追跡者ギデオン
窓硝子を叩く激しい雨の音が、執務室の冷たい静寂をかき消していた。
アトリア大陸の第十三属州──かつてヴァルデン王国と呼ばれた辺境領の、帝国軍前線司令部。その最上階にある執務室は、無駄な装飾の一切が削ぎ落とされ、軍事官僚の合理性だけで満たされていた。壁の魔光灯は極限まで出力を絞られ、床の磨き上げられた黒大理石の上に、頼りない青白い光の輪を落としている。
ギデオン・ラドクリフは、机の上に広げられた数枚の羊皮紙を、無言で見下ろしていた。
平民用の無骨な裁断が施された軍衣。その肩を飾る、銀と黒で織られた帝国機密魔導局・第三部隊「亡霊」の紋章だけが、彼が泥の中から這い上がって掴み取った階級を示している。
「……簡易測定杖の波形データは、これで全てか?」
ギデオンの声は、低く、紙の擦れる音のように乾いていた。
「はっ。アイゼンベルクの現場で押収された巡察報告書と、魔光石のスペクトル記録です。」
机の前に直立不動で立つ副官が、緊張した面持ちで答えた。
「巡察官マルセル・クラインの報告によれば、現地で『ノア・グレイ』と名乗っていた修理屋の少年が、簡易測定杖を異常共鳴させました。その際、魔光石は一瞬にして純度の高い『青』へと染まったと……。」
「青、か。」
ギデオンは細く引き締まった指先で、羊皮紙の端をなぞった。
指先から微細な赤い魔力の火花が零れ、紙に染み込んだインクの輪郭を一瞬だけ赤く浮かび上がらせる。
帝国の簡易測定杖が「青」に染まる。それは、魔力の波形とは全く異なる、古代の機械言語──帝国の歴史が最も恐れ、そして最も渇望してきた「旧王家認証系」の共鳴波を意味していた。
十二年前、燃え盛る王都エーデルブルクの炎の中で、完全に絶えたと思われていた監視者の血脈。
それが、辺境の寂れた廃鉱街で、しぶとく息を繋いでいたのだ。
「マルセル巡察官の判断は迅速でした。直ちに補助執行班を動かして工房を襲撃し、現場を封鎖。……ですが、対象はヘイマーと呼ばれる老技師の囮工作により、北坑道の排水路から逃走したとのことです。」
「ヘイマー。」
ギデオンの薄い唇が、かつて王室付きだった高名な老技師の名を呟いた。
「あの頑固な老いぼれが、十二年間もその手元で『鍵』を育てていたわけだ。帝国を欺き通せると本気で思っていたのなら、滑稽と言うほか無いな。」
ギデオンは立ち上がり、雨の滴る窓辺へと歩み寄った。
窓の向こうには、厚い雨雲に覆われた吸気山脈の、牙のように鋭い稜線が黒々とそびえ立っている。山脈の奥深くには、いまや死に絶えた古代の心臓──第一エーテルリアクター跡が眠っているはずだった。
彼の脳内には、帝都アルカディアの「白塔」から送られてきた、極秘の環境観測記録が刻まれている。
──大陸の高度低下、年間約四十メートル。
──大陸中央部における、自然マナの微細な枯渇速度の上昇。
アトリア全土を天空に繋ぎ止めている環境維持システム「アトラス」は、確実に、そして音もなく朽ちかけている。このままシステムのバグを放置すれば、数十年後には、帝国も、辺境も、無才の民も、全員が地上という奈落の底へ落下して押し潰される。
(綺麗な手で守れるものなど、最初から強い者だけだ。)
ギデオンは窓の向こうに映る、自分の冷徹な琥珀色の瞳を見つめた。
平民の生まれである彼が、泥水をすすり、貴族たちの侮蔑に耐えながら「亡霊」の指揮官にまで上り詰めたのは、世界の崩壊という絶対の破滅から、自分の故郷と下層の家族を物理的に守る地位を手に入れるためだ。そのためなら、王家の残党だろうが、老職人だろうが、喜んで切り刻んで踏み台にする。
旧王国の再興などという、過去の遺物にすがる狂信者たちの旗などどうでもいい。
だが、アトラスに干渉し、浮遊大陸の環境システムを制御しうる「監視者の血」だけは、何が何でも帝国が、ジュリアス皇帝の元老院が手に入れなければならない。
それは、人類が天空で生き延びるための、唯一の冷酷な合理性だった。
「白塔からの緊急伝達です、閣下。」
副官が懐から、純白の封蝋が施された小さな書簡を取り出した。
「アイゼンベルクで観測された『レガリア・コード』の波形と、吸気山脈の深部で発生している微弱なエーテル共鳴が完全に同期しているとのこと。元老院より、第三部隊へ直令が下りました。」
ギデオンは振り返り、その書簡を無造作に受け取った。
指先で封蝋を砕くと、そこにはジュリアス皇帝の直筆による、簡潔な命令が赤く記されていた。
『アトラスの鍵を回収せよ。生存捕縛を最優先とする。』
「抹殺ではなく、生け捕りですか……。」
副官が懸念そうに呟いた。
「レガリアの血脈は、生かしておけば折れたる獅子どもの格好の旗印になります。いっそ息の根を止めた方が安全では?」
「愚か者め。」
ギデオンの声に、冷たい圧力がこもった。
「生きた鍵でなければ、アトラスの中枢は開かない。死体から絞り出した血では、ただの防衛機構の暴走を呼ぶだけだ。あの少年の『手』が生きて動いていなければ、我々は中枢の扉すら叩けんのだよ。」
ギデオンは外套を手に取り、無造作に肩へと羽織った。
黒い生地の端で、銀の「亡霊」の紋章が、冷たく発光したように見えた。
「第三部隊の精鋭を集めろ。アイゼンベルクの北坑道から旧水門水路にかけて、徹底的な追跡網を敷く。鼠の一匹、雨粒の一滴たりとも包囲網から漏らすな。」
「はっ!」
「生かして連れてこい。彼には、王としての重い仕事が残っているからな。」
ギデオンはひねくれた冷酷な笑みを浮かべると、雨音の響く執務室を後にした。
彼の背後で、大理石の床に残された青白い魔光灯の光が、風に揺れるように小さく震えて消えた。




