月影ちゃん
「おおおお! あれが月影か!」
「すげえ! あんなのがこの世に存在するなんて」
「わあ……こりゃその辺の妓女は敵わんな」
店内がざわついている。初めて彼女を見る客が多いらしく、盛り上がり方も上々だ。
(で――こちらの、初めての方は……)
ちら、と一番近くの卓の様子を窺う。これで参謀の願いは叶ったはずだが、果たして反応はいかに。
「わあ……あれは美人だなあ」
「あれが……⁉ 先日の……⁉ こ、混乱してきました」
満足そうに笑っている参謀と、目を白黒させている碧悠さん。
「……ご期待には沿えましたでしょうか」
私が小声で尋ねると、参謀から「ああ! とても!」と清々しい笑顔が返ってきた。
「……っ」
碧悠さんがそれを目にして、とても残念そうに額に手を当てている。複雑な胸中だろう。分かる。
「うーん、そうか、成程皆が見たがる訳だね」
優秀な右腕がどんな顔をしているかなど意にも介さず、参謀は月影ちゃんから目を逸らさずにしきりに「来てよかった」と繰り返す。
ただの興味本位、怖い物見たさなのかと思いきや、ここまで熱心に眺めているのでは、やはり本当に正真正銘の物好きなのかもしれない。
(もしくは根っからの美人好き……? 美しければ誰でもいい派……? 極度の面食い?)
私があらゆる可能性を探していると、突然びりっとした気配を感じた。ここは屋内。風などそよとも吹いていないのに、空気の波動を受けたような感覚。これは。
(う、うわ……!)
月影ちゃんが、ぎらつく目でこちらを見ていた。それを見て「あ、こっち向いた」と笑っている参謀の気が知れない。
「…………」
月影ちゃんの唇が動く。私はその動きを目で追った。
(ど け)
何と。命令だった。どけ、とはどういうことだろう。私にそんなところで油を売っていないで働くなら働けと言っているのだろうか。
彼女のご機嫌を損ねる訳にはいかない。店の平和のためにも、自分のためにも。丁度、卓に料理が運ばれてきた。今だ、と私は二人に断りを入れた。
「ごゆっくり、お楽しみください」
参謀と碧悠さんは私が仕事に行くのだと察すると「行ってらっしゃい」と送り出してくれた。私はすぐさま、参謀たちの卓を離れると、舞台の中央でどんと座っている月影ちゃんへ視線を送った。
月影ちゃんと目が合う。彼女は「それでいい」と読み取れる一瞥を放った。
そこへ彼女のための大量の食事と酒が届けられる。これからあそこで宴会でもするつもりかと思ってしまうが、全部月影ちゃんのものである。
大皿が四つ、大きな甕がひとつ。月影ちゃんを囲んだ。
「おお~! 今日もすげえ量だな」
「いいぞー!」
常連たちがはしゃぐ。月影ちゃんは登場しただけでも湧くし、だらだらしているだけでも目の保養なのだが、食べっぷりや飲みっぷりが豪快で見ていて気持ちがいいので、彼女が食べたり飲んだりするのは特に人気の見世物として成り立っている。
「ふん」
月影ちゃんは微塵の愛想もなく、客に応える。そして早速、大きな盃を酒で満たした。なみなみとあるそれを、彼女は一気に呷る。
ごくりごくりと飲み干す様が、人の目を引き付けた。
「……」
月影ちゃんが飲んでいたのは水ではないのかと思いたくなるくらい、彼女は平気な顔で盃を下ろした。
「皆も食いな、呑みな。腹いっぱい」
店の中に、彼女の声が響いた。お客たちは皆、頼もしい彼女に応じるように、わっと彼女を囃し立てた。今日もお客たちは月影ちゃんに励まされるようにつられるように、たんと食べ、飲んでいくだろう。
(姫榕)
彼女がここでよく口にするセリフではあるのだが、それを聞くたび、私が覚えるのは、ただひとつ。安心である。
ここにはたくさんの食べ物と、たくさんの酒がある。
食べて、飲んでも、有り余る。だから大丈夫、安心していい。
(どうぞたんと召し上がれ)
一段とにぎやかになった店内を歩く。途中で追加の注文をたくさん受けた。厨房と、給仕はこれからてんやわんやになるだろう。
「うまい!」
「紅龍楼は何でも最高だあ」
聞こえてくる声に、自然と頬が緩んだ。
「ほい、上がった! 持ってって!」
「はい!」
「こっちも! 悪いがもう一回来てくれな」
「あいよ」
店の人間が動き回る。汗をかいて働いている。舞台では姐さんたちが店の雰囲気を盛り上げ、そして舞台の中央では――。
「うっ、もう呑めねえ」
「強過ぎる……」
月影ちゃんに飲み比べを挑んだ客がばたばたと伏していた。彼らの顔は見覚えがある。ああして挑んでやられているのを見るのは何度目だろうか。酔った勢いで月影ちゃんに「勝負だあ!」と絡んでいくのはいいが、毎度倒れるのはいかがなものかと思う。
もしや、端から勝てるとも思っておらず、やられに行くのが楽しいのかもしれない。
とはいっても、店としては酔いつぶれた人の対応というのは正直面倒といえば面倒なので、無謀な戦いはできればやめてもらいたい。
「はーい、お客さん、水だよ。飲んで飲んで」
「毎度こんなになるまで飲まれちゃ困りますよ。勝てる訳ないんだから。いい加減なところでやめておいてくださいよ」
倒れている人に水を飲ませているのは秦と溌だが、二人とも介抱しながら愚痴が止まない。
「懲りない奴らだ」
そんな中涼しい顔でひとり飲み続けているのは月影ちゃん。どんな体をしているのかとたまに恐ろしくなる。
「次は俺だあ!」
「俺も俺も! 二人がかりだ!」
(何が楽しいのだろう)
今しがた向かっていった二人もよく見る顔だ。返り討ちにあうこと、もう数えきれない。
それでも月影ちゃんと飲んでいるのは楽しいらしい。
「どうぞ。お料理お持ちしました」
店内に目を配りながら給仕を続ける。酔っぱらっているお客が増えてきた。店は夜が更けるにつれて、一層の注意が必要になる。
「朱春」
「はい」
参謀たちのいる卓の横を過ぎたとき、声がかけられた。卓の上には、厨房が気合を込めて作った料理が並んでいた。
「忙しそうにしているところ悪いんだが」
「いえ」
「あれに挑戦するのは、何か資格が要るのかい」
「え」
あれ、というのは。参謀が羨ましそうにして見ている先には、月影ちゃんと飲み比べをしている人々。
(何てこと。ここから眺めているだけでは満足できない……!?)
参謀もあれが楽しそうな催しに見えてしまっているのだろうか。頭の中に劉燕が言った「物好き」がまた蘇る。
私は「特に資格などはありません」と答えながら、碧悠さんへ視線を遣った。碧悠さんはもう色々割り切ったらしく、私に「どの料理も酒も素晴らしい味ですね」と言ってきた。流石右腕。「もう好きにして」という心地だろうか。
参加資格は特にないと知った参謀はというと。手に酒瓶と盃を持って「では」と早々に立ち上がった。
「あーあ」
(あーあ)
いきいきと舞台に向かって歩いていく上司の背中を見守る私たち。碧悠さんの声と、私の心の声がぴったりと重なった。
さして遠くない舞台の上。既に月影ちゃんの向かいには、先の挑戦者たちが転がっていた。彼らの顔は苦しそうではなく、いたって穏やかであった。やはり彼らにとっての遊びはああして倒れるまでが一連らしい。
そんな酔狂な遊びに身を投じようと、参謀は月影ちゃんの正面に座った。月影ちゃんが顎を上に向け、見下ろすように参謀を眺める。どう見ても不敬だが、それを咎める程、参謀は野暮ではない。
「私とも一献頼むよ」
参謀は酒瓶を掲げて言った。
「……ふ」
不敵に微笑む月影ちゃん。あの新規の挑戦者は誰だ、もう一戦見られるのか、と期待する客たちの注目が集まる。
――しかし。
「アンタとは、普通に飲みたいからね」
月影ちゃんはすっと腕を伸ばし、蓋をするように自分の盃を手で覆った。彼女の様子からして、決して「これ以上はもう呑めないから」という意味ではないのは明らかだった。
「……」
目を瞬かせる参謀の横顔が見える。
「月影が、断った……?」
「あの誰が相手でもどうでもいい月影が……?」
店内がざわつく。月影ちゃんが断ったという事実は、客だけでなく私の心にも動揺を強いた。私は息を呑んだ。
(姫よ……)
瞬間、私の目が光の一閃を捕らえた。ハッとし、反射的にその正体を知ろうと目を凝らし、神経を研ぎ澄ませた。
「っ」
それは店内の提灯の明かりに煌めいた――刃だった。
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