第2話 凍える国境での遭遇、破格のヘッドハンティング
国境を隔てる検問所を目前にして、吹きすさぶ凍てつく夜風が、エレノアの着古したドレスの生地を無情に叩いていた。
(……やはり、この格好で夜の国境越えは甘かったかしら)
乗合馬車を降りたエレノアは、寒さと極度の疲労に身を震わせていた。
不眠不休での徹夜作業、そして追放による急な移動。長年の酷使で限界を迎えていた身体は、足元がおぼつかないステップを踏み、ついに湿った雪の上に膝をついてしまう。
視界が白く霞み、息を吸い込むたびに肺が凍りつくように痛む。
―――パカッ、パカッ、パカッ。
その時、地鳴りのような馬蹄の音が夜の静寂を切り裂いた。
雪煙の向こうから現れたのは、漆黒の軍服に身を包んだ一団。圧倒的な威圧感を放つ、ガルディニア帝国の精鋭騎士団だった。
(……追っ手? それとも、口封じの暗殺……?)
エレノアは冷え切った唇を噛みしめ、覚悟を決めるようにそっと目を閉じた。
シルヴェニア王国が刺客を放ったとしても不思議ではない。無能と蔑みながら、自分たちの不正や無策が露呈するのを恐れたのだろう。
馬群がエレノアを取り囲むようにピタリと止まる。
最前線に立つ巨馬から、一人の男が優雅に降り立った。
漆黒の軍服の上に重厚な漆黒のマントを羽織り、雪のように美しい銀髪をなびかせた男。
その顔立ちには息をのむほどの美しい威厳があり、アイスブルーの瞳は見る者を一瞬で射すくめる冷徹さを宿している。
―――「氷眼の皇帝」、ヴァルハイト・フォン・ガルディニア。
帝国の絶対的な支配者であり、戦場では冷血非情と恐れられる男だ。
死を覚悟したエレノアの目の前で、ヴァルハイトはあろうことか、雪で汚れた地にそっと片膝をついた。
「―――寒かっただろう。よくぞ無事にここまで辿り着いてくれた」
低く滑らかな、弦楽器の残響のような声。
ヴァルハイトは自らの肩から高級な漆黒の毛皮コートを外すと、震えるエレノアの華奢な肩へ優しく羽織らせた。
包み込まれるような圧倒的な温もりが、冷え切ったエレノアの全身をじんわりと満たしていく。
「ヴァルハイト……陛下……? なぜ、私のような追放令嬢をご存じなのですか……?」
困惑に声を震わせるエレノアを見つめ、ヴァルハイトはアイスブルーの瞳にわずかな熱を宿した。
「追放令嬢? くく……あの愚か者どもの目は、節穴どころの騒ぎではないな」
ヴァルハイトは冷ややかな失笑を漏らし、エレノアの顔を優しく覗き込んだ。
「シルヴェニア王国が近年見せていた、異常なまでの急成長。荒廃していた農地の復活、王都の完璧な治水、効率化された物流。……あの国の無能な第一王子が提出していたという無数の論文と魔導術式の設計図、そのすべてを精査させてもらった」
エレノアの胸がドキンと跳ねる。
「あの異次元とも言える美しい計算式と最適化された魔導制御は、どう見てもあの王子の頭脳から生まれたものではない。……そして、調査の末に行き着いたのが、夜な夜な王宮の地下室で不眠不休の作業を続けていた、『影の天才』だったのだ」
ヴァルハイトの大きな手が、エレノアの肩をそっと抱き寄せるように支える。
「あんな愚かな国に君の才能を埋もれさせ、使い潰させるにはあまりにも惜しすぎる。君が国を捨ててくれたおかげで、ようやく私は君を手に入れる機会を得られたのだ」
真実をすべて見抜き、自分の努力と成果を完璧に評価してくれた男。
長年、どれほど努力しても「無能」と踏みにじられ続けてきたエレノアの心に、熱いものがこみ上げてくる。
「エレノア・フォン・ローゼンバーグ。我がガルディニア帝国へ来ないか?」
ヴァルハイトは迷いのない瞳で、まっすぐにエレノアを見つめた。
「君を、我が帝国の産業基盤を支える『国家最高顧問』として正式に招聘したい」
「さ、最高顧問……!?」
耳を疑う言葉に、エレノアは目を見開いた。国家最高顧問といえば、帝国の全インフラと予算の采配を握る、実質的な国のトップに並ぶ要職だ。
「用意する年俸は金貨一万枚。シルヴェニア王国の数年分の国庫予算に匹敵する額だ。さらに、君が望むあらゆる研究環境、人員、そして魔導インフラに関する『絶対の指揮権』を保障しよう。君の意思を遮る者は、この私を含めて帝国には一人も存在しない」
破格という言葉すら生ぬるい、あまりにも壮大な提示。
何より、自分という人間を「絶対的な価値」として扱い、全幅の信頼を寄せてくれている。
「……ですが、私は……故郷を『役立たず』と追放された身です。そのような重責、私で……本当に、よろしいのですか?」
呆然と呟くエレノアの手に、ヴァルハイトの手がそっと重なった。
冷徹と恐れられる男の手は驚くほど温かく、そして力強い。
「言ったはずだ、エレノア」
ヴァルハイトは彼女の手を優しく、だが決して解けないほど強く握りしめ、氷の瞳に情熱的な光を宿して言い放った。
「他の誰でもない。―――君でなければ、駄目なのだ」
その力強い一言が、エレノアの胸の奥に残っていた傷跡を、一瞬で溶かしていくようだった。
風の音すら吹き飛んだかのような静寂の中で、エレノアは、自分を捨てたシルヴェニア王宮に身を投じて以降、初めて、心からの微笑みを浮かべた。




