白い塔からの命令
帝都アルカディアの天を突くようにそびえ立つ、帝国最重要観測施設「白塔」。
その最上階にある観測室では、直径十メートルを超える巨大な真鍮製の「高度天秤」が、不気味な青白い光を放ちながら、ミリ単位で微かに揺れていた。天秤の左右に配された、大陸中央部のマナを模した青い魔光石と、大陸全体の浮力を示す白い水晶。その均衡は、いまや誰の目にも明らかなほど、右へと──「落下」の側へと傾いていた。
「……マナの枯渇速度が、予測値をさらに上回っています。」
天秤を見上げる宮廷観測官エラスの声は、張り詰めた糸のように細かった。
「アトリア大陸の高度、本年の沈下幅は四十二メートルに達しました。元老院の皆様、これは単なる一部の魔力溜池の不調ではありません。大陸全体の浮力を制御している、あの機巧の神──『アトラス』の呼吸そのものが、止まりかけているのです。」
円形の観測室を囲むように配置された、黒い法衣を纏った帝国元老院の老魔道士たち。
彼らの間に、冷たい、しかし焦燥に満ちた沈黙が走った。
帝国が表向き「野蛮な禁忌の力」として弾圧し、焼き払ってきたヴァルデン王国の機巧魔法。
だが、その真の目的は、大陸落下という「アトリア全土の滅亡」を回避するため、古代人が遺した環境維持システム「アトラス」の接続権を、帝国が独占・確保することにあった。
「前皇帝ヴァレリウス四世は、外交による解決を模索した。」
暗がりのなかから、元老院の重鎮がしわがれた声を響かせた。
「だが、あの穏健な皇帝は、我々に残された時間の少なさを見誤った。……アトラスが停止すれば、帝国も、無才の民も、辺境の泥にまみれた奴隷どもも、全員が十五万メートルの虚空を落下し、地上の奈落で塵に変わるのだ。」
「だからこそ、ジュリアス陛下が立たれたのだ。」
別の魔道士が、新皇帝の名を畏敬を込めて口にした。
前皇帝の急死のあとを継ぎ、血なき革命によって元老院を掌握し、アークライト神聖帝国の頂点に立った老魔道士、ジュリアス・アークライト。
彼は即位と同時に、ヴァルデン王国への全面侵攻を宣言し、たった数日で王都エーデルブルクを灰にした。
すべては、十二年前にヴァルデンのアルトリウス王が、アトラス深層へ強力な探査信号を発信したことに端を発している。
あの信号は、アトラスが「新たな監視者(生体デバイス)」を、王家の血脈による完全な認証入力を要求している兆候だったのだ。
アトラスは、血によってのみ起動し、血によってのみ安定する。
「……属州ヴァルデンからの報告です。」
エラスが震える手で、一枚の観測石板を掲げた。
「アイゼンベルクの旧坑道において、王妃レノーラの遺品と思われる認証回路が、王太子のレガリア・コードと同期しました。波形は、吸気山脈の『第一エーテルリアクター』へ向けて動き始めています。」
「動いたか、鍵が。」
元老院の長が、冷徹な確信を込めて立ち上がった。
「ジュリアス陛下からの勅命だ。直ちに第三部隊のギデオンへ伝達せよ。手段を問わず、レガリアを生存回収せよ。死体ではアトラスの中枢は開かない。必ず、生きたまま帝国へ連れてこい。」
──そして、時を同じくした、嵐の夜の属州ヴァルデン。
帝国軍前線司令部の執務室で、ギデオンはその命令が刻まれた純白の書簡を砕き、不敵な薄い笑みを浮かべていた。
指先から散る赤い火花が、雨の夜気の中に消えていく。
「生存捕縛、か。元老院の老人どもは、相変わらず注文が多いな。」
ギデオンは外套の襟を立て、背後の闇に潜む「亡霊」の魔導兵たちを見据えた。
「ネズミ(内通者)が売った位置情報は正確だ。獲物は旧水門の地下ドックに追い詰めた。全隊、突入を開始せよ。」
「はっ!」
「生かして連れてこい。彼には、この錆びた世界のバグを直すための、重い人柱(仕事)が待っているのだからな。」
ギデオンの冷酷な命令が、雨音の響く廊下へと溶けていった。
帝都の白塔が示す「世界落下の秒読み」と、辺境の泥の中で繰り広げられる「鍵の争奪戦」が、旧水門の湿った暗闇のなかで、一つの巨大な奔流となって今、激突しようとしていた。




