使う者、守る者
「バリケードを急ぎなさい! 残り時間は三分も無いわ!」
エリアナの声が、赤く点滅する警告灯のなかで響き渡った。
古参兵たちが、ドックから中枢へと続く古い鉄製の搬送レールや重油ドラム缶を引きずり、即席の防衛線を構築していく。金属同士の軋む摩擦音が、空間全体を不穏に揺らしていた。
「エリアナ。」
背後から彼女を引き留めたのは、副官のミラだった。
その琥珀色の瞳は、赤く染まった空間のなかで、爬虫類のように鋭く冷たかった。
「本当に、あの少年をこのまま自由にするつもり? 彼はアトラスを制御しうる唯一の鍵よ。彼を我々の管理下に置き、王国の旗を掲げさせなければ、これまでの犠牲はすべてただの無駄死に変わる。」
エリアナはバリケードの土台を掴んだまま、きつく拳を握りしめた。
「……私は、彼を道具として消費するためにここまで来たわけじゃない。ゼノを一人の人間として生かしたいのよ。」
「あなたは『折れたる獅子』の指揮官です。」
ミラの声は、刃物のように冷酷だった。
「個人的な幼馴染への同情のために、ここにいる何十人もの同胞の命を切り捨てるつもりですか? サー・ダリウスがお前に遺したのは、そのような甘い騎士の心ではなかったはずよ。」
父、ダリウスの名前。
その名が出た瞬間、エリアナの左手首に結びつけられた「折れた木剣の柄」が、彼女の皮膚を強く圧迫したような錯覚を覚えた。
これまでに自分が救えなかった同胞の顔、泥にまみれて死んでいった仲間たちの冷たい手が、彼女の脳裏に泥水のように溢れ出す。
個人的な未練と、背負わされた指揮官としての冷酷な責任。その二つの巨大な歯車に挟まれ、エリアナの心臓が軋むような痛みを上げていた。
「それでも──」
エリアナが何かを言いかけた、その時だった。
「この野郎! 何をしていやがる!」
ドックの影、瓦礫の山から古参兵の一人が怒号を上げ、若い連絡員の胸ぐらを掴んで床の上へ激しく投げ飛ばした。
連絡員の開いた手のひらから、小さな帝国製の「魔導発信石」が転がり落ち、泥水のなかで鈍い赤い光を放ちながらチカチカと点滅していた。
「こいつがネズミだ! 帝国にいま、中枢の正確な座標を送りやがった!」
ドック内の空気が、一瞬にして殺意で沸騰した。
「違う……違うんだ!」
若い連絡員は床を這い回りながら、涙を流してエリアナを見上げた。
「俺の家族が、アイゼンベルクの収容区で帝国の人質になっているんだ! こうするしかなかったんだ! 協力しなければ、妹が殺されると……!」
エリアナは息を呑み、その場に立ち尽くした。
裏切りは、純粋な悪意から生まれたのではない。
帝国という巨大な支配構造が、下層の民の最も脆い絆を利用して仕組んだ、あまりにありふれた、そして逃れようのない「汚れた罠」だったのだ。
だが、現実は待ってくれない。
発信石の赤い点滅は、すでに中枢の正確な座標が、ギデオンの追跡部隊へ完全に送信されたことを証明していた。
「……手遅れよ。」
ミラが短剣を引き抜き、冷たく床の連絡員を見下ろした。
「包囲網は、すでにこの部屋のすぐ外まで縮んでいるわ。」
水門ゲートの向こう側から、巨大な火薬の爆破音が響き、ドック全体の岩盤が激しく激震した。
内通者の裏切りが決定的な現実となり、防衛戦が始まる直前の、凄まじい緊迫感のなかで、エリアナはただ、自らの短剣の柄を、手のひらの血が滲むほどの強さで握りしめるしかなかった。




