第3話 至高の宮殿生活と崩壊をはじめる故郷
たっぷりと陽光が差し込む高いアーチ状の窓に、肌触りの良い純白のレースカーテンがやわらかく揺れている。
ガルディニア帝国宮殿の東棟に位置するその部屋は、かつて王族の貴賓室として使われていた、宮殿内で最も日当たりの良い豪華な執務室兼寝室だった。ふかふかのペルシャ絨毯に、最高級のシルクが張られたソファ。壁には気品ある絵画が飾られ、部屋全体がぽかぽかと温かい香気に包まれている。
「……あの、ヴァルハイト様。このような破格のお部屋は、追放された身の私には分不相応です。私はただの……」
「エレノア、それ以上は話さなくていい」
困惑するエレノアを制するように、ヴァルハイトは静かな、けれど拒絶を許さない声で彼女の言葉を遮った。
彼は手慣れた手つきでサイドテーブルのティーポットを取り出すと、湯気の立つ甘いハーブティーをカップに注ぎ、エレノアの細い手にそっと握らせた。皇帝自らが甲斐甲斐しく世話を焼く姿に侍従たちは、そのかたわらで驚愕していたが、当のヴァルハイトは全く気に留める様子もない。
「我が帝国の崩壊を防ぎ、更なる繁栄をもたらす『真の頭脳』を招いたのだ。この程度の待遇ではまだ足りないくらいだ。……それに」
ヴァルハイトはエレノアの前に腰を下ろすと、彼女の手をそっと両手で包み込んだ。 長年、不眠不休で羽ペンを握り続けてできた右手の人差し指の痛々しいペンダコ。そして、いくら休んでも消えない目元の薄いクマ。
それらを視線でなぞった瞬間、氷眼と恐れられるヴァルハイトの瞳に、ぞっとするほどの冷たい怒りが掠めた。ただ、もちろん、エレノアに向けられたものではない。
彼女を限界まで使い潰した、シルヴェニア王国への憤慨だ。
「……あの愚か者どもめ。君ほどの才能を、このような身体になるまで酷使していたとはな」
ヴァルハイトは胸の奥で煮えたぎる怒りの感情を押し殺すと、エレノアの顔を覗き込み、愛おしそうに目を細めた。
「いいか、エレノア。我が帝国における君の最初の仕事は、ひとつだけ。……これまで蓄積した数年分の疲れを癒やし、この温かい部屋で、ただゆっくりと眠ることだ」
「えっ……ですが、早く仕事に取りかからなければ……!」
焦るエレノアの額に、ヴァルハイトはそっと指先を滑らせた。
「仕事の命令は出さん。君が自発的にペンを握ろうとしても、俺が阻止する。栄養のあるものを食べ、休む。それが今の君の義務だ」
過保護なまでの言葉と、注がれる熱い眼差し。長年「働いて当然」と扱われてきたエレノアの胸の奥が、熱い甘さにキュッと締め付けられた。
◇ ◇ ◇
同じ頃―――シルヴェニア王国の王宮では、前代未聞の惨劇が巻き起こっていた。
「きゃあぁぁぁっ!! な、なにこれぇぇっ!?」
朝の王宮に、新しく王子の婚約者となった男爵令嬢クロエの不快に満ちた悲鳴が響き渡る。
優雅に朝の湯あみをしようと大理石の浴槽に入ったクロエだったが、蛇口から勢いよく噴き出してきたのは、温かいお湯ではなく、冷たく濁った泥水だったのだ。
「クロエ、どうした!?」
慌てて駆けつけた第一王子アレクシスも、その光景に絶句した。 蛇口からは「ボコボコ……ゴボッ!」と不気味な異音が聞こえ、ドブのような不快な臭いが充満し始めている。
「アレクシス様ぁ! お水がとっても冷たくて、ドロドロで臭いですわ! これじゃお風呂に入れません!」
「な、なんだこれは!? おい、すぐに湯を沸かす魔法陣を確認させろ!」
アレクシスが怒鳴り散らしているところへ、青ざめた表情の側近と魔法技師長が転がり込んできた。
「で、殿下! 大変です! 王宮だけでなく、王都全体の魔導水路が原因不明の不全を起こしております!」
「なに……!?」
「綺麗だった王都中央広場の巨大噴水が突然逆流し、ドブ臭いにおいを放って泥水を撒き散らしております! 市民の生活用水も完全にストップし、街中が大混乱に……!」
報告を聞いたアレクシスの顔が、怒りで真っ赤に染まった。
「ふざけるな! 水路の管理など、ボタン一つで動く単純な魔法陣だろうが! なぜ急に壊れる!?」
「そ、それが……! 水路の核となる管理魔石の同調が、昨夜から完全に切れておりまして……! 誰かが意図的にアクセス権限を遮断し、内部の複雑な計算式を消去したとしか考えられません!」
「アクセス権限……? まさか……!」
アレクシスの頭に、昨夜、無機質な金属音を立てて婚約指輪を床に投げ打った、エレノアの冷ややかな瞳が浮かび上がった。
(さようなら、私の愛した魔導術式……)
「あの女だ……! エレノアの奴、追放された腹いせに、姑息な嫌がらせを仕掛けていきおったな! おい、今すぐエレノアをここに引っ張ってこい! 国家侮辱罪で牢にぶち込み、泣き叫ばせながら水路を直させろ!」
怒号を飛ばすアレクシスに対し、側近は死人のような顔で首を振った。
「それが……ローゼンバーグ嬢の行方は、実家も含めて誰一人として把握しておりません……! 昨夜、身一つで馬車に乗り、すでにどこかへ姿を消した後で……!」
「な……んだと……!?」
アレクシスは言葉を失った。 自分たちが「無能」「地味」と切り捨てた女が去った瞬間、国のインフラが音を立てて崩壊を始めたという事実に、彼はまだ気づいていなかった。




