方向転換
参謀たちが紅龍楼を訪れてからしばらく経った。参謀はあの日、大満足でお帰りになった。しきりに月影ちゃんが美しかったと言うので、姫榕にそう伝えたら心底嫌そうな顔をしていた。
そんな参謀だったので、余程また来たいと言うかと思ったのだが。
「普通に飲みたいって言われちゃったからねー。あれは、声がかかるまで待ってろってことかな。せっかちは嫌いだって言われちゃったし、気長に待つよ」
などと笑っていたので、どうやらしばらくは来ないらしい。その辺の機微が分かるのは流石である。自分の欲求を優先してせっかちに会いに行きでもしたら、「嫌いだと言ったじゃない」と月影ちゃんは本当にもう二度と会わないだろう。
中身が姫榕でなければ、お高い妓女とやり手の客の高度な駆け引きだったのだが、繰り返すが中身はどうしたって姫榕なのである。「普通に飲みたい」なんて真っ黒な嘘で、「呼ぶまで来るな」と釘を刺しておいて、いつまで経っても呼ばないつもりだろう。
そこへ参謀がどの程度「また会いたい」と思うかどうか、で事態の面倒臭さは変わってくるが……。
(変な攻防が始まったな……)
極力私を間に挟まないでほしい。私は切に願いながら、大人しく知らん顔して過ごすことにした。
一方、同行していた碧悠さんも「楽しかった」と言ってくれた。私は参謀が楽しかったことよりも、彼がそう言ってくれた方が響いた。彼は余計な仕事をさせられたのに、嫌な顔ひとつしなかった。
あの夜、その余計な仕事を増やした侵入者は、無事軍の屯所に連れていかれ、お縄になった。劉燕曰く「実害があったのではないから、すぐ解放される気がするけどね」と軽く言っていたので、もしかしたら懲りずにまた襲いに来るか、違う手を考えるかもしれない。
過去に遺恨がある人、今を妬んでくる人。何かとうちは目をつけられやすい。私は、私たちの居場所を守るために、やれることをしなくてはならない。
そう思うと、私がここで参謀付きの女官をしていることは、当初考えていたよりも意味があるような気がしてきた。
(何かを疑われているのだと思っていたけど……)
参謀も、碧悠さんも、姫榕や劉燕のことは聞いてこない。それどころか「女官棟で聞いた話を教えてくれ」と、内部の情報収集を命じられている。彼らが私に何を求めているのかは知れないが、私が彼らを求める理由は見えたような気がする。
(大参謀と、その右腕と、信頼関係を築く)
そうなれば、私の後ろにある実家も、たとえ変な疑いがかけられたとていきなりどうにかなったりしないだろう。
(ここにいることは、危険どころか……? もしや、私たちにとって、利の方が大きい……?)
うちは悪いことをしていませんよ、安全ですよ、あなた方は何を企んで私を近くに置いたのですかという気持ちで働いていたが、そんなことはもうやめだ。
ここでの信頼を勝ち取り、いざというときに力になってもらえるように。こちらが使ってやるくらいの意気込みでいよう。
(……そうしよう。ずっと及び腰では、いたくないもの)
私は心の手綱を引き、大きく方向転換をした。
・・・・・・
「碧悠。これ頼むよ」
「承知しました」
参謀は書簡を整え終えると、くるくると丸めて碧悠さんへ差し出した。それを碧悠さんは丁寧に受け取る。
ひと段落したと見た私は、用意していた茶菓子を持って出ていった。
「ありがとう」
「どうぞ」
参謀は私から茶菓子を受け取ると、「あ。そうだ碧悠」と部屋を出ようとしている碧悠さんを呼び止めた。
「朱春を連れていって。案内して覚えてもらって」
参謀が何やら唐突な指示を出した。私は盆を手に「ん?」と固まったが、碧悠さんはすんなりと「分かりました」と応じる。
「朱春殿、では参りましょうか」
まるで前から段取られていたかのような滑らかさである。私は「もしや」と思いながら、急いで盆を控えの部屋に置き、碧悠さんに従った。
「――これは、あれでしょうか。以前に碧悠さんがおっしゃっていた、私がその内届け物を、という」
大参謀室を離れ、少し行ったところで前を歩く碧悠さんに声をかけた。碧悠さんは振り返ると、「そういうことですね」と柔らかく笑った。
「私が近々、手が離せなくなりそうですので。今の内に、ということでしょう」
「お忙しくなるんですか」
「春の祝賀の準備が。今度はやることが大幅に増えましたので」
「あ、警備……」
春の祝賀を迎えるまで、まだ結構な時間があるが、もう準備に取り掛かるらしい。それだけで、彼の大変さが窺える。私の反応を見て、碧悠さんは「ふふ」とまた笑う。
「さ。こちらです。今から行くのは資院というところです」
「資院」
「国の財務を管轄しているところですね。道中の他の部署もご案内しますよ」
私は碧悠さんに連れられて、宮廷内にある執務室をいくつも教えてもらった。人事や給料を司る評院、経済の発展を司る易院、教育や文化芸術を司る書院、その他色んな役割を持った部署が存在していることを知った。
(私がここに来るきっかけを持ってきたのは確か書院の姜准様だったな)
残念ながら書院は前を通っただけだったので、姜准様がいるかどうかも分からなかったが、この辺を今後歩いていれば、そのうち見かけることもあるかもしれない。
連れられて歩いていると、資院と掲げられている部屋の前に着いた。
「はい、目的地ですよ。失礼します」
「……」
臆せず入っていく碧悠さん。私もえいやとついていく。
部屋の中には机がいくつも並んでおり、机の上には書簡が山のように積まれていた。それぞれの机の前では、一心不乱に書きものをしていたり、しかめ面で読みものをしている人が座っている。
彼らは、碧悠さんと共にやってきた見慣れない人物に気付くと、怪訝そうな表情を浮かべた。私はどんな顔をしていればよいのか分からなかったので、とにかく「失礼します」という感じで部屋の中を歩き続けた。
碧悠さんは部屋の奥に位置する、窓側の机に近づくと、「お願いいたします」とそこにいた人に声をかけた。
「ああ、はい。軍の分ですね。とりあえず、はい。そこに置いてください」
碧悠さんは言われたとおり、抱えていた書簡を机へ置く。
「今後もしかしたら、私の代わりに彼女が来るかもしれませんので。よろしくお願いいたします」
碧悠さんに言われ、私は机にいる人へ頭を下げた。
「……あんたも偉くなりましたねえ」
しげしげと私を見てから、彼は碧悠さんにしみじみと言う。碧悠さんは「参謀付きの、女官です」とはっきり告げた。どうやら碧悠さんの女官だと思われたらしい。
「……」
資院の人は、私を再度眺め、「ふうん」と興味があるのだかないのだか分からない感じで頷き、「ご苦労様」と言って机に向き直った。
碧悠さんは私に「これで終わりです」と目配せをして知らせた。来た時と同じように、碧悠さんを前にして部屋の中を進む。なんともあっさり終わった。
資院の部屋を出ると、碧悠さんは「お疲れ様でした」と笑った。特に疲れてはいないけれど、私はお気遣いに礼をした。
「さっき対応してくださったのは、軍の予算を担当されている、紀官吏です。捉えどころのない方ですが、怖い人ではありませんので」
「はい」
「各部署で取りまとめた予算が、あそこでこれから審議されることになっています。今後しばらくやりとりが多くなる見込みです」
「予算って、先日まで武官の方々が頑張って資料を作られていた」
「はい、それです。これからは参謀と私が、審議中に削られないように頑張る番ですね」
「何と……」
お金を確保するのは簡単ではないらしい。皆、参謀から何度もやり直しをくらい、えらいことだと思っていたが、それだけでは終わらないときた。
私はさっぱり知らなかった国の仕組みを知り、「ははあ」とため息を漏らした。
「勉強になります」
「ふふ、前向きですねえ」
前向き、と言われて私は先日した、自分の決意を思い出した。
(そう、前向きでいなくては)
私は微笑んでいる碧悠さんに向かって、「はい」としっかり頷いた。
碧悠さんの温かい眼差しが、私に注がれていた。
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