お客様
すれ違った姐さんがにっこり笑った。
「朱春今日は厨房じゃないんだ」
私が元気なく「そう」と答えると、姐さんは白魚のような指で私の着物の袂に触れた。そしてきゅっと引っ張り、私の着崩れを整えた。
「ありがとう、桃香姐さん」
「表に出るなら、きちんとしなくちゃ」
「うん」
「嫌そうな顔! あはは、あとでね~」
姐さんは手をひらひらと振りながら、廊下を歩いていった。
「……」
私は自分の着物を見下ろし、ため息を押し殺した。厨房ならばもっと適当な、動きやすい服でいいのだが、今日は店の表にいることになっている。舞台で楽器を奏でたり、舞ったりする姐さんたちのように着飾る、とまではいかないけれど、地味ながらもそれなりに綺麗な格好に身を包んでいる。
「ああーあ」
店の仕事で一番好きなのは厨房だが、別に表で働くことも嫌いではない。嫌いではないのだが、今日はどうしても気が重い。気が重いのには理由がある。
「朱春。橘殿は戌時頃にいらっしゃるんだよね」
背後から劉燕が台帳片手にやってきた。
「そうお聞きしてますよ」
こういうことだ。参謀がこのあと碧悠さんと来店予定だからだ。さっきまで顔を合わせていた職場の上司に何故また会わなくてはならない。厨房に引っ込んでいれば顔を合わせなくて済むのに。
「そろそろ月影ちゃんに出てもらわないと」
劉燕の顔が楽しそうだ。参謀来店の話を聞いた劉燕は、姫榕とは違い、それはそれは愉快そうに笑った。しかも参謀が月影ちゃんを見たいらしいと知ると、珍しく笑い過ぎて呼吸困難になっていた。
「いや~そうだろうとは思ったけど、とんだ物好きだよね」
「……」
劉燕が何の悪気もない、清々しい顔で微笑む。異論はないが、安易に同意は表明しかねる。姫榕のことを思っても、参謀のことを思っても。
「よかったよ、月影ちゃんが呑み込んでくれて」
「…………」
参謀来店の日が決まったとき、月影ちゃんは「気分次第」と言いながら、当然その日はお休みしようとしていた。
そこへ劉燕が「朱春も表に出るから」という謎の交換条件を出し、渋々月影ちゃんが了承したから、彼女は今日店に出てくれる。ちなみに私は了承した覚えはない。
とはいえ私も、参謀が月影ちゃんを見ることを楽しみにしていると知っているので、そちらも無視はできず、無駄な抵抗は無駄だと諦め、この状況に甘んじることとなった。
「お前も今日はご苦労様だけど、頑張ってね」
「はい……」
劉燕に背中をぽんと押される。私は観念して、店に続く廊下を歩いた。
「混んでる」
「おおっと。いつもこうだぞ」
店内に顔を出すと、給仕をしている秦と鉢合わせた。秦はこれから姐さんたちに舞台の出番の合図をしに行くそうで、私にいくつか仕事を預けていった。
(はい。ええと、三番注文待ち中、十二番は料理の完成待ち。次のお客が来たら奥に通す)
秦に言われたことを確認しながら店内を見回した。まだ参謀たちは来ていないようだった。
視界の端で三番の卓のお客が店の者を探すような素振りをした。足早に席に近づき、注文を取る。覚えた料理と酒をそのまま厨房へ伝えた。
「へーい。じゃあ代わりにこれ持ってってくれ。十二番の」
「はーい」
厨房の孫から料理を渡された。言われたとおり、それを十二番の卓へ運ぶ。それと同時に、店の扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
同じく給仕の係をしている溌が動き、新たな客を迎えた。確か次の客が来たら奥に通す段取りだ。
(えーと、奥)
私が席を確認しようと、入口から目を離したとき。
「あ、朱春だ」
「本当ですね」
小声だが、しっかりと聞こえた。数刻前、終業の挨拶を交わしたときに聞いた声だった。私はさっと扉の方を振り返る。
(……おいでなすった)
来店したのは大参謀及びその右腕の碧悠さん。二人は予定のお客なので、用意していた卓がある。奥への案内は無用となった。
「いらっしゃいませ」
挨拶をしないのは不敬だろう。私は二人のところへ参じ、店の者として挨拶をした。すると横で溌が「そうか」と閃いた顔をして、静かに脇の方へ後退した。ご親切に私に代わってくれたのだろう。
(いいのに……)
彼に案内してもらってよかったのだが、変に気を遣われてしまった。逃げる訳にもいかないので、私はそのまま流れで二人を薄幕で隔てられているちょっといい席に連れていった。
「こちらです」
参謀は上座へ、碧悠さんは下座へ座り、二人とも「へー」という面持ちで店内を見回した。
「今日月影はいるのかい」
本当に見たいらしい。参謀の質問に、素直に「はい」と答える。参謀は「やった」と嬉しそうにした。その向かいで碧悠さんが微妙な顔になった。
「もしかして、かけあってくださったのでは」
小声で碧悠さんが尋ねてきた。私が取引条件にされてはいるが、私が彼女に直接交渉したのではない。色んなことを考えた末、「まあ何と言いますか色々あって」と全く情報のない回答をした。
碧悠さんはそんな私に苦笑いするしかなかった。
「いつも給仕をしているのかい」
「時々です。たいていは厨房におります」
「そうなんだ。もしやわざわざ今日は」
「色々ありまして」
「はは、どうやら何かと気を遣っていただいたらしいな」
参謀は何かを察したらしい。眉を下げて微笑んだ。
「感謝する」
「……滅相もありません」
私は二人に向かって礼をした。ここでは大事なお客だ。来たからには、それなりに楽しく過ごしていってもらいたい。
「ご注文は――」
突然、わっと客が湧いた。
(あ)
私は舞台の方へ顔を向けた。参謀と碧悠さんも私に続く。
「おお」
「すごい」
店の奥中央の舞台に、姐さんたちが登場していた。楽器が賑やかしく鳴り、艶やかな舞が披露される。美しい彼女たちの姿に、お客たちは目が釘付けとなった。
「美しいねえ」
「本物の楽団を見ているようです」
姐さんたちが褒められ、私は少々誇らしい気持ちになった。いつもたくさん練習を積んでいるし、美への追及を疎かにしない彼女たち。同じ紅龍楼の人間として、私は彼女たちを尊敬している。
「しばらく続きます。お料理、適当にお持ちしましょうか」
「そうしてくれるかい。いいよね、碧悠」
「楽しみです」
「では」
私は一旦二人の卓を離れ、厨房に駆け込んだ。とりあえずまずは酒と、ちょっと摘まめるものがあればいいだろう。
早速甕から酒を汲み、漬物を適当に拝借する。会計の記録を忘れずつけ、酒一式を盆に載せる。そしてせっせと料理を拵えている二人に声をかけた。
「ごめん、二番の卓ね、二人。適当におまかせできる?」
張と孫は振り返り、「おう、分かった」と返事をした。これで後は安心である。
(とにかくまずはこれを出してから)
私が盆を持って参謀たちの席に戻ると、そこには人影が増えていた。増えていた人物について、大した驚きはない。挨拶に来ていた劉燕だった。
「……失礼いたします」
劉燕が無言で私の持ってきた酒とつまみを観察する。言及なし。合格したらしい。
(高級白酒ですもの!)
「まずは私に注がせてください」
笑顔の劉燕が参謀の盃に酒を注ぎ、次に碧悠さんに注いだ。二人は盃を掲げ、ぐいと呷った。
「わあ。上ものだ」
「美味しいです」
劉燕はさらりと会釈をし「ごゆっくりお楽しみください」と礼をした。
「じゃ、朱春あとはよろしく」
囁くようにして私にそう告げると、劉燕はするすると席の隙間を縫って奥へ消えていった。
(……よろしくって言ったって。私も他に仕事しないと)
よく知ったお客だし、他にも給仕はいるが、この席だけについている訳にもいかない。今日は普通に給仕としての仕事をするつもりなのだ。
(ずっといるのも気まずいし)
私は他で用事はないかと周囲に視線を走らせた。そのとき、じゃああんと大きな音で鈴が鳴る。
(はっ……!)
私は音の方へ意識をやった。もはや見なくとも分かる。彼、いや彼女だ。
(つ、ついにお待ちかねの……)
一歩、二歩とやってくる。凛々しい面持ち、堂々とした立ち姿。
「……」
しかしどこか気だるそうな視線遣い。その目は、ぎらっとこちらを向いた。
「う……美しい……」
どこかの卓から、誰かの声が漏れる。
「……」
月影ちゃんが現れた。
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