第4話 氷眼の皇帝の甘すぎる歓待
一方、ガルディニア帝国の宮殿。
極上の夜空色のシルクシーツが敷かれたベッドの上で、エレノアは運ばれてきた贅沢な料理に目を丸くしていた。 柔らかく煮込まれた肉料理に、焼き立ての芳醇なパン、採れたての果物が並んでいる。
「口に合わないか?」
「いいえ! すごく美味しいです……! こんなに温かくて美味しいお食事、いつ以来かしら……」
感極まったエレノアが微笑むと、ベッドの脇に腰掛けたヴァルハイトが、愛おしそうに彼女の頬へ手を伸ばし、親指で優しく撫でた。
「これからは毎日、君が満足するまで最高のものを用意させよう。……さあ、食べ終わったらゆっくりお休み。ここには君を虐げる者も、不当に労働を強いる者もいない。俺がすべて守る」
「ヴァルハイト様……」
皇帝とは思えないほど甘く、包み込むような視線。 長年、孤独と疲労の中で戦い続けてきたエレノアの心が、じんわりと温かい幸福感で満たされていく。
(私のような追放令嬢が……こんなに優しくされて、本当にいいのかしら……)
戸惑いながらも、エレノアは心地よい温もりに身を委ね、ゆっくりと瞳を閉じた。
どれほどの時が過ぎただろうか。
まぶたの裏に柔らかい陽光を感じて、エレノアはそっと目を覚ました。
肌を滑るシーツはどこまでも滑らかで、身を包む掛け布団は雲のように軽くて温かい。何年ぶりかも分からない、一瞬の途切れもない深い眠り。深夜三時に叩き起こされる恐怖も、翌朝の計算に追われる焦燥感もない、完璧な目覚めだった。
(こんなにぐっすり眠ったのは……本当に、いつ以来かしら)
体を起こそうとすると、ベッドの傍らに配された重厚な一人掛けソファから、衣擦れの音が聞こえた。
視線を向けると、そこには漆黒の軍服の上着を脱ぎ、上質なシャツ姿になったヴァルハイトが座っていた。膝の上には帝国全土の地図が開かれていたが、エレノアが身動きをとった瞬間、彼のアイスブルーの瞳がすぐさま彼女へと向けられる。
「……起こしてしまったか?」
「ヴァルハイト様……? ずっと、ついていてくださったのですか?」
「当然だ。長年、限界まで酷使されていた君の身体だ。急な環境の変化で体調を崩さぬか、傍で見守るのが当然だろう」
冷血と恐れられる一国の皇帝が、追放された一人の令嬢のために夜通し付き添っていたなど、誰も信じないだろう。エレノアが驚きで目を丸くしていると、ヴァルハイトは静かな足取りでベッドへと歩み寄り、サイドテーブルに置かれていたシルバーのポットから、湯気の立つハーブティーをカップへ注いだ。
「まずは喉を潤しなさい。君の好みに合うかはわからないが、柑橘と蜂蜜を少し加えてある」
「あ、ありがとうございます……」
皇帝自ら差し出されたカップを受け取り、一口含む。甘く爽やかな香りが鼻腔を抜け、強張っていた体がじんわりとほぐれていく。
「あの、ヴァルハイト様。私はもう十分に休ませていただきました。帝国の『国家最高顧問』として雇用していただいた以上、一刻も早くお役に立ちたいのです。もし羊皮紙と羽ペンを貸していただけるなら、帝国の魔導水路や物流網の改善案を……」
焦るエレノアは、ベッドから起き上がろうとした。しかし―――。
「―――執務は許可しない」
ヴァルハイトの低く静かな声が、彼女の動きを止めた。
「君の仕事は、身体を休めることだと言ったはずだ」
彼はおもむろにエレノアの手からハーブティーのカップを預かると、テーブルへと戻し、そのまま彼女の華奢な右手を手元に引き寄せた。
「ヴァルハイト様……?」
「君のその右手を見なさい」
ヴァルハイトの長い指先が、エレノアの手の甲、そして人指し指の側面に刻まれた硬いタコをやさしく撫でる。長年、不眠不休で羽ペンを握り続けてできた、痛々しい酷使の証だ。
「この指先がどれほどの負担に耐えてきたか、理解しているつもりだ。……君ほどの至宝を、このような状態になるまで使い潰していたとはな」
ヴァルハイトの氷のような瞳は、静かに怒りの炎が宿る。
だが、その表情に不安げな顔を見せるエレノアに気づいたのか、皇帝は、ほおを緩める。
「エレノア、何度も言わせないでくれ。いまの君の最優先事項は、心と身体を休めることだ。どれほど急務の案件があろうと、君の体調に勝るものなど帝国には存在しない」
「ですが、私は何も成果を出していないのに、このような歓待をしていただくわけには……」
「成果なら、すでに君の頭脳が、この帝国に存在しているだけで十分だ」
ヴァルハイトはエレノアの言葉を優しく遮ると、両手で彼女の手を包み込んだ。大きな手のひらから伝わる温もりが、エレノアの心臓を跳ねさせる。
「私にとって、好ましくないのだ。君が無理をして、再び苦しむ姿を見るのは」
「……っ」
「どうしても仕事をしたいと言うのなら、そうだな……私の膝の上で茶でも飲みながら、口頭で意見を聞かせてくれ。それならば許可しよう」
「ひ、膝の上……!?」
耳まで真っ赤になるエレノアを見て、ヴァルハイトの薄い唇が愉悦にほころんだ。氷の皇帝が見せた甘すぎる微笑みに、エレノアの胸は激しく鳴り響く。
「冗談ではないぞ。……さて、次は身支度だ」
ヴァルハイトが軽く手を叩くと、重厚な扉が開き、仕立屋や宝石商たちが恭しく礼をしながらなだれ込んできた。




