面倒な男
「ただいま戻りました」
店の扉を開けると、セシルの元気な声が響いた。
しかし――返事はない。
「……?」
セシルが首を傾げる。
奥の事務室から聞こえてくるのは、紙をめくる音だけだった。
カサッ。カササッ。
時折聞こえる小さなため息。
嫌な予感がした。
セシルがそっと扉を開く。
すると。
「…………」
エルメスが死んでいた。
正確には生きている。だが目が死んでいた。
机の上には相変わらず大量の書類。
むしろ出発前より増えている気がする。
「お‥‥おかえり」
エルメスが力なく言った。
「エルメス様……」
セシルが思わず同情の目を向ける。
その時だった。
「よう」
後ろから低い声が響く。
エルメスが顔を上げた。
そこに立っていたのはバーキンだった。
「久しぶりだね」
「そうでもない」
バーキンは短く答える。
そして部屋の中へ入ると、空いている椅子へ腰を下ろした。
エルメスは小さく笑う。
「それで?」
「わざわざ僕の所へ来たってことは、何か用事だろう?」
バーキンは数秒黙った。
相変わらず無口だ。だがエルメスは急かさない。
長い付き合いだからだ。やがてバーキンが口を開く。
「少し気になる話を聞いてな」
その一言で、エルメスの表情が僅かに変わった。
先ほどまでの疲れた商人の顔ではない。
ハイクラス奴隷商人の顔だった。
「聞こうか」
部屋の空気が少しだけ引き締まる。
蓮は壁にもたれたまま黙っていた。
トリスタンも酒瓶を傾けるのをやめる。
何となくだが。
世間話ではない気がした。
バーキンが椅子へ深く腰を下ろしたまま口を開く。
「大変だったんだってな」
エルメスが顔を上げた。
「何がだい?」
「夜叉のことだ」
短い返答だった。
その言葉に、部屋の空気が僅かに変わる。
セシルも手を止めた。
マーリンはソファへ座ったまま耳を傾けている。
バーキンは腕を組んだ。
「遭遇したらしいな」
「あぁ」
エルメスが苦笑する。
その顔には疲労が滲んでいた。
書類仕事のせいだけではない。
鷲の里で起きた一件は、それだけ大きな出来事だった。
「正直、生きて帰れただけでも幸運だったよ」
「謙遜には聞こえんな」
「事実だからね」
エルメスは肩を竦めた。
夜叉。
その名を聞いて平然としていられる者は少ない。
まして実際に遭遇し、生きて帰ってきたとなれば尚更だ。
バーキンは小さく頷いた。
「王宮への報告は?」
「もちろん済ませた」
エルメスは机の上の書類を軽く叩く。
「その結果がこれさ」
うんざりした声だった。
セシルが苦笑する。
「騎士団も動くことになったよ」
「それはでかい話になったな」
バーキンが目を細める。
エルメスは小さく息を吐いた。
「まぁ……相手が相手だからね」
夜叉が現れた。
それだけで国が動く理由としては十分だった。
しばしの沈黙。
やがてエルメスがバーキンを見る。
「で?」
「わざわざ僕の所まで来たんだ」
「この話を聞きに来ただけじゃないんだろう?」
バーキンほどの男が、世間話のためだけに足を運ぶとは思えない。
バーキンも否定しなかった。
「あぁ」
短く答える。
「エルメスのことで、ちょっと面倒なやつの耳に入ってな」
エルメスの眉がぴくりと動いた。
「面倒なやつ?」
何となく嫌な予感がする。そんな顔だった。
バーキンはため息混じりに答える。
「あぁ」
「ルイ・ビトンのやつだ」
その瞬間。
エルメスが露骨に嫌そうな顔をした。
「ルイか……」
思わず額を押さえる。
その反応に蓮が首を傾げた。
「そんなに嫌なんですか?」
「嫌というか……」
エルメスが遠い目をする。
「面倒なんだよ」
バーキンが小さく頷いた。
「あいつ絶対に来るぞ」
「だろうね……」
エルメスは深いため息を吐いた。
心底うんざりした様子だった。
蓮はますます興味を持ったらしい。
「その、ルイ・ビトンって誰なんです?」
エルメスは椅子へ背を預けた。
「僕達と同じハイクラス奴隷商人の一人だよ」
「へぇ」
蓮が感心したように声を漏らす。
「すごい人なんですか?」
「能力は本物さ」
エルメスは素直に認めた。
「情報収集能力も高い」
「顔も広い」
「商人としても優秀だ」
そこまで聞けば、かなりの人物に思える。
だが。エルメスは頭を抱えた。
「ただね……」
「ちょっと特殊なんだ」
「特殊?」
蓮が聞き返す。
エルメスは何とも言えない顔をした。
そして口を開こうとした――その時だった。
バァン!!
店の扉が勢いよく開かれる。
店中に響く大きな音。
全員の視線が一斉に入口へ向いた。
そしてーー
「エルメス聞いたぞー!!」
やたらと元気な声が店内へ響き渡った。




