抵抗組織の値段
地下ドックの冷たい天井から、滴り落ちる汚水が鉄の波板に当たって、規則的な雨音を立てていた。
旧水門水路のさらに底──かつて王都の治水弁を制御していた古い整備用ドックに、抵抗組織「折れたる獅子」の最前線連絡拠点は築かれていた。薄暗いオイルランプの灯りが、錆びついたクレーンの支柱や、泥のついた木箱を頼りなく照らしている。空気は湿っており、重油と安物の消毒液の匂いが混じり合って鼻腔を突いた。
「よく無事で戻ったわ、エリアナ。」
ランプの傍らから立ち上がったのは、副官のミラだった。
王国騎士団の古い制式胸当てをつけたその女性は、深く刻まれた眉間の皺をわずかに緩めたが、その目は即座に、エリアナの背後に立つゼノへと向けられた。
ドックの影に身を潜めていた、数名の残党兵たちの視線が一斉にゼノに突き刺さる。
それは、かつての君主を拝む「忠誠」の輝きではなかった。
値踏みし、疑い、かつ利用価値を推し量るような、飢えた獣の冷たい視線だ。
「ゼノ様よ、ミラ。」
エリアナが濡れた外套を脱ぎながら、毅然とした声で告げた。
「アイゼンベルクで生存を確認したわ。ヘイマー様がその身を呈して逃がしてくれた。」
「……本当に、ゼノ・ヴァルデン王太子殿下なのですね。」
ミラは一歩前に進み、ゼノの泥で汚れた無骨な手と、右腕に抱えられた木製の工具箱へと目を落とした。
「十二年間、一度も我々の連絡網に現れなかったお方が、辺境の廃鉱町で平凡な修理屋として生きていたと。……我々がどれほどの血を流し、同胞を失ってきたか、ご存知ないままに。」
そのしわがれた声には、明確な棘が含まれていた。
ゼノは工具箱の取っ手を握る手に、無意識に力を込めた。
「……俺はノア・グレイだ。あんたたちが流した血の量は知らないし、王太子なんていう飾り物の名前に用は無い。」
「言葉が過ぎるわ、ノア!」
エリアナが鋭く割って入った。
「ミラ、彼は工房を壊され、師を奪われたばかりよ。無用な詮索は──」
「詮索ではありません、エリアナ。」
ミラは冷淡にエリアナの言葉を遮り、再びゼノをじっと見つめた。
「我々にとって、王家の名はただの思い出ではないのです。アトラスの防衛機構を通過し、第一リアクターを起動できる唯一の『生体デバイス(認証キー)』。彼が生きてここにいることこそが、帝国に対抗するための最大の切り札になる。」
残党兵たちの一人が、暗がりの中で小さく、しかし卑しい安堵の息を吐き出した。
『これで第一リアクターが動く……』
『これで、帝国と対等に渡り合えるぞ……』
彼らの頭の中で、自分が一人の人間ではなく、ただの「便利な起動用キー(工具)」として消費されようとしているのが、ゼノにははっきりと分かった。
かつて王都で甘やかされていた王子としてではなく、泥の中で十二年を生き抜いてきた「技師」としての防衛本能が、首筋を冷たく逆撫でする。
「俺をアトラスの鍵として売りたいなら、そう言えよ。」
ゼノの声は平坦だったが、ドックの空気を一瞬にして氷結させるだけの冷たさがあった。
「王だの復興だの、綺麗に包装された旗を振る必要はない。アトラスを起動させて、帝国の魔力網をへし折りたいから、俺の『血』を貸せと言えばいい。その方が、職人の交渉としては遥かに話が早い。」
「ノア……!」
エリアナが痛ましそうにゼノの顔を見つめた。
ミラは眉を動かさず、ただ静かに一歩引いた。
「……交渉であれば、後にしましょう。今は生き延びることが先決です。」
**その時、地下ドックの鉄扉が、激しい音を立てて内側へ押し開けられた。**
入ってきたのは、泥だらけの外套を纏った若い連絡員だった。その顔は恐怖に青ざめ、肩で荒い息をしている。
「ミラ様、エリアナ様! 情報屋のレムから緊急の暗号電が届きました!」
「レム? あの守銭奴が、こんな嵐の夜に何の用だ。」
ミラが不気味に問い返した。
「帝国の機密魔導局・第三部隊『亡霊』が、旧水門の全封鎖を開始したとのことです! 我々が使ってきた避難路の先回りを完了し、このドックへ向かって包囲網を縮めていると……!」
「何だと?」
エリアナが腰の短剣の柄に手をかけた。
「そんなはずはないわ。旧水門の隠しルートは、一部の幹部しか知らない極秘の経路よ。帝国がこれほど迅速に先回りできるわけが──」
「……裏切り者がいるのよ。」
連絡員が怯えた声で、ドック内の全員を見回した。
「レムからのメッセージの末尾です。──『避難路の位置情報が、数時間前に帝国へ売られた。ネズミは、お前たちの身内にいる』と。」
空気が、凍りついた。
ドック内にいた残党兵たちが、互いに一歩引き、互いの手の位置と視線を警戒し合う。
ミラの琥珀色の目が鋭く細まり、エリアナの短剣を握る指先が、怒りと猜疑心で白く強張っていくのが見えた。
つい数秒前まで「王国の復興」という大義名分で緩く繋がっていたはずの味方同士の信頼が、たった一言の「内通の疑惑」によって、ガラス細工のように粉々に砕け散った瞬間だった。
ゼノは暗闇の中で、工具箱の脇に結びつけられた、ヘイマーのあの古い精密ドライバーの柄を静かに握り直した。
戻るべき工房は、もう無い。
**そして、たどり着いたはずの避難所もまた、安全な場所などではなかった。**
冷たい雨の匂いが、地下ドックの床を這うように流れ込んできた。




