家庭訪問
国の組織のことをあまりよく知らない私でも、「大参謀」はかなり偉いと知っている。滅多に会える人ではないだろうということも、そして呼ばれたからには私に何か大変なことが起きようとしていることも、容易に察せられた。
ここへ入らずに、このまま欄干から地面に飛び降りようか。三階分の高さはあるが、受け身を取れば何とか無事でいられるだろう。
そんなことを考えていると、部屋の中から「どうぞ」と落ち着いた声が聞こえてきた。背後に青年が回り、「中へ」と促してくる。
(この人、強いかな)
危機を察して逃亡を考える私だったが、青年から「大丈夫ですよ」と小さい声で励まされた。ぱっとその目を見ると、真面目そうな瞳が私を映している。真面目そうだからといって、信用なるか分からないし、私の味方かどうかも分からない。
けれど「逃がさん」というしっかりした意志が読み取れた。
(逃げるのは話を聞いてからでも遅くないか……)
一旦冷静になり、私は部屋の中へ一歩踏み出した。
「失礼いたします」
部屋の奥には大きな執務机が置かれていて、その向こうに体格のよさそうな男が座っていた。この人が大参謀だろうか。
「女官の朱春だね」
名前の確認をされる。間違いはないので「そうです」と肯定を返した。
「そんな入口にいないで、その辺に」
もっと近くへ来いと言われたので、仕方なく机の前まで足を進める。逃亡の道が塞がれていくようで、ちょっと嫌な気がした。
「別に、とっ捕まえようとかそういうことじゃないから。気を楽にして聞いてほしいんだが」
「はい」
「まず、私は軍の司令部の長、大参謀を任されている志鶴という。一応冠は橘」
(かんむり!)
初めて、冠を持っている人を見た。冠とは、帝から直接与えられる栄誉の称号のことだ。前に劉燕が「一般教養」として教えてくれた。
「武官以外の人は『橘』で呼ぶけど、気にしなくていいからね」
(はあ……)
「それで、君を呼んだのはお願いがあるからなんだ。『紅龍楼』の朱春」
女官の朱春が、紅龍楼の朱春に変わった。その瞬間、私の脳裏に連日の尾行のことが過った。私が警戒したのが伝わったのか、青年が部屋の入り口をそれとなく塞いだ。
「碧悠。彼女は逃げないよ」
大参謀の言うとおり、今の私には逃げる意志はなかった。紅龍楼が関わっているとなれば、どういうことなのか、聞かなくてはならない。内容次第では、やはり逃げるかもしれないけれど。
「もう察しているかもしれないけど、君を最近尾行していたのは、私の指示を受けた兵士だ。理由があってそうしていたが、一度も成功しなかった」
「……はい」
「昨日碧悠と会っただろう。少し離れたところに私もいた。それで、これは成功しない訳だと思ったよ。一応、君が本当に紅龍楼の人間だと確認が取れたから、もう尾行はしない。それで、今日来てもらったのは頼みがあるからなんだ」
「頼み?」
思わず聞き返した。大参謀は「そう」と頷く。
「あまりここでは詳しく言えないんだけど。君にお願いしたいのは、姫榕と会わせてほしい、ということだ。悪いようにはしない。気がかりなら刀を預けてもいい」
「き、姫榕と……」
どうしたらいい。軍の大参謀が、姫榕に会いたいと言っている。ここで断る理由は、正直持ち合わせていない。何となく怪しいからやめてほしい、は通用しないと思われる。
『仲良くなったら連れてきていいぞ。遊んでやる』
突然姫榕の言葉が脳に蘇った。もしかして。私が尾行されていると知っていた姫榕。姫榕と劉燕のことだ。彼らに都合の悪いことがあれば、きっと私の存ぜぬうちに片付いていたことだろう。
(姫榕には何も心当たりはないけど、軍の方がうちに用事、ということ?)
いや。姫榕に知れていることなら、ここで私がすべきは、ごちゃごちゃ言わずに家へお連れすることだ。
(よし)
私は真っ直ぐに大参謀を見つめた。
「ご予定は」
「話が早いね。急でも平気かい」
「姫榕も気まぐれですので、おそらくは。多分今日はいると思います。店は開いていますし」
「碧悠、じゃあ今日お邪魔しようか」
「はい」
「朱春。今日の仕事が終わったらまたここへ。一緒に行こう」
「は、はい……あ。でも一応、一報入れておいてもよろしいでしょうか。店の予約のようにしてお伝えしておきます」
私が手を筆を持つ形にすると、参謀は意味ありげに目を細めた。
「碧悠。書くものを」
「こちらを」
青年、もとい碧悠さんが横から書簡を持ってきた。
「筆と墨、これ使っていいよ」
「ありがとうございます……」
大参謀が墨と筆を貸してくれた。えらく気軽に貸してくれるものだと思いながら、私は二人に見つめられながら、店に宛てて「今日はお客様をお連れします。お店にいてください」と書簡をしたためた。
「部下に届けさせます」
「は、はい」
書簡は綺麗に丸められ、碧悠さんの手に収められた。
「では時間を取らせて悪かった。碧悠、送ってあげて」
「はい。では朱春殿。戻りましょうか」
来たときと同様、碧悠さんに促され、私は大参謀に礼をして部屋を出た。碧悠さんについて廊下を歩く。不意に彼は振り返り、小さく笑った。
「流石、堂々とされていましたね」
流石の意味が分からなかったが、褒められているらしいので「ありがとうございます」とお礼を言っておく。
「大参謀を前にすると、大概の方は萎縮してしまうものです」
「もしかして、私不敬でしたでしょうか」
碧悠さんは口元を緩ませながら、「いいえ」と答える。何だか面白がられているような気がする。何が面白いのかはさっぱり不明である。
「これ以上言うと僕が不敬になるのでやめておきます」
「そうですか……」
よく分からない人だ。私は地面から建物を見上げ、さっきまでいた大参謀室を眺めた。
姫榕と張りそうな上背に、大きな手、鍛えられた体。表情の向こうが読みづらい、落ち着いた顔。年は四十くらいだろうか。少なくとも姫榕と劉燕よりは上だろう。口調は穏やかでも、雰囲気に迫力があった。あれが、たくさんの人の上に立つ人の纏う空気だろうか。
(姫榕とも、劉燕とも違う)
店にはしばしば官吏の人々も来るが、きっとここまで偉い人に会ったのは初めてだった。何せ、冠がついているのだから。
「では。また夕方」
「はい。失礼します」
宮廷の裏庭までくると、碧悠さんと別れた。
(かまど磨くんだった)
先輩女官の仕事をこなすべく、そのまま厨のかまどへ向かったのだが、かまどはもう磨かれており、差し込む日の光に黒く輝いていた。
「……誰かがやったのかな」
自分の外に犠牲者が出たのかもしれない。私はその人のことを思い、労わりの気持ちを胸に抱いた。
――ひゅ!
(ん?)
後ろから石が飛んできた。身を返して避けると、かまどに当たって、かん、と音が鳴った。誰が投げたのかと、飛んできた方を覗けば、女官服を着ている誰かが逃げていくのが見えた。
「…………はあ~」
どうやら変な恨みを買ったらしい。浮かぶのは、さっききつく睨まれた先輩女官。
(憂さ晴らしの手が早い)
私が武官に呼ばれたことをどう捉えたのだろうか。いい思いでもしてきたと思っているのだろうか。それともそういうことではなく、あの場で先輩の用事を後回しにしたことを怒っているのだろうか。何にせよ、彼女の考えは分からない。
投げられた石を拾い上げ、その辺にぽいと放る。
「じゃ、自分の仕事しようかな」
押し付けられたものがなくなったので、ここにはもう用はない。私は女官長たちに届いた書簡の仕分けをしに、その場を離れた。
・・・・・・
「劉燕。朱春から便りが届いた」
「どうして」
姫榕が上機嫌でやってきたと思えば、机の上に書簡を広げた。劉燕は「珍しいねえ」と平坦な調子で言いながら書簡に目を通す。
「へえー。ついにお友達を連れてくるんだ」
「そうらしい」
劉燕は「大変だ」とわざとらしく慌てる。姫榕は楽しそうに笑い声を上げた。
「夜が待ち遠しいな」
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