リオ
王都アルトリアの城壁は、遠くからでもよく見えた。
夕暮れの空を背に、灰色の石壁が長く伸びている。
その高さは、まるで街そのものを外界から切り離すかのようだった。
街道には、いくつかの荷車が並んでいる。
王都へ入ろうとする行商人や旅人たちだ。
だが、その列はなかなか進まない。
門の前で、兵士たちが一人ひとりを厳しく調べているからだ。
「検問か」
蓮は小さく呟いた。
マーリンが荷袋を肩に担ぎながら言う。
「思ったより厳しいね」
「怪物騒ぎだからな‥‥当然だろ」
蓮は短く答える。
アーサーは黙って城門を見上げていた。
かつて何度も通った門だ。
王女だった頃は、門番たちは必ず跪いて迎えた。
だが今は違う。
ただの旅人として、この門を通る。
アーサーはそっと外套のフードを深くかぶった。
蓮は横目でそれを見る。
「顔、隠しとけ」
「‥‥‥ええ」
列はゆっくりと進んでいく。
前の荷車が止められ、兵士が荷物を調べている。
「名前と目的は!」
怒鳴る声が響く。
行商人が慌てて答える。
「塩の取引で‥‥‥」
「荷を開けろ!」
袋が乱暴に開けられ、中身が確認される。
兵士たちの顔には余裕がなかった。
どこか怯えているようにも見える。
マーリンが小声で言った。
「王都ってもっと賑やかな街じゃなかった?」
「今は違うらしいな」
蓮は短く答えた。
列がまた一歩進む。
やがて三人の番が来た。
門の影の下、二人の兵士が立っている。
鋭い目線が三人を順番に見た。
「止まれ」
低い声だった。
蓮は荷袋を軽く持ち上げる。
「行商だ」
「名前は」
兵士は淡々と確認する
「レン」
兵士はアーサーを見る。
フードの奥の顔を覗き込もうとする
その瞬間だった。
兵士の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
わずかな沈黙。
だがそれは、確かにあった。
アーサーの胸が小さく跳ねる。
(‥‥‥‥気づかれた?)
兵士は目を細める。
だが、すぐに視線を逸らした。
「荷物を見せろ」
何事もなかったかのように言う。
蓮は内心で眉をひそめた。
(今の‥‥‥)
だが何も言わない。
袋を開ける。
布、縄、干し肉、簡単な雑貨。
兵士が適当にかき回す。
「武器は?」
蓮は腰を指す。
「短剣だけだ」
アーサーの剣にも目を向けられる。
「それは?」
「護身用だ」
兵士は少しだけ刃を見て、鼻で笑った。
「安物だな」
アーサーは静かに言った。
「ええ」
柄をそっと握る。
「でも、"大切な剣"です」
兵士は興味を失ったように肩をすくめる。
「‥‥‥通れ」
門を指す。
重い木門の向こうに、王都の通りが見えた。
蓮は一歩踏み出す。
マーリンも続く。
アーサーは最後に門をくぐった。
その瞬間、ふと背筋が寒くなる。
誰かに見られているような感覚。
ーーバッ
思わず振り返る。
だが、そこには兵士と旅人しかいない。
城壁の上には、見張りの影が立っているだけだ。
(気のせい‥‥‥?)
アーサーは小さく息を吐いた。
だが蓮も違った。
彼もまた、同じ違和感を感じていた。
門の外。
城壁の上。
あるいはーー
もっと遠く。
どこかから、視線が向けられている。
王都アルトリア。
三人はついに、その内部へ足を踏み入れた。
そしてーー
観測は、すでに始まっていた。
***
王都アルトリアの空気は、外から見た時よりも重かった。
門を抜けた瞬間、蓮はそれを感じていた。
人はいる。
店も開いている。
店も営業している。
だがーー
誰もが小声で話し、早足で歩いている。
まるで、夜が来るのを恐れているかのようだった。
「‥‥‥‥静かすぎるな」
蓮が呟いた。
マーリンが周囲を見回す。
「王都ってもっと賑やかな街じゃなかった?」
アーサーは少しだけ目を伏せた。
「ええ‥‥‥」
彼女の記憶にある王都は、もっと明るい場所だった。
市場には人が溢れ、子供たちが走り回り、
夜になれば酒場の笑い声が通りまで響いていた。
だが今は違う。
窓は早く閉められ、
通りを歩く人間も、どこか怯えている。
蓮が言った。
「まずは情報だな」
マーリンが頷く。
「死体が見つかったって話だったよね」
アーサーは顔を上げた。
「兵士‥‥‥でしたね」
三人は通りを外れ、細い路地へ入る。
そこには、兵士が二人立っていた。
縄で囲われた場所の向こうに、布を被せられた何かがある。
蓮が近づいた。
「何かあったのか?」
兵士の一人が睨む。
「お前たちは何者だ?
ここは立ち入り禁止だ」
「行商人だ」
蓮は袋を軽く持ち上げる
「変な噂を聞いてな」
兵士は少し迷ったが、やがて肩をすくめた。
「‥‥‥見るか?」
布をめくる。
その瞬間、アーサーが息を呑んだ。
そこに横たわっていたのは、兵士の死体だった。
だがーー
普通ではない。
体が痩せ細っている。
皮膚は乾き、骨が浮き出している。
まるで、何年も干からびていたかのようだった。
マーリンは小さく呟く。
「‥‥‥魔力が無い」
蓮が目を細める。
「全部、抜かれてるのか」
兵士は低く言った。
「血はほとんど出てない」
「なのに死んだ」
もう一人の兵士が吐き捨てる。
「まるで呪いだ」
蓮はしゃがみ込む。
死体の近くの石畳に、黒い染みがあった。
血ではない。
魔力の残滓だ。
「‥‥‥地下から」
マーリンが顔を上げる。
「魔力の流れが下に逃げてる‥‥」
「本当か?マーリン」
「うん‥‥たぶん」
アーサーが小さく言う。
「地下水路‥‥‥」
兵士が不安そうに言った。
「そういえば最近、地下から変な音がするんだ」
蓮は立ち上がり、マーリンを見る。
「行くか」
マーリンは短く頷いた。
***
>地下水路
石の階段を降りると、湿った空気が肌にまとわりついた。
王都の地下水路。
古い石造りの通路が、暗闇の奥まで続いている。
マーリンが魔法灯を浮かべた。
青白い光が、通路を照らす。
水がゆっくりと流れる音が響いていた。
アーサーは剣の柄に手を置く。
「‥‥‥‥嫌な場所ですね」
蓮も同じことを思っていた。
ここには、何かがいる。
その気配がある。
三人は慎重に進む。
するとーー
奥から、微かな音が聞こえた。
「‥‥‥う」
マーリンが止まる。
「マスター‥‥今の聞いた?」
蓮は頷く。
人の声だ。
三人は音のする方へ進んだ。
そしてーー
鉄格子の前で立ち止まった。
その向こうに、小さな影があった。
子供だ。
うずくまっている。
アーサーが一歩近づいた。
その瞬間、彼女の記憶が揺れた。
***
まだ王女セレシアだった頃。
王都の広場。
この時は、護衛の兵士に囲まれながら視察目的で
王都の街並みを歩いている時だった。
そこに小さな男の子が、走ってきた。
「おじょうさま!」
護衛が慌てて止めようとする。
「おい!待て」
だがセレシアは手を上げた。
「いいの」
少年は息を切らしていた。
手には、小さな花を握っている。
「これ!」
差し出されたのは、野の花だった。
少ししおれた、白い花。
「おじょうさまに!」
セレシアはしゃがみ込み、花を受け取る。
「ありがとう!もらってもいいの?」
少年の顔がぱっと明るくなる。
「うん!おじょうさまにあげるためにつんできた!」
「ぼくね、リオ!」
胸を張って言った。
「またお花もってくるね!」
セレシアは微笑んだ。
「楽しみにしているわ!リオ」
***
地下水路。
アーサーの呼吸が止まる。
鉄格子の向こうの子供。
その手にーー
枯れかけの白い花が握られていた。
「‥‥‥リオなの?」
影がゆっくり顔を上げる。
目は赤く濁り、皮膚の一部が黒く変色している。
だが。
その瞳が、アーサーを見つめた。
「‥‥‥お‥‥‥じょう‥‥‥‥さま?」
マーリンが息を呑む。
「知ってるの?」
アーサーの声が震える。
「本当に‥‥‥リオ‥‥なの?」
少年は弱く笑った。
「また‥‥おはな‥‥‥あげよう‥‥‥と」
震える手が、花を差し出す。
その腕が、突然痙攣した。
黒い魔力が皮膚の下を走る。
マーリンが低く言った。
「‥‥‥もう限界」
「完全に変異する」
蓮は黙って見ていた。
状況は理解している。
だが、言葉が出ない。
リオは小さく震えていた。
「‥‥‥痛い‥‥怖い‥‥」
子供の声だった。
ゆっくりと、アーサーを見る。
涙が浮かんでいる。
「お‥‥じょ‥‥さ‥‥ま」
その声は、かすれていった。
「‥‥‥ぼく‥‥」
震える唇が動く。
怪物なんかじゃない。
苦しんでいる、ただの子供だ。
蓮は鉄格子に手をかけ。
「開けるぞ」
アーサーが頷く。
鉄の鍵を無理やりこじ開ける。
重い音を立てて、扉が開いた。
アーサーはすぐに中に入り、
とっさにアーサーはリオを抱き締める。
「リオ!!」
「もう大丈夫だリオ!今すぐ元に戻してやる‥‥」
彼女は膝をつき、少年を抱き寄せる。
小さな体だった。
骨ばって、軽い。
リオはその胸にしがみついた。
「‥‥‥お‥‥じょ‥‥さま‥‥」
リオは小さく震えていた。
その体は、まるで内側から何かに引き裂かれろように痙攣している。
「‥‥‥ぼく‥‥‥‥」
涙がぽろぽろと落ちる。
「もう‥‥‥やだ」
アーサーの手が震える。
リオは小さく笑った。
そしてーー
言った。
「ころ‥‥し‥‥て」
地下水路に、水音だけが響いていた。
アーサーの肩が震えている。
「‥‥‥‥リオ」
その名を呼ぶ声は、かすれていた。
「‥‥‥ころして?」
その言葉が、まだ空気の中に残っている。
アーサーの瞳が大きく揺れた。
そしてーー
「そんなこと‥‥‥!」
彼女は思わず声を上げた。
「そんなことできる訳ないだろう!」
その声は、怒鳴り声に近かった。
「‥‥‥ごめ‥‥んね」
弱い声だった。
「でも‥‥‥」
次の瞬間。
リオの体が大きく痙攣した。
「っ‥‥‥‥!」
少年の指が石床を掴む。
爪が石を引っ掻き、嫌な音を立てた。
「いたい‥‥‥!」
声が震えている。
マーリンが顔をしかめた。
「魔力が体の中で暴れてる‥‥‥」
リオは息を荒くする。
胸が上下し、呼吸が乱れていく。
「やだ‥‥‥」
小さく首を振る。
「こわいよ‥‥‥」
涙がぼろぼろと落ちた。
アーサーはさらにリオを強く抱きしめる。
「大丈夫だ‥‥」
アーサーは震える声で言った。
「私がいる」
「お前を一人にはしない」
リオは弱く首を振った。
「だめ‥‥‥」
呼吸が乱れる。
体がまた痙攣した。
「いたい‥‥‥‥」
声が震える。
「いたいよ‥‥‥」
その言葉を、聞いているだけで胸が締め付けられるものだった。
マーリンが低く言う。
「もう‥‥‥限界かも」
アーサーの腕の中で、リオが震えている。
「おじょう‥‥さま‥‥」
かすれた声。
「ぼく‥‥‥」
涙がこぼれる。
「もうやだ」
小さな手がアーサーの服を掴む。
「しぬの‥‥‥こわい」
息が詰まる。
アーサーは声をかけ続けた。
「大丈夫だ」
「大丈夫‥‥‥」
だがその声は、自分に言い聞かせているようだった。
リオはゆっくりと顔を上げる。
その目には、涙で溢れていた。
「‥‥‥お‥‥じょ‥‥さま」
唇が震える。
「おね‥‥‥がい」
そしてーー
震える声で言った。
「こ‥‥ろ‥して」
アーサーの体が止まった。
腕の中の温もりが、あまりにも小さい。
「‥‥‥‥無理だ」
声が震える。
「私には‥‥‥‥」
首を振る。
「できない」
その時だった。
後ろで、蓮が静かに動いた。
一歩、前に出る。
アーサーが振り向く。
「‥‥‥マスター」
蓮は何も言わない。
ただ、リオを見る。
少年も蓮を見た。
その瞳に、ほんの少しだけ安堵が浮かんだ。
「‥‥‥お‥‥にい‥‥さん」
弱く笑う。
「あり‥‥が‥とう」
蓮は腰の剣に手をかけた。
静かに、抜く。
金属の音が地下水路に響いた。
アーサーの目が揺れる。
「お願いっ‥‥‥待って‥‥」
だが蓮は止まらない。
ゆっくり歩く。
そしてアーサーの前で止まった。
リオが小さく言う。
「お‥‥じょう‥‥さま」
涙が流れる。
「おはな‥‥‥」
弱く笑う。
「うれ‥‥しか‥‥った」
アーサーの涙が落ちた。
リオは最後に言った。
「‥‥‥あ‥‥り‥‥が‥‥とう」
蓮は短く息を吐いた。
そしてーー
剣を振り下ろした。
地下水路に、水の音だけが残る。
アーサーの腕の中で、リオの体から力が抜けた。
小さな花が、石床に落ちた。
それは、あの日と同じ白い花だった。
アーサーはそのまま、しばらく動かなかった。
ただ、少年を抱きしめたままーー
涙を流していた。




