陰口
「こちら軍の分です。お願いいたします」
手に抱えている書簡のひとつを机に置く。返事をする官吏に一礼して、その場を離れた。廊下に出て、次の目的地を確認する。そのときびゅう、と冷たい風が吹いて、私の衣が大きくたなびいた。
鼻先や耳が冷たさにさらされる。夕洛の都が寒さに包まれたのは、あっという間だった。ここから先、しばらくは冬に耐える日々が続く。宮廷の向こうにそびえる天樂峰から雪解け水が下りてくるのを待つのだ。
(春が来たら……)
勿論嬉しい。作物的にも、交易的にも。しかし、春の到来と共に行われる例の儀式については、不安が日に日に大きくなっている。この行事改革については、意見がぱっくりと割れているらしいのである。
若手を中心とした大多数が、春の祝賀をもっと開けたものに、と推し進めているが、参謀他の方々はそもそもそういう趣旨のものではないと反対している。帝はこの件については「任せる」と言って特に意見は表明していないらしい。
今の宮廷は実力主義。この一大行事を成功させたならば、大きな功績になると信じて疑っていない官吏たちが、一層気合を入れているという噂。一方で、大参謀が大反対しているのを聞いていれば、私としてはどうにも「それはどうなんだろうな」と思ってしまう。
「――だから!」
(おや?)
廊下を歩いていたら、突然大きな声が聞こえた。出所は、私が今まさに向かっている部屋だった。
「あの方は我々が功績を上げることが面白くないんだ!」
(何だろう)
私は足を止め、気配を消して部屋の外に身を潜ませた。あの方、とは誰のことだろう。そんなに大声で、誰かのことを喋って大丈夫なのか。私は静かに耳を澄ませた。
「春の祝賀で、あっと言わせることができれば大人しくなるさ。帝に目をかけられたからといって、大きな顔ばかりされては。実力主義はあの方の代で終わったのではない」
「ふん! その実力もいかほどのものか! 戦もない世の中、どうあの方は評価されたと言うんだ!」
「冠だって、帝に気に入られさえすればどうにかなる……」
(…………ああ)
成程、うちの大参謀のことか、と容易に分かった。脳裏に参謀の姿が映し出される。
上に立つ人、しかも若くして出世したのであれば、このようにして人々から何か言われてしまうこともあるのだろう。姫榕、劉燕だって同業者その他から色んなことを言われている。だから、そういうことがあり得る、ということは理解できる。けれど。
(それを聞いて、どう思うかは別の話……)
参謀は、自分たちの妨害をしている。そして大した功績を上げたのでもないのに参謀の地位に座っているのではないか。冠も、帝を誑かして得たものに違いない。
(へえ……)
馬鹿馬鹿しい。
この人たちは、私よりも宮廷にいる期間は長いはずなのに、何を見ているのだろう。私は静かに驚き呆れた。それこそ実力主義の試験を潜り抜けて入廷した優秀な官吏なのではないのか。
『血税を使うんだから、どんぶり勘定じゃなくてきっちり根拠つけて持ってこいって言ってるんだよ』
『国の興りを祝い、安泰と繁栄を願う、宮廷として重要な祭礼です』
『せっかちは嫌いだって言われちゃったし、気長に待つよ』
参謀が部下たちへ厳しく指導していたのは、民の税金を無駄にはできないから。春の祝賀の新しい在り方に反対しているのは、そもそもの意義を違えているから。月影ちゃんに無理に会いに行かないのは、人の機微が分かるから。
謀略知略に長けていると聞くと、人間性を疑いたくはなるが、参謀としてそれができなくてどうする。
どこからどう見たって、この国の大参謀はまともだ。傍で見聞きしていれば容易に分かる。この人事は決して間違ってはいない。
大きな権力を持たせても大丈夫な人が、今の参謀に据えられているのだと、どうして理解していないのだ、この人たちは。
(出世に、目が眩んでいるの……?)
さもありなん。そもそも、参謀が彼らの出世を邪魔する理由がどこにあると言うのだ。既に軍で一番上であり、彼らに脅かされるようなところにはいない。それに私も詳しくはさっぱり知らないが、帝が冠を授けたのだから、それに値することがあったのだと考えるのが素直な考え方だ。あの言い様では、参謀だけでなく帝までも愚弄したと言われても仕方がない。
(そういうことが、見えていないの?)
私は腹の中がふつふつと煮え立つ感覚を覚えた。正直、こんな気持ちになることには自分でも驚いている。
しかし、どう聞いても、彼らは自分本位で幼稚な不平不満を口にしているだけなのである。自分の上司をそんな風に言われては、気分はよくない。私は参謀に恨みや嫌悪を抱いているのではないのだから。
おまけに彼らに高給が支払われていると思うと、我慢ならない。
(いや……ここで私が言い争っては、参謀も迷惑……)
私は大きく息を吐いた。腕に抱えている書簡を整え直す。
(顔を作らなくては)
何も聞いていない顔を。何も知らない顔を。
「――失礼します」
部屋の入口に姿を現すと、喋っていた人々はぴたりと口を閉じた。そしてその内の幾人かは、私の顔を見て「やばい」という表情を浮かべる。しかし、私はそれにも気付かないふりをした。
「こちら、お届けするよう言付かった書簡です」
「あ、ああ……」
「では失礼いたします」
さっさと立ち去ろうとする私の背に「待て」と声がかかった。振り返ると、私を呼んだ人だろうか。強張った顔をしている人が私を見つめていた。
「何か」
「い、いや。貴様、今の話……」
「今の話?」
「な、何でもない……!」
大真面目にとぼけると、官吏は「余計なことを言ってしまったかも」と冷や汗を流し始めた。
「あの、もう行っても」
「いい! 行け! い、いや行ってよい」
「失礼いたします」
私が退出したあと、しばし部屋の中ではどよめきが起こっていた。大分迂闊である。誰かに聞かれて困る話なら、場所を選ぶべきだ。
(……春の祝賀、か)
私は廊下から、ぼんやりと空を見上げた。どんよりとした薄暗い雲が空を覆っている。この雲は、温かくなったら晴れるのだろうか。
「ふう……」
無意識にため息が零れた。
大参謀室に戻ると、参謀と碧悠さんがいつもどおり書簡を広げて話をしていた。二人は使いから戻ってきた私を見て、「ご苦労様」と労いの言葉を向けてくれた。
「恐れ入ります」
一礼して、控室に引っ込んだ。ひとつだけ置いてある椅子に腰を掛け、長く息を吐いた。
「朱春」
不意に参謀に呼ばれる。私は立ち上がって向こう側に顔を出した。
「はい」
「おいで」
参謀が手招きをした。それに従って、参謀の席の横へ赴く。参謀は立っている私を見上げて、目を細めた。
「珍しく、怒っているね」
(相変わらず……)
鋭い。これだから、この人はまったく侮れないのだ。傍に控えさせている者の変化を見逃さない。
「…………」
聞いたことを告げるべきか否か。考えている間、何も答えないでいる私に気を害すことなく、参謀は「ね、碧悠」と碧悠さんに同意を求めた。碧悠さんはそれを受け、「そのようですね」とあっさり頷いた。
(……)
どうしてか二人の視線が生暖かい。どういう気持ちで私を見ているのだろうか。
「向こうで何かあった? 何か不愉快なことでも言われたかい?」
「内容によっては厳重注意の対象となりますので、どうぞおっしゃってください」
(なるほど)
内容によっては厳重注意の対象らしい。私は先の部屋の前で耳にしてきたことを反芻した。参謀や帝への不敬な発言は、どういう扱いになるのだろうか。
「朱春? 朱春?」
「反応がありませんね」
「いけないな。言ってごらん。私も、君を使いに出しているからには責任がある。官吏といっても、ピンからキリだからね。女官に言い寄る輩もいる」
「……え」
思わず声を漏らすと、碧悠さんが目を光らせて「どこのどなたですか」とかかってきた。
(違う……)
彼らが思っている内容ではない。私は「いや」と否定しようとした。しかし碧悠さんに阻まれる。
「言いづらい内容でしたら、女官長のどなたかを」
「ち、違います。大丈夫です。そういうのではありませんので」
見当違いの方へ大事になりそうだという予感がして、私は碧悠さんの言葉尻を奪った。それを眺めていた参謀の目が、ぐっと細められる。私はハッとした。
「では。何を聞いてきたのかな」
「……あ、あの」
何だろう。参謀は、初めから私が不埒な輩に声をかけられて機嫌を損ねていたのではないと知っていたのではないだろうか。どうしてかそんな気持ちにさせられた。
(心の隙を突くのがうまい)
嫌な感じはしない。むしろ感心してしまう。私は自然に、「何かあった」ことを明かしてしまった。私はこういうやり取りがあまり上手ではない。育て親たちでさえ、参謀と同等にやりあうことができるか分からない。
(それでも私が今、警戒しないのは)
参謀が、私を警戒しているのではないと伝わってくるから。どちらかというと、私のことを案じてくれているのではないか、という気がするから。
私は参謀を真っすぐに見つめ直した。参謀は私が喋る気になったのを察したのか、「聞こう」と笑みを浮かべる。
「道中、『面白い話』を聞いてきまして……」
参謀から柔らかく命じられている「面白い話があったら聞かせて」に乗じ、私は耳にしてきた話を参謀たちに披露した。
すると。
「ああ~~~~。それね~」
「それですか~」
聞き終えた参謀は、頬杖を突いてゆるく頷き、碧悠さんも「またですか~」という感じで首を傾げた。どうやら初耳ではなかったらしい。この様子だと、陰口を叩いていた彼らへの厳重注意はなさそうだ。
「そういうことでした、ので」
「分かった。ありがとう」
「お礼を言われるようなことでは……」
聞こうと思って聞いてきたのではない。そう言おうとしたところへ、参謀の声が被せられる。
「だって、君、怒ってくれたでしょ」
「…………」
私は口を噤んだ。意味ありげににやにやしている参謀と、その横で平和的に微笑んでいる碧悠さん。私は彼らに、何と返せばよいか分からなかった。
「……失礼いたします」
ぺこりと頭を下げ、控室に引っ込んだ。
「おや、隠れてしまわれましたね」
「本当だね。寂しいね」
(…………)
軽口が聞こえるが、私は聞こえない振りをして、しばらく部屋に籠って大人しくしていた。
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