馴染み
陰口事件からしばらく。参謀及び春の祝賀の改変に反対の人々への陰口は、もはや珍しくないものとなっていた。今では耳にする度に怒っているのが、馬鹿馬鹿しくなってしまう。
もしかすると、若手官吏たちはただ愚痴を零しているのではなく、悪い噂を流すことによって、参謀の評判を落としたいのかもしれない。女官棟の方まで、「参謀に批判が集まっているらしい」という話が回ってきた。
とはいえ、当の本人は「言いたい奴には言わせておけばいい」という精神の持ち主であり、誰が何を言おうが、評判が落ちようが知ったこっちゃない。いつどこで会っても、堂々としている。
参謀たちをよく思っていない若手の人々からすると、それはさぞ面白くないことだろう。
しかし、もう準備は大詰めで、結局改変した形で執り行う方向で進んでいるのだから、いい加減にすべきなのではないか、と思うこの頃なのであった。
(はあ。そんなことも考えるようになってしまうとは)
私が参謀付きになってから、もう季節が二つ巡ろうとしている。何だかんだと早いものだ。吐いた息が白く昇って消える。何だかしみじみとした気持ちになった。
(最初は参謀と碧悠さんしか分からなかったけれど、今は知り合いも増えたし)
参謀の部屋に出入りする人は限られている。将と呼ばれる各部隊の偉い人か、その偉い人に使いに出されてやってくる人か。いずれにせよ、覚える数はあまり多くないので、彼らの顔は大体覚えた。紅龍楼の客の顔を覚えるよりは容易い。
(そういえばあれからまだ姜准様来ないな……本当、調子がいいんだから……)
そんなことを考えながら仕事に勤しんでいたある日。
「失礼します! 参謀殿はおられますか!」
静かだった部屋の中に、突然元気のいい声が飛び込んできた。
(この声は)
私は拭き掃除の手を止め、出入り口の方を見た。来客と目が合った。
「参謀は、ただいま外しておられます」
そう告げると、来客――黄狛さんは、凛々しくしていた顔をくしゃりと崩した。参謀と碧悠さんがいないと知り、一気に気を抜いたようだ。彼は「何だあ、そっかあ」と、だらりとして出入り口の壁に肩を預けた。
彼は名将呂将軍の部下であり、腕は確かなのだが、所属する部隊の気風か、畏まるのが苦手らしい。苦手ではあるが、一応参謀のところに現れるときは、びしっとしていなくてはならないので、やってくるときは頑張ってびしっとしてやってくる。
しかし、参謀がいないとなれば、びしっとしている理由はなく、黄狛さんは普段の彼に戻ってしまった。
「朱春は留守番ー? 参謀殿はいつ戻ってこられるって?」
黄狛さんは壁に肩を寄せたまま、その辺にあった金属製の鳥の置物をいじり始めた。それは先日、私が指紋一つ残さずぴかぴかにしたものであった。
(せっかく綺麗にしたのに……)
ついジト目で見てしまう。黄狛さんは参謀が帰ってくるまで居座るつもりだろうか。
「お帰りを待たれますか」
「ん~~どうしよっかなあ~。せっかく来たしなあ。でも長くなるならなー」
どっちつかずなことを適当に言う。私は「出られてからしばらく経ちますから、そろそろではないかと思いますよ」と教えた。すると、黄狛さんは「そうか!」と明るい声を出した。
「じゃあ、ここで待つことにしよう! 朱春、暇を潰そう!」
「私は特に暇では」
参謀のいないときにしか、参謀の執務机周りは掃除できない。このところ、参謀は部屋にいることが多かったので、この機会にこの辺を綺麗にしたい。
「そんなこと言うなよお~! ただ待ってるだけは辛いぜ~?」
「はあ……」
仕方がないので、掃除をしながら相手をすることにした。些か自分が無礼な態度を取っていると自覚しているが、丁寧過ぎる方が彼は嫌だそうなので、この対応でよいということにしてある。
「今日はどういったご用事で?」
「それがさあ~。この間、碧悠から渡された春の祝賀の警備配置案、呂将軍が嫌だって」
「嫌」
「もっと違うところがいいんだって」
「なるほど……」
「そんなわがまま碧悠が聞いてくれる訳ないじゃんよ~~」
どうやら板挟みになっているらしい。彼も来たくて来たのではない様子。
「困っちゃうよ、皆言いたいこと言ってさ~。なー朱春、普段参謀たちと何話してんの?」
「特に、これと言っては」
「そんなの息が詰まっちゃう! なあ息抜きにこっちにも来いよ~。そんで呂将軍の相手してくれよ~。ついでに俺とも遊ぼうぜ~」
「彼女はここで遊んでいる訳ではありませんよ」
突然、だらけ切った会話の間に、ちょっとした迫力のある声が滑り込んできた。
(あ。碧悠さん。……と)
「やあ黄狛。……何をしてる」
(参謀)
お帰りである。黄狛さんは完全に油断しており、二人の帰還に仰天した。
「その置物で何をしようと?」
参謀が薄く笑いながら尋ねた。ずっと鳥の置物を手にしていた黄狛さんはハッとして目を見開く。
「げ。こ、これは……! しし朱春、勝負だ!」
申し訳ないが突然のそのノリにはついていけない。その鳥でどう私と勝負しようというのだ。私はただただ困惑するしかなかった。
「黄狛」
参謀の低い声が彼を呼んだ。黄狛さんは「ひ」と小さな悲鳴をあげ、鳥の置物を元の位置に戻した。入口で小さくなる彼を横目に、参謀と碧悠さんが部屋に入ってくる。
「ただいま」
「お帰りなさいませ」
「お相手ご苦労様でした」
「ひどいぞ碧悠!」
碧悠さんは飛んできた抗議の声に、ただにこりと返すのみ。黄狛さんの顔がぎ、と歪む。
(結局、あまり掃除できなかった)
満足いかないが、時間切れである。私はその辺に置いていた掃除道具をまとめた。
「悪いね。途中かな」
部屋に引っ込もうとする私に、参謀が声をかける。
「……やり残しが、少しだけ」
正直に答えると、参謀は「邪魔が入ったようだからな」とからかう調子で言った。私は自然と浮かんだ笑みでもって返事に代えた。一礼して、その場を座す。
「参謀! 朱春をこっちにやる用はないのでしょうか!」
「ないよ」
参謀の一言により、バッサリと余談は終了した。碧悠さんに促されてようやく、黄狛さんは持ってきた用事を喋り始めた。声に元気がないのは気のせいではないだろう。
私は掃除道具を片づけ、一息ついた。
(……黄狛さん、仲良くしてくれるのはありがたいんだけど)
知り合いが増えたとはいえ、あそこまで砕けて接してくるのは黄狛さんくらいだ。他の皆さんはもう少し、距離を取る。一応、「参謀付き」の女官だからだろう。「暇を潰そう」なんて、きっと誰も言わない。
(「遊ぼう」も、凄いよね)
先ほど黄狛さんに「遊ぼう」と言われたことが思い出された。万が一、そういう機会があったとしても、お断りして帰ってこようと思う。遊んできたと参謀に知れたとき、黄狛さんが怒られるのは目に見えている。
大体、私と遊んで楽しいこともないのだ。そもそも何して遊べるというのか。彼らに混ざって私ができる遊びなどない。
(遊びの種類が違うって。私はこのとおり女子なのに……)
そう考えた瞬間、何かが頭の中を過った。
『もっと腰据えて構えろ』
『跳べ。跳んであの枝に乗ってみろ』
『走り込みが足りん。その速さでずっと走れるようにしろ』
私は「おや」と首を捻った。蘇った映像は、子供だった私と、今より若い姫榕。遊んでもらっていたときの記憶である。
「……女子?」
無意識に声が出た。私は私が期待したほど、女子っぽい遊びはしていなかったと気づく。――いや。
(遊びというか……訓練?)
今思うと、あれは遊びではなく、何かの訓練だったのではないだろうか。姫榕の「あれやってみろ」、「これやってみろ」の要求は結構きつかったし、そういえば楽しくないときもよくあった。
(できないのが悔しくて、何度も挑戦したな……)
劉燕は傍で見ているだけで何故か助けてはくれなかった。というか見ていないときも多かった。私は基本的に姫榕に構ってもらっていた。
私自身は彼と遊んでいるつもりだったからよかったものの、「虐められている」とでも思ったらきっととても辛い日々だった。
(よかった……ぼんやりしていて……)
感受性が鈍くてよかった。私は過去の自分を褒めた。おかげで元気に前向きに生きてこられた。
(でも、どうしてそんなに頑張ったんだろう)
跳ねて枝に乗れなくとも、おかしなことはない。普通である。周りの人がやっているのを見たことだってない。それなのに、私は何故、そこまで必死にできるようになろうとしたのだろうか。
(ああ……)
またひとつ、思い出が蘇った。耳の奥で懐かしい声がする。
『――ほらよ』
姫榕が跳んだ。着地の足音が彼の影を追う。姫榕が屋根の上から見下ろしてくる。太陽が彼の背中を襲い、強い光に目が眩んだ。
『やってみろ』
『――うん!』
私に「やれ」と言ってくることを、平然とやってのける姫榕が、かっこよかったのだ。
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