直せないもの
「誰だ。誰が帝国に位置を売った。」
暗がりのなか、古参兵の一人が抜いた短剣の先を、隣の若い連絡員に向けた。
「お前か? 昨日、一人で外へ連絡に行っていたな!」
「違います! 俺はただの買い出しで──」
「静かにしなさい!」
エリアナの鋭い叱責が響いたが、一度生じたひび割れは、水を吸った粘土のように音もなく広がっていた。
誰もが背中を壁に預け、互いの手の位置を警戒し、ドックの湿った空気のなかに濃密な猜疑心が満ちていく。ミラは無言で腕を組み、冷徹な目で一同を見回している。
「犯人捜しをしていても、コンクリートが固まるより遅いぞ。」
ゼノの冷淡な声が、いがみ合う一同の間に割り込んだ。
「帝国がどう動いているか、直接耳を澄ませばいいだろ。」
ゼノはアゴで、ドックの隅にある瓦礫の山を指した。
そこには、十数年前に王国が放棄した、錆びだらけの巨大な「機巧魔導通信機」が、鉄くずのように転がっていた。外板はひしゃげ、煤けた同調用ガラス管は半分白く固着している。
「そんな骨董品、動くわけがないわ。」
ミラが鼻で笑った。
「王国陥落時に中枢の同調結晶は砕かれ、帝国規格の代替品も噛み合わない。三年前、我が組織の主任技師が二日かけて匙を投げた代物よ。」
「だから、そいつは『普通の技師』だったんだろ。」
ゼノは静かに言うと、自らの工具箱をドックの木箱の上に広げた。
蓋を開けると、整然と並んだレンチやペンチが、ランプの淡い光を浴びて鈍く輝く。その端には、ヘイマーから託された、あの古い精密ドライバーが収まっていた。
「見なければ、直せない。直せば、状況は変わる。」
ゼノは呟き、迷いのない手つきで通信機のひしゃげた真鍮製外板を外し、内部の構造図を指先でなぞった。
頭のなかで、通信機の三次元の配管と魔導回路が、立体図となって静かに回り始める。
(問題は中央の同調結晶じゃない。帝国製の代替結晶を無理やりねじ込んだせいで、基盤のエーテル伝達ラインが、半歯分だけずれて歪んでいるらしい。)
ゼノは精密ドライバーを手に取り、基盤を固定している四隅の錆びたボルトに先端を噛み合わせた。
手順だ。力ではない。
右に一山ずらし、錆の固着を「臨界の強さ」でねじ切るように緩める。
チリ、と硬い金属音が響き、ボルトが滑らかに抜けた。
次に、彼はレノーラの布袋から、あの「極細のピンレンチ」を取り出した。
基盤の裏側、髪の毛ほどの細さしかないエーテル配線の境界に指先を滑り込ませる。
(ここは、帝国規格の定規では測れない角度だ。だが、この機械にとっては、そこが正しい。)
ゼノは息を止め、ピンレンチの先端で、ずれていた同調回路の角度を、コンマ数ミリ単位で正確に押し戻した。
カチリ、と指先に微小なトルクの感触が伝わる。
さらに、彼は布袋のなかから「琥珀色の薬瓶」を取り出し、そのなかから極微量のエーテルの結晶粉末を指先で摘まんだ。それを、通信機のエネルギー触媒室へと静かに滑り込ませる。
「……うまく噛み合え。」
ゼノが同調ダイヤルをゆっくりと回した、その瞬間。
キィィィン……。
澄んだ金属音のような高周波が、錆びた同調管を満たした。
同時に、同調管の内部が淡い青色の光を帯びて発光し始めた。
同時に、あの独特の「焼けた埃のような、どこか甘いオゾンの混じった独特の金属臭」が、オゾンの匂いとなって周囲の湿った空気を満たしていく。
ざざ……ざ……。
スピーカーから、ノイズの海が吐き出される。
「直った……? 馬鹿な……」
ミラが息を呑み、古参兵たちが武器を構えたまま絶句した。
ゼノはダイヤルをさらにミリ単位で回し、ノイズのなかから特定の魔導周波数をすくい取っていった。
通信機は、手順を踏めば直る。
歯車を削り、配線を戻し、正しい燃料を与えれば、機械はいつでもかつての鼓動を取り戻す。
(だけど──)
ゼノは自分の無骨な指先を見つめた。
(ヘイマーのいたあの錆びた工房は、もう二度と直せない。そして、こいつらの間の、一度ひび割れてしまった信頼関係も、どんな精密ドライバーを使ったって、絶対に直せはしないんだ。)
その切ない内心の痛みを胸の奥に押し込んだ、その時だった。
ざざ……『亡霊三号より全隊へ。旧水門の第二ゲートを完全閉鎖。ネズミからの報告通り、獲物は地下ドックに閉じ込めた。直ちに魔導兵を突入させ、レガリアを回収せよ』……。
スピーカーから流れ込んできたのは、ノイズに混じった、帝国の魔導音声の冷酷な指令だった。
「亡霊」の先回りが、ネズミ(内通者)の報告通りであるという事実。
それがスピーカー越しに、決定的な現実としてドック内に叩きつけられた。
「……来たわ。」
エリアナが琥珀色の瞳を鋭く光らせ、腰の短剣を引き抜いた。
「ミラ、疑い合っている時間はもう無い。動かなければ、全員がここで帝国にすり潰されるわ!」
ゼノは通信機から手を離し、工具箱の蓋を固く閉めた。
スピーカーから流れるノイズは、彼らの安寧が完全に終わり、次の破壊の嵐がすぐそこまで迫っていることを告げるように、暗いドックのなかで激しく波打っていた。




