの足元で異変が起きた。
工具箱の底から、あの真鍮の円盤が、誰も触れていないのに低く震え始めたのだ。
──キィィィン……。
耳鳴りのような、しかし極めて澄んだ金属音が暗闇を満たす。
同時に、マルセルが持っていた簡易測定杖の魔光石が、それまでの淡い黄色から、見たこともないほど深く、不穏な「青色」へと一瞬にして染まった。
空気が凍りついた。
その青い光は、地方兵たちの暴動とは全く質の違う、帝国の歴史が最も恐れてきた「波形」を証明していた。
マルセルの目が、驚愕と、冷徹な確信に染まる。彼は崩れた鉄板の向こうのゼノを見つめ、これまでで最も低く、刃物のような声を絞り出した。
「……旧王家認証系。ただの修理屋ではないな」
マルセルはもう「ノア・グレイ」とは呼ばなかった。彼の頭の中で、目の前の少年が「帝国の敵」として再分類されたのが分かった。
ヘイマーが、ゼノの前に立ちはだかるように杖を突いた。
「ノア! 箱を掴め!」
「しかし、ヘイマー、俺が逃げたらあんたが──」
「お前が残れば、この町全体が掘り起こされる!」
ヘイマーは振り返らなかった。その背中は、ゼノがこれまで見た中で最も小さく、最も頑強だった。
ヘイマーは懐から、先ほど棚の奥から取り出していた古い革袋をゼノの胸元へ押し付けた。ずっしりとした、しかしどこか温かい重みがあった。
「これを持って行け。レノーラの──お前の母親の布袋だ。いつか渡さねばならんと思っていた。今がその時だ」
「母さんの……?」
ゼノの思考が白く染まる。十二年間、一度も聞かされることのなかった母親の名が、この破壊の夜に、ヘイマーの口からレノーラの名となって零れ落ちた。
「行け! 生き延びろ、ゼノ!」
本名で呼ばれた瞬間、すべての迷いが弾け飛んだ。
ヘイマーが杖先で床の特定の位置を激しく叩く。資材棚の影で、古い機巧の掛け金が外れる重い音がした。隠し地下道への入り口だ。
ゼノは布袋を工具箱に押し込み、箱を抱えて裏戸へと走った。
「追え! 逃がすな!」
マルセルの鋭い命令が響くが、彼らとゼノの間には、先ほど崩れ落ちた鉄板の山と、異常回転を続ける研磨機が立ち塞がっている。
裏戸を蹴り開けると、湿った石と古い排水の匂いが顔を打った。
雨の夜気の中、錆びついた排水路の点検口が目の前にある。ゼノは片手で工具箱を抱えながら、もう片方の手で、ヘイマーから叩き込まれた古いドライバーを鍵穴にねじ込んだ。
力ではない。手順だ。
押して、二山ずらし、左へ回す。
カチャリ、と小気味よい音がして、半分固着していた鉄蓋が荒々しく跳ね上がった。
背後で、扉の向こうから激しい靴音が近づいてくる。
ゼノは迷わず、暗い穴の中へと身体を滑り込ませた。落ちていく視界の端で、工房の窓から白い蒸気が激しく噴き出すのが見えた。配管の圧力が臨界を超え、逃げ場を失った蒸気が夜の中へ白煙の柱を立てている。
あの工房は壊れた。
自らの手で、壊したのだ。
けれど、あれで帝国が町へ伸ばす爪は、一時的にせよ確実にへし折られた。
冷たい石の斜面を滑り落ちながら、ゼノは闇の中で深く息を吐き出した。
敗けた、とは決して思わなかった。
ただ、もうあの錆びた工房の朝には戻れないのだと、その痛みを胸の奥に刻みつけていた。




