第6話 勉強熱心な顧問と皇帝陛下の甘い制裁
深い夜の静寂が、ガルディニア帝国の宮殿を優しく包み込んでいた。
エレノアに与えられた寝室を兼ねた豪華な執務室のデスクには、一本のろうそくが静かな炎を揺らしている。その柔らかい光のなか、エレノアは一人、羊皮紙の山と格闘していた。
(……この方は、帝国東部の主要な貿易港を納める伯爵様。お酒を好まれるけれど、最近は治水事業の予算不足に頭を痛めていらっしゃる―――そしてこちらの方は……)
小さな手で羽ペンを握り締め、エレノアは必死に頭へ情報を叩き込んでいた。
彼女の手元に広げられているのは、数日後に控えた自身の歓迎晩餐会の招待客リスト、そして帝国の広大な土地が抱える内政資料の写しである。
エレノアが、その血筋を引くローゼンバーグ家は、もともとシルヴェニア王国の中でも、指折りの歴史を数える名家だった。それ故に、こうして、晩餐会の参列者の名前や経歴などを事前に頭に入れておくことは、幼い頃から慣れ親しんだ修養のひとつだ。そのため、こうした作業を彼女自身が、さして負担に感じることはない。
ただ―――。
数日前、身が引き裂かれそうな想いをした故郷の王都の宮廷での出来事が、エレノアの脳裏に蘇る。
(皇帝陛下の目の前で、あんな姿は見せられない―――)
旧王国では「地味で無能」と蔑まれ、社交の場に立ち入ることすら許されなかった。だが、ここでは違う。自分を「帝国の至宝」と呼び、破格の待遇で迎えてくれた皇帝ヴァルハイトがいるのだ。
(私をこれほど買ってくださったヴァルハイト様の名に、泥を塗るわけにはいかない―――)
(故郷のある王国に捨てられた私を『国家最高顧問』としてお披露目する場なのだから、誰からどのような質問をされても、完璧にお答えできるようにしておかなくては……)
真面目すぎる性格が、彼女を駆り立てる。疲れでまぶたが重くなり、幾度も船を漕ぎそうになりながらも、エレノアは自分の太ももをそっと抓って意識を保とうとしていた。
その時―――静まり返った部屋に、重厚な扉が開くかすかな音が響いた。
「―――やはり、まだ起きていたか」
低い、弦楽器の残響のような声。
ハッとして振り返ると、そこには上着を脱ぎ、上質なシャツ姿のヴァルハイトが立っていた。アイスブルーの美しい瞳が、ろうそくの光を反射して怪しく煌めいている。
「ヴァ、ヴァルハイト様!? こんな深夜に……どうなされたのですか?」
「どうされたのか、と言うのはこちらの台詞だ。あれほど身体を休めろと言い含めたはずだが?」
静かに歩み寄ってきたヴァルハイトは、エレノアが申し開きを口にするより早く、大きな手でデスクの上の羊皮紙をさらりと取り上げた。
「あ、あの! ヴァルハイト様、それは……っ!」
「招待客の経歴……だけでなく、帝国の内政資料か。……ふむ、実に完璧な分析だ。我が帝国の内務大臣でも、ここまで正確に現状を把握している者は多くないだろう」
資料に目を走らせたヴァルハイトは、感心するように呟いた。
しかし、次の瞬間、その整った眉が不機嫌そうに寄せられる。
「だが――不合格だ」
「え……?」
「君の仕事は、心身を休めることだと、私は確かに命令した。にもかかわらず、君はまた私との約束を破り、その大切な身体を酷使しようとしている。……私の言いつけを守れない悪い子には、おしおきが必要だな」
冷ややかな手つきで資料をデスクへ戻すと、ヴァルハイトはエレノアの顔をまっすぐに見つめた。氷の瞳の奥に宿る熱い色に気づき、エレノアの胸が大きく跳ねる。
「あの、私はただ、ヴァルハイト様に……っ」
「私の前では、どんな言い訳も通用しない。君が私のために尽くそうとしてくれたことは嬉しい。……だが、それ以上に、君が自分自身を傷つけることが、私は何より許せないのだ」
静かな拒絶の言葉とともに、視界がふわりと浮き上がった。
「きゃっ……!?」
気づいた時には、エレノアの体はふんわりとした浮遊感に包まれていた。ヴァルハイトが彼女の背中と膝裏に腕を差し入れ、軽々と抱き上げたのだ。いわゆる、お姫様抱っこの体勢だった。
「ヴァ、ヴァルハイト様!? おろしてください、自分で歩けますから……っ!」
「歩かせるつもりなどない。約束を破った罰だ。大人しくしていなさい」
エレノアの抗議など爽やかに聞き流し、ヴァルハイトは長い足で優雅にベッドへと向かう。間近にある彼の美貌、シャツ越しに伝わる逞しい胸板の熱に、エレノアの顔は熟したリンゴのように真っ赤に染まった。
ベッドの上にそっと下ろされると、逃げ出そうとするエレノアの肩を、ヴァルハイトが大きな手で優しく押しとどめる。
「動くな。……少し待っていなさい」
ヴァルハイトはサイドテーブルに用意させていたシルバーの魔法保温ポットを引き寄せると、用意されていたカップに温かい液体を注ぎ入れた。甘い香りとハーブの爽やかさが、部屋いっぱいに広がる。
「ほら、飲みなさい。先刻、きみが美味しそうに飲んでいた柑橘と蜂蜜を入れたホットミルクだ。緊張した神経をほぐす効果がある」
「私、自分で持てます……」
「ダメだ。私からのおしおきだと言っただろう。口を開けなさい」
カップを自ら持ち、エレノアの唇へと優しくあてがう皇帝。一国の最高権力者に手ずからミルクを飲まされるという異常な状況に、エレノアは心臓が口から飛び出しそうなほど打ち震えた。
だが、彼のアイスブルーの瞳に見つめられると、逆らうことなど到底できない。
「……ん」
指示されるまま、小さな口を開けて一口ずつミルクを飲み干していく。とろけるような甘さと温かさが全身に染み渡り、強張っていた筋肉が急速に弛緩していくのが分かった。
「よくできた」
飲み終えると、ヴァルハイトは満足そうに目を細め、親指でエレノアの唇の端を優しく拭った。その仕草の甘さに、エレノアの息が止まる。
「さあ、横になりなさい」
「はい……。あ、あの、ヴァルハイト様は、お部屋にお戻りに……?」
「戻るわけがないだろう」
至極当然といった口調で告げると、ヴァルハイトは着ていた上衣のボタンをいくつか外し、そのままエレノアの隣へと滑り込んできた。
「ひゃいっ!?」
寝室に悲鳴が響く。
大きな掛け布団の中にヴァルハイトが潜り込み、横たわるエレノアの体を背後からすっぽりと抱きすくめたのだ。
「ヴァ、ヴァルハイト様!? な、何を……っ!」
「逃げ出さないように、こうして見張るのだ。君は目を離すと、すぐに羊皮紙に向かおうとするからな」
背中から伝わる、圧倒的な男の体温と鼓動。耳元で囁かれる低く甘い声に、エレノアの思考は完全にフリーズした。首筋にかかる彼の吐息が熱くて、全身の毛穴が開くような緊張感に包まれる。
「あ、あの……このようなことは、皇帝陛下の御身として……」
「私は今、一人の男として、愛おしい女性を守っているだけだ。……それとも、私の腕の中は不快か?」
「ふ、不快なわけありません! ただ、あまりにも温かくて……胸が苦しいくらいで……」
消え入りそうな声で本音を漏らすと、ヴァルハイトは満足そうに低く笑った。腕の力が少し強まり、エレノアの頭が彼の胸元へと引き寄せられる。
「ならば、そのまま私に甘えていればいい。……エレノア、聞いてくれ」
ヴァルハイトの手が、エレノアの濃紺の髪を優しく撫でる。
「君が私に恥をかかせまいと努力してくれるのは、飛び上がるほど嬉しい。……だが、私にとって最大の誇りは、君が誰よりも美しく、健やかに微笑んでいることなのだ。晩餐会で君が完璧な挨拶をしなくとも、誰も君を責めさせはしない。なぜなら、君の存在そのものが、我が帝国の至宝なのだから」
「ヴァルハイト様……」
「だから、お願いだ。もう自分を酷使しないでくれ。君が傷つく姿を見るのは、私の心が引き裂かれるほどに辛いのだ」
氷の皇帝と呼ばれる男が、これほどまでに情熱的に、そして切なく愛を告げてくれる。
旧王国でずっと孤独に耐え、「使えて当然の道具」として扱われてきたエレノアの心に、温かい涙が満ちていく。
(ああ……この方は本当に、私という人間をそのまま見つめ、愛してくださっているのだわ……)
胸を締め付ける甘いときめきと、全身を包み込む絶対的な安心感。
先ほどまであれほど重かった疲労が、ヴァルハイトの体温に溶かされていくようだった。
「……わかりました。もう、無茶はいたしません。ヴァルハイト様……」
「うむ。良い子だ」
ヴァルハイトはエレノアの額に、そっと愛おしそうなキスを落とした。
「おやすみ、エレノア。良い夢を」
「おやすみなさいませ……ヴァルハイト様……」
背中から伝わる規則正しい鼓動と、包み込むような腕の温もり。
皇帝からの甘すぎる「おしおき」に胸を躍らせながらも、エレノアは長年の過酷な日々では決して味わえなかった深い安らぎの中で、ゆっくりと幸せな眠りへと落ちていった。




