王冠ではなく工具を
「ゼノ。」
エリアナが、ゼノの両手を包み込むように強く握りしめた。
その手のひらは、先ほどまでの激しい戦闘のせいで冷たく、微かに震えていた。彼女の琥珀色の瞳には、世界の崩壊という巨大な真実を前にした、切実な「祈り」が宿っていた。
「アトラス全体が死にかけているなら、なおさらよ。ヴァルデンの王家が、再びこの地に旗を掲げるべきだわ。人々を導き、アトラスの心臓を繋ぎ直すことのできる王が、今こそ必要なの。王として立って、ゼノ。私たちが、私の命のすべてを賭けて、あなたを支えるから」
それは、己の野心のためではない。
泥と血の海に沈みかける世界の民を、何とかして繋ぎ止めたいという、彼女の真摯な叫びだった。
だが、ゼノはゆっくりと、しかし拒絶の意志を込めて、エリアナの手を引き剥がした。
彼はコンソールの上に置かれた、傷だらけの精密ドライバーとレンチを見つめた。その金属の肌には、ゼノがこれまで直してきた数々の揚水機や歯車の「錆」が、誇りのように焼き付いている。
「俺は、王にはならないよ、エリアナ」
「どうして……? あなたには、アトラスを直すことのできる血が、ヴァルデンの名があるのに!」
「王様っていうのはさ」
ゼノは、背負った古い工具箱の革紐をきつく締め直した。
「高い玉座から世界を見下ろして、犠牲にするものを選ぶ仕事だ。だからアトラスは、下層の町を切り捨て、目詰まりを起こして壊れるまで放置されたんだ。そんな王冠、俺には要らない」
ゼノは汚れた精密ドライバーを拾い上げ、工具袋へ無造作に差し込んだ。
「俺が背負うのは王冠じゃない。この工具箱だ。高いところから世界を治めるんじゃなくて、壊れている配管の前に這いつくばって、泥と油にまみれて、一つ一つ直していく。それが俺の、技師のやり方だ」
ゼノの瞳には、かつて工房の暗闇で無言で機械を直していた頃とは違う、強烈な「能動性」が宿っていた。
「王にはならない。だけど、このアトラスの大地が壊れて落ちようとしているなら──直さなきゃならない。アトラスの各地で死にかけているリアクターを、俺は直接、この目で見に行く」
その言葉を聞いた瞬間、エリアナの胸の奥で、何かが静かに崩れ落ち、そして新しく組み上がった。
ゼノは、滅びた王国の残響に引きずられているのではない。自らの足で、技師として世界に向き合おうとしている。その圧倒的な意思の強さに、エリアナは呆然としながらも、深く、強く納得するしかなかった。
「……そうね。あなたは、最初からそういう技師だったわね」
エリアナの唇に、十二年ぶりに見るような、微かで優しい笑みが零れた。
「さあ、第一リアクターを完全に眠らせよう。アトラス全体の循環系から、この第一系統を安全に切り離すんだ」
ゼノとエリアナは同時にコンソールへ手を伸ばした。
ゼノの指先から垂れた血が、制御盤の最後の認証スリットに滑り込み、青白い魔導光が最後のハミングを立てる。
二人は息を合わせ、漆黒の完全停止レバーと、主蒸気遮断バルブを同時に引き回した。
ゴォォォォ──。
リアクターの最深部から、巨大な鉄の肺が深いため息を吐き出すような、重厚な排気音が響いた。
冷却水のエーテル循環がゆっくりと停止し、ドック全体を支配していた不気味な脈動が、静かに、そして完全にフェードアウトしていく。
百年の眠りにつくように、第一リアクターは完全に沈黙した。




