美しい彼女
考える間もなく、体が動いていた。頭の中に言語化できる思考はない。刀を持った人物は、店の隅を静かに移動していた。注意力が散漫になっている客たちは、その危険な物には気付いていない。
店の者にも気取られていないつもりだろうか。
私は目配せをし、秦や溌に要警戒の合図を送った。常に辺りに目を配っている二人は、さりげなく私に「分かった」という意を返す。
「――っ」
男は目的の対象に近づいたからか、急に足を速めた。刀片手に向かう先は。
(姫榕!)
楼主である姫榕のところへ、男は真っ直ぐに進む。迷いや戸惑いは見えない。手練れだろうか。
(あの位置は、まだ客たちの死角!)
一方、怪しい気配を発して接近する影に気付かない月影ちゃんではない。月影ちゃんは参謀に顔を向けたまま、盃に手を伸ばした。
同時に、参謀も影を視界に捕らえたのか、酒瓶を握る手を返そうとする。
(させないぞ!!)
二人が動けば客が騒ぐ。特に、好戦的な姫榕が手を出す前に、何とかしなくては。体の中で血が滾った。
「ふっ」
私は髪に差してあったかんざしを引っこ抜き、思い切りブンと投げた。かんざしは鋭く飛んでいき、刀を持つ男の手を掠める。そしてそのまま月影ちゃんのひざ元に突き刺さった。
「!」
痛みからか、あるいは突然のことに驚いたのか、男は刀を取り落とした。
(今だ!)
私は男に急接近し、流れで刀を回収した。
「今……何が……?」
注意を乱された男がハッと息を呑んだところへ、私は今し方拾った刀を、男の背中に突き付けた。
「――このまま後ろに下がりなさい」
「……!」
声を落として男に告げる。客たちはまだ、起こっていることに気が付いていない。
「暴れるのであれば、このまま肺に突き刺す」
「っ」
男はぎくりとし、私の言うとおり、ず、と足を後ろへ引いた。私は男の肩を掴んだ。背後を捕らえたまま、男を店の端にするすると誘導していく。
見渡す店内、聞こえる話し声は変わらない。お客たちは皆、楽しそうにして食べ、飲み続けている。
壁際にやってきた私たちを待っていたのは秦と溌だった。私は彼らと共に男をこっそりと店の奥へ連れ去った。
・・・・・・
「……見事」
酒瓶を置きながら、志鶴は口元に弧を描いた。姫榕は妖し気に目を細め、盃を放ると、舞台に突き刺さっているかんざしに手を伸ばした。
舞台の床から引き抜き、きらりと光を反射するそれを眺める。そして不意に目線を上げ、挑戦的に志鶴を見た。
目が合った志鶴は何事もなかった顔で「先のは」と短く問う。姫榕は「さあ」と適当に答えた。
「逆恨みは日常茶飯事なのでな」
「成程」
志鶴は姫榕の言葉に、ふ、と息を漏らす。
姫榕は向かいに座る男の表情、声色、息遣いを静かに観察した。意図してではなく、獣がそうするのと同様に。
「……うちを警戒しておられるか」
姫榕は相手にしか聞こえない声で呟いた。志鶴は姫榕の鋭い視線を受け、目を瞬かせる。
「貴殿のところへは、うちで一番いい刀を貸している」
姫榕の声は、発する気配に反し、いたく落ち着いていた。
志鶴はそっと、朱春が消えた方へ目を向けた。当然、そこには誰もいない。暗がりと、壁があるだけだ。
しかし、志鶴の目には先の光景がはっきりと浮かぶ。それを見て、志鶴は柔らかく微笑んだ。
「道理で。美しい訳だ」
「……ふん」
「はは。まだ序の口らしいな」
志鶴は頃合と見て、腰を上げた。袖にされたのにいつまでも居座ることはできない。元の席から、碧悠が呆れた顔で見ている。
「では。普通に飲む機会を待たなくてはならなくなったね。月影殿」
月影はにやりと笑う。
「せっかちな男は嫌いよ」
「はっはっは」
志鶴は頭を逸らせて笑った。ここは負けと引き下がるほかない。目当てだった彼女には会えたのだから、よしとする。
客たちは月影に袖にされた珍しい客が、堂々と自分の卓に戻っていく様子をしげしげと眺めた。
無遠慮な視線は、しばらくやまなかった。
「月影に断られた客」、というのはここでは「月影と共に呑める客」よりも遥かに特別だったのである。
・・・・・・
店の奥、比較的空いている物置に、先の危険人物は押し込められた。後ろ手を溌がしっかりと捕らえ、秦が男の足首を縄で縛る。私は男が急に暴れ出さないかと警戒して見張っていた。
男の自由が完全に奪われた頃、報告を受けた劉燕が物置の入口に現れた。
「おや。仕事が早いね」
男の状態を目にし、劉燕は薄く笑う。
「お前たちは戻っていいよ。人手が足りなくなるといけない」
「はい」
「分かりました」
劉燕の指示によって、溌と秦は部屋を出た。残ったのは、劉燕と私だけ。劉燕は床に座らされている男をスッと見下ろした。
「さて……君は。ああ、見たことがある顔だな」
「⁉」
男は目を見開いた。そんなこと言われるとは全く思っていなかった様子だ。劉燕は男の顔をジーッと見つめ、首を傾げている。きっと記憶を辿っているのだろう。
「……」
沈黙に、男は怯えているようだった。そして、「どうか見たことある、というのは気のせいであってくれ」という強い願いが顔に出ていた。
しかし、男の願いは劉燕の「思い出した」によって砕かれた。
「この間潰れた『蘭麝閣』で働いていたね」
(蘭麝閣)
次は私が記憶をひっくり返す番だった。その名前には確かに聞き覚えがある。しかも、割と最近。
(あ)
劉燕の「この間潰れた」を頼りに、一軒の酒楼が脳内に蘇った。ここらで特に目立つ絢爛豪華な外観。窓から漏れる妓女と客の声。蘭麝閣は良くも悪くも評判の、有名な酒楼のひとつだった。
そんな蘭麝閣が陥落したのは、つい先日。
『三軒先の酒楼が潰れるらしいよ』
始めてそのことを知ったのは、姫榕と劉燕と三人で食事をしていたときのことだ。私の知らないところで何事か軋轢があったらしい二人は、そうなっても何ら不思議ではないという顔で話していた。
(確か、『妓女はどこかからか攫ってきた女たち』とか言ってたような気がする)
「……」
そんなことを思い出せば、自然と男を見る目が冷たくなる。そんな非道なことをしていた挙句に、うちに客を装って刀を持ってやってくるなんて、どういう了見だ。
「で? 潰れた蘭麝閣の従業員が? 何の用だい」
劉燕が優しい雰囲気で冷たく訊く。
「……」
こんなことをしているくらいだ。尋ねられたからといって、簡単に喋るような真似はしない。こうやって捕まることもあり得ると分かっていたはずだ。
劉燕もあっさり口を割るとは思っていないので、男が黙っていても、特に苛立った様子はない。
「そうだよね。むしろぺらぺら喋り出したら、却って怪しいもんな」
(確かに)
私は静かに同意した。まだ捕らえられただけで、何もされていない。彼が喋ろうとする気持ちになるには、何もかも足りないかもしれない。
「……察しは、ついているんだけどね」
劉燕は腕を組み、呆れたように頭を傾ける。男は僅かに身じろいだ。
「だが、お前のとこの楼主とはいざこざが多くてねえ。どれのせいでやってきたのか分からないな。まさかお宅が潰れたのはうちのせいだと思っているとは思わないけど」
「!」
男の目が大きく見開かれた。口元が何か言いたそうに動く。しかし、ぐっとこらえ、男は劉燕を睨むだけに留めた。
(でも、その動揺は、肯定しているようなもの)
劉燕も同じことを思っているのか、男を見下すようにして薄く笑っている。
「ははっ。どうしたものかな。口を割らせる方法はいくらでもあるが……」
「……っ」
男の表情が強張る。口を割らせる方法。頭にいくつか具体例が浮かび、少し嫌な気持ちになった。直接目にしたことはないが、かつて不安定だった暮らしの中で、激しめの話し合いが行われていたことがたまにあったのは知っている。
「とはいえ」
劉燕が妙に明るい声を出した。
「うちはごくごく普通の酒楼だ。優秀な従業員のおかげで未遂には終わったが、刃物を持って、襲おうという明確な意思で月影ちゃんに近づいたことは不問にはできない。しかるべき処置を取らせてもらおう」
(しかるべき処置?)
何だそれは、と私が疑問に思ったのと同時に、劉燕は私に向かってにこりと笑った。そして。
「お前の“お友達”、呼んできな」
私がげんなりする指示を出したのだった。
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