名前を呼ぶ者
暗い牢の中。
湿った土の臭い。
鉄錆びた血の匂い。
冷たい石壁に背を預けながら、セシルは静かに俯いていた。
両腕は縄で吊るされ、自由はない。
背中には何本もの赤い痕が残っている。
荒い息。
全身が熱を持つように痛む。
(……鶴姫様)
ふと。
脳裏に浮かんだのは、優しい声だった。
***
木漏れ日が揺れていた。
鷲の里。
まだ穏やかだった頃。
小さな庭先で、一人の女性が微笑んでいる。
長い黒髪。穏やかな瞳。
気品と優しさを纏った女性。
鶴姫だった。
「セシル」
柔らかな声。
それだけで、幼い少女はぱっと顔を上げた。
「はい! なんでしょう、鶴姫様!」
まだ幼いセシルが駆け寄る。
その顔には、今よりずっと無邪気さが残っていた。
鶴姫は、そんな彼女を見てくすりと笑う。
「そんなに急がなくても、私は逃げないわ」
「だって、鶴姫様が呼んでくださったので!」
元気よく答えるセシル。
鶴姫は少し目を細めた。
「あなたは本当に真面目ね」
その言葉に、セシルは少しだけ照れくさそうに視線を逸らす。
小さく首を傾げた。
「鶴姫様」
「なに?」
「どうして、私をハヤブサって呼ばないんですか?」
里では皆そう呼ぶ。
本名ではなく、鳥の名で呼び合う。
それが当たり前だった。
だが、鶴姫だけは違った。
少しだけ驚いたように目を丸くしたあと、優しく笑う。
「だって」
そっと、セシルの頬に触れた。
「あなたには、ちゃんと素敵な名前があるでしょう?」
セシルの目がわずかに見開かれる。
鶴姫は穏やかに微笑んだ。
「セシル」
静かな声。
「私は、その名前が好きよ」
その言葉が、胸の奥にすっと染み込んでいく。
セシルは、少しだけ頬を赤らめた。
「……はい」
嬉しそうに、小さく笑う。
鶴姫が眉を寄せる。
「また怪我をしたの?」
「あっ」
セシルが肩をすくめる。
腕には小さな擦り傷。訓練で作ったものだ。
「……少しだけです」
「少しじゃないでしょう?」
鶴姫は困ったようにため息をつく。
「あなたは無茶ばかりするんだから」
だが、その声音に責める色はない。優しさだけだった。
そっと、傷口に触れる。温かな手。
「自分を大切にしなさい」
「あなたが傷つくと、悲しむ人がいるのよ」
セシルは少しだけ目を丸くした。
「悲しむ人……?」
「ええ」
鶴姫は優しく微笑む。
「少なくとも、私は悲しいわ」
その一言に。
幼いセシルは、何も言えなくなった。
ただ、胸の奥がじんわりと熱くなる。
こんなふうに言われたのは、初めてだった。
「……はい」
小さく頷く。
嬉しそうに。
少しだけ泣きそうな顔で。
鶴姫はそんな彼女の頭を優しく撫でた。
風が吹く。
穏やかな午後だった。
ーーもう戻らない日々。
***
「……っ」
現実へ引き戻される。
セシルは薄く目を開いた。
暗い牢。冷たい石壁。血の臭い。
何もかもが違う。
(鶴姫様は……もういない)
唇を噛み締める。
あの人は、もういない。
鵺に殺された。守れなかった。救えなかった。
悔しさと怒りが胸を焼く。
だが、それ以上に。
脳裏に浮かぶ、もう一人の顔。
「……エルメス様」
小さく呟く。
そして。蓮。マーリン。アーサー。
今の居場所。
(私は……)
目を閉じる。
(まだ、失いたくない)
縄を握る手に力が入った。
どれだけ痛くても。
どれだけ苦しくても。
ここで終わるわけにはいかない。
セシルは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、まだ光が残っていた。
***
「……行くなら、急いだ方がいい」
静かな声だった。
エルメスが机の引き出しから一枚の地図を取り出す。
机いっぱいに広げられた羊皮紙。
「鷲の里は、グランゼル西部の山岳地帯にある」
細い指が地図の一点を示す。
「普通の街道からは辿り着けない」
「隠れ里ってわけか」
蓮が地図を覗き込む。
「正面から行けば、まず見張りに捕まるだろうね」
「じゃあどうすんだよ」
トリスタンが眉をひそめる。
エルメスは少しだけ口元を上げた。
「安心してほしい」
机の下から、さらに別の紙を取り出す。
「こういう時のために、少し調べてある」
「用意良すぎだろ」
蓮が呆れたように言う。
「ハイクラス商人だからね」
悪びれもなく返した。
地図には細かな書き込みがされている。
「西側斜面に古い搬入路がある」
「現在はほぼ使われていない」
「そこからなら比較的侵入しやすいはずだ」
アーサーが真剣な顔で頷く。
「なるほど」
「ただし」
エルメスの声が少し低くなる。
「相手は忍びだ」
「索敵能力は高い」
「気配を消せない者は足手まといになるかもしれない」
沈黙。
全員の視線が、一斉にトリスタンへ向いた。
「なんでワシを見る」
「いや、お前目立つし」
「うるせぇ」
即答だった。
少しだけ空気が緩む。
だが、すぐに蓮が腰を上げる。
「準備するぞ」
短い一言。迷いはない。
「日が落ちる前に出る」
アーサーが力強く頷いた。
「はい!」
マーリンも杖を握り直す。
「絶対助けよう」
エルメスは静かに蓮を見つめる。
「……頼んだよ」
蓮は背を向けたまま、軽く手を振った。
「言われなくても」
その一言だけ残して。
蓮たちは、鷲の里へ向けて動き出した。




