ヘイマーの癖
「諦めろ。それは旧王国の『二重刻印』だ」
ギデオンの冷徹な警告が、不気味に安定しつつあるリアクターの低音に混じった。
「正規の認証魔導具か、あるいは対応する呪鍵が無ければ、物理的な圧力すら無効化する。帝国軍が保有する最新の破城槌でも、そのロックを解くには数時間は要する構造だ」
だが、ゼノはギデオンの言葉を完全に無視していた。
彼の視線は、バルブノブの基部に絡みつくように配置された、複雑な金線の彫刻に釘付けになっていた。
「どんなに頑強な刻印だって、魔力が流れる『回路』であることに変わりはない。そして回路である以上、必ずバイパスが仕込んである」
ゼノは目を閉じ、深く息を吐いた。
レノーラの布袋から取り出したのは、一本の極細ピンレンチと、刃先の擦り切れた古い精密ニッパーだ。
レンチを握る前に、ゼノは無意識のうちに、レンチの軸を親指の腹で三度、軽く叩いた。
──チィン、チィン、チィン。
澄んだ金属音がドックの薄暗い大気に響く。
それは、かつて錆びついた揚水機や折れた歯車を前にしたとき、老技師ヘイマーが必ず行っていた、偏屈な職人の無駄に見える「癖」だった。金属の熱膨張による歪みを、微かな打音の響きで聞き取るための、身体に染みついた儀式。
ゼノの頭蓋の裏で、ヘイマーのしわがれた小言が再生された。
『いいか、ゼノ。王国製の二重刻印は、表の金線だけを見るな。職人はな、いざという時の保守用に、裏に隠された予備の銅線に魔力を逃がす隠し経路を必ず仕込む。そこをコンマ一ミリだけ引き抜いて、圧をずらすんだ』
ゼノの指先が、思考よりも早く動いた。
極細ピンレンチの先が、金線の彫刻の隙間に吸い込まれるように滑り込む。カチリ、と内部の微小な物理シリンダーが跳ねる感触が、指先を通じてゼノの脳に直接伝わってきた。
すかさずニッパーの刃先を裏側の錆びついた銅線に潜り込ませ、わずかに刃を食い込ませる。
力を入れすぎれば回路が完全に死に、暴走が再発する。コンマ一ミリの、絶妙な「遊び」を残して引き抜く。
その瞬間、オゾンを帯びた焦げ臭い空気の中に、老ヘイマーが好んで吸っていた、安物の葉タバコの燻り臭が一瞬だけ混じったような錯覚を覚えた。
カチリ──。
古いシリンダーが内側から解放される、重厚な物理的機械音が響いた。
バルブを締め付けていた二重刻印の青白い魔導光が、フッと息絶えるように消え去る。
「回れっ……!」
ゼノは両手をバルブノブにかけ、渾身の力で引き絞った。
ギギギギ、と何十年分もの錆が削れ、真鍮が悲鳴を上げる凄まじい摩擦音がドックに響き渡る。だが、頑強に固着していたバルブは、ゼノの体重を浴びて、ゆっくりと、しかし確実に回り始めた。
ゴボゴボと、並列配管の内部でエーテルが激しく流れる水撃音が響く。
甘く、少し痺れるようなオゾンの匂いが一気に濃くなった。
「ゼノ、見て!」
エリアナが叫んだ。
コンソールの最下段、『アイゼンベルク第三配管系統』の圧力計。
ゼロに張り付いていた指針が、ゆっくりと、震えながら浮き上がり始めた。針は赤の領域を抜け、最低限の供給と維持を示す「黄色」の境界でピタリと留まった。
同時に、第一リアクター全体の激しい異常振動が、嘘のようにピタリと収まった。不快な軋み音は消え、中枢ドック全体に、安定した「心地よいハミング」が響き始める。
「繋がった……。濾過機能を殺さずに、町への供給も維持したわ……」
エリアナは鎖鞭剣をゆっくりと下ろし、安堵の息を漏らした。
「信じがたいな。」
ギデオンが、一歩、ゼノの方へと踏み出した。
そのスレートグレーの甲冑の足音が、静まり返ったドックに重く響く。
「魔導局の資料にもない放棄配管を、物理的な調整だけで稼働させるとは。やはり、お前は帝国へ連れ帰らねばならん。その知識と技術は、アトラスの延命に不可欠だ」
ギデオンの双眸が、兜の隙間から、冷徹な捕縛の意志をたたえてゼノを見据えた。




