遺装
黒い霧が揺れる。
薄暗い研究室。
無数の魔道具と資料が並ぶ部屋の中央で、一人の男が静かに目を伏せていた。
ベルゼブブ。
魔王軍幹部。
第参観測領を統括する研究官。
その冷たい瞳には、常に知性の光が宿っている。
ベルゼブブは、一枚の報告書に目を落としていた。
「……連絡なし、ですか」
その呟きに、側近の魔族が膝をつく。
「はい。対象より定時報告なし」
沈黙。ベルゼブブは指先で机を軽く叩いた。
「珍しいですね」
「彼は優秀だったはずですが」
側近が恐る恐る尋ねる。
「増援を送りますか?」
「いえ」
即答。
「もう遅いでしょう」
淡々と告げる。
そして、資料へ視線を落とす。
そこに記されているのは、一つの単語。
聖剣
ベルゼブブが静かに目を細める。
「……やはり、"選ばれましたか"」
空気が変わる。
側近が顔を上げる。
「まさか……」
ベルゼブブは静かに立ち上がった。
「可能性の話です」
「ですが、もし事実なら」
窓の外。遠い人間領を見つめる。
「少々、面倒ですね」
「勇者候補」
小さく呟いた。
「あるいは、それに準ずる存在」
沈黙。
「観測対象を変更します」
一拍。
「ーー優先度、上位へ」
口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「奴隷商人‥‥‥蓮」
「セレシア王女‥‥‥いや」
わずかに目を細める。
「アーサー。アルトリア」
その名を、静かに口にした。
***
「……なんで俺まで片付けしてんだよ」
瓦礫を抱えながら、蓮がぼやく。
崩れた壁。砕けた机。散乱する木材。
トリスタンの店は、見るも無惨な有様になっていた。
戦闘の爪痕は想像以上に深い。
「お前も原因の一端だろうが!!」
即座に怒号が飛ぶ。
トリスタンだった。額に青筋を浮かべながら、折れた椅子を片手に睨みつけている。
「だいたい何だこの有様は!!」
「店ってレベルじゃねぇぞ!!」
「いや、主に暴れたのは魔族だろ」
蓮は悪びれもなく返す。
「その魔族を店内で吹き飛ばしたのは誰だ!?」
「……俺だな」
ぐうの音も出ない。
蓮は諦めたように肩をすくめ、黙って木材を持ち上げた。
少し離れた場所では、マーリンが小さな氷魔法で焦げ跡を冷やしている。
「うわぁ……すごい壊れ方」
蓮がじとっとした目を向ける。
「他人事みたいに言うな」
マーリンはきょとんと瞬きをした。
「だって、私はちゃんとサポートしたよ?」
「十分原因側なんだよ」
「えー?」
まったく納得していない声音だった。
蓮は小さくため息をつく。
「ほんと、お前は……」
「おいそこ!! 雑談してないで手を動かせ!!」
トリスタンの怒号が店内に響く。
一方で。
その喧騒の中、一人だけ静かに頭を下げている男がいた。
ヴェルナーだった。
「……本当に、申し訳ないことをした」
いつもの余裕を感じさせない声音。
トリスタンは腕を組み、鼻を鳴らす。
「謝って済む問題じゃない」
「修理費は請求させてもらうぞ」
「もちろんだ」
即答だった。
迷いすらない返答に、トリスタンが一瞬だけ目を瞬かせる。
「……やけに素直だな」
「こちらにも非はある」
ヴェルナーは静かに壊れた店内を見回した。
砕けた壁。割れたグラス。崩れた棚。
「今回の件、私も無関係ではない」
その言葉に、蓮の手が止まる。
木材を床に置き、ゆっくりとヴェルナーへ視線を向けた。
「……なら」
低い声。
「説明してもらおうか」
先ほどまでの軽い空気が、少しだけ変わる。
ヴェルナーは小さく息を吐いた。
「そうだな」
わずかに苦笑する。
「どこから話すべきか」
その表情は、先ほどまでの余裕ある貴族のものではなかった。
ーー少なくとも。
今回の件が、ただの騒動ではないことだけは分かる。
一拍置き、口を開く。
「まず前提として、この世界には"遺装"と呼ばれる特殊武装が存在する」
「遺装?」
蓮が眉をひそめる。
ヴェルナーは頷いた。
「選ばれた者のみが扱える武装だ」
「数は極めて少ない」
静かな説明。
「聖剣も、その一つだ」
その言葉に、蓮とアーサーの視線が自然とエクスカリバーへ向く。
「遺装は所有者を選ぶ」
「適合しない者には扱えず、場合によっては拒絶すらする」
「なるほどな」
蓮は腕を組む。
「だから貴族どもは欲しがってるわけか」
「まあそういうことだ」
ヴェルナーは肯定した。
「遺装は単なる武器ではない」
「力の象徴でもあり。権威そのものでもある」
「聖剣を手にする者は、それだけで特別視される」
「人心を集めるには十分だ」
蓮が小さく鼻を鳴らす。
「面倒な代物だな」
「実際、面倒だ」
ヴェルナーは肩をすくめた。
「もっともーー」
わずかに目を細める。
「遺装に意思が宿る、という話は昔からある」
「だが、それはあくまで伝承だ」
「本当に人格を持ち、ここまで明確に会話可能な個体は聞いたことがない」
アーサーの腰に差された聖剣が、不満げな声を響かせた。
「個体扱いはやめてもらえるかしら」
「‥‥‥やはり喋るのか」
ヴェルナーが小さく息を吐く。
珍しく、本気で驚いているようだった。
「失礼ね」
「いや、十分驚く案件だろ」
蓮が即座に突っ込む。
エクスカリバーは、ふんと鼻を鳴らしたような声音を漏らす。
「無知なだけよ」
「便利な言葉だな」
蓮は肩をすくめた。
その時だった。
ズキリ。胸に鈍い痛みが走る。
「っ……」
蓮が小さく眉を寄せる。
それを見逃さず、アーサーが顔を上げた。
「マスター?」
「……なんでもない」
そう答えるが、息は少し浅い。
あの同期。
便利ではあるが、代償は確かに存在する。
(何度も使える代物じゃないな……)
蓮の様子を見て、アーサーが少しだけ申し訳なさそうに目を伏せた。
「すみません」
「ん?」
「私の力不足です」
静かな声だった。
「本来なら、私一人で扱うべき力でした」
その言葉に、蓮は小さく息を吐く。
「気にするな」
即答だった。
「無茶して倒れられる方が困る」
アーサーがわずかに目を見開く。
エクスカリバーが呆れたような声音を響かせた。
「まったく」
「うるせぇな」
蓮が即座に返す。
「二人とも、まだ未熟ね」
どこか楽しげな女の声。だが、その声音には僅かな満足も混じっていた。
「でも、悪くはなかったわ」
アーサーが目を丸くする。
「……本当ですか?」
「ええ」
聖剣は静かに答える。
「初戦としては、上出来よ」
その一言に、アーサーの表情が少しだけ和らいだ。
だが。
「だからこそーーこれからが本番だけれど」
「縁起でもないこと言うなよ」
蓮が顔をしかめる。
「事実よ」
即答だった。
「聖剣を使った以上、もう目立たずに済むとは思わないことね」
蓮は小さくため息をつく。
「面倒ごとしか増えてねぇな……」
そのぼやきに、アーサーが小さく笑った。
ほんの少しだけ。
戦闘の緊張が解ける。
だがーー
聖剣を巡る思惑は、確実に広がり始めていた。




