偉い人
参謀は言いたいことは言い切ったのか、叢雲殿という老師にそれはそれは丁寧な拝礼をして、書物庫を後にした。じっとして、壁になっていた私と碧悠さんも、上司に倣って礼を取ってから書物庫を出る。
私たちの去り際、老師は「ひな鳥のようだね」と皺だらけの顔にさらに皺を刻んでいた。
その尊さを感じさせる微笑みに、はたと気付く。
(叢雲の老師……。ん? あ、「叢雲」殿って、『冠』か……!)
冠を持っている人を見たのはこれで二人目だ。あの老師も、帝に何かしらの功績を評価された凄い人ということだ。
(……っ! いやだめだ!)
つい振り返りたい衝動に駆られたが、先を行く二人に後れを取る訳にはいかない。私は自分で自分の尻を叩く思いで、一歩踏み出した。
(気付くのが遅れた……不覚……参謀のお怒りの方に気が行ってしまって)
書物庫でのことを反芻しながら、ひな鳥よろしく参謀の後ろを碧悠さんと共について歩く。少し行ったところで、参謀はくるりと我々を振り返った。その顔はやはりいつも通り、しれっと、あるいは飄々として見える。
(ご機嫌はいかに)
私は碧悠さんへ視線を投げた。
「……」
碧悠さんは微笑みを絶やさず、静かに首を横に振った。どうやらまだだめらしい。
「碧悠」
「はい」
「そういうことだから。少し先の話だけど、警護の配置、皆に振っておいて」
「分かりました」
参謀はゆっくりとまた歩み始めた。そして私たちに向かって、植木の先に見える回廊を指す。
「あそこはね、『朱の回廊』。宮廷の自慢の中庭を囲んでる。ここからでは少し見づらいかな」
私はひょこひょこと移動し、首を伸ばした。青く茂る木々の隙間に、確かに鮮やかな朱塗りの柱で作られた廊下が見える。
「春になると、桃の花が咲く。回廊と中庭が一番見事になる時期だよ」
春、という単語が気を引いた。成程、きっとその一番見事な時が、春の祝賀を執り行うときなのだ。
私は想像した。全く見たこともないし、知識もないので、本当に思い浮かべることしかできないけれど。
(満開に咲く桃の花。晴れ渡る空。香りが風に駆けていく。宮廷は静かで、厳かに儀礼が執り行われている)
それはどんなに美しく、清廉なものだろう。
(ああ、そこを踏み荒らすようなことをされたら……)
何も知らない私でも、少しだけ、参謀が怒る気持ちが分かるような気がした。
「あ? もう一度言え」
「だから……」
その日、私は宿題を持って帰ってきた。いつものように、姫榕の部屋に「帰ったよ」と寄ったが、今日はそれだけでは済まない。
今さっき、ちゃんと用件は全て言ったのだが、絶賛変身中の姫榕は半分聞き流したらしい。まるっと繰り返すことを要求された。
(んもー)
私は顔におしろいをはたいている姫榕に、「参謀がね」と話しかけた。
――時は少々遡る。
「紅龍楼に行きたい」
本日半日ご機嫌斜めで過ごしていた(らしい)参謀は、不意にそんなことを言い始めたのだ。
私は「唐突に何を」と拭き掃除をしていた手を止めた。
「そういえば、碧悠と行きたいねって話してたんだよね」
参謀は横にいた碧悠さんに同意を求めた。
碧悠さんは「そうですね」と答えたが、顔が若干強張っていたので、彼の方はあまり乗り気ではないように見受けられた。
「月影にも会えると嬉しい」
「……」
前も、参謀は月影ちゃんに興味があるような発言をしていた。うちに来た時に、正真正銘同一人物の姫榕には会っているが、それで満足はしていないらしい。月影ちゃんの美しさは有名とはいえ、熱心なことだ。中身を知っていてなお会いたいのか、と少しだけ引いたのは内緒である。
果たして二人の来店について、姫榕たちの許可が要ることかどうかは分からなかったが、私はこの話を一旦持ち帰ることになった。口を利いたところで、あまり役に立てる気はしなかったけれど、月影ちゃんに「いてね」と言うくらいはできよう。
「――参謀がね、来店したいんだって」
「……ほお」
姫榕の反応はイマイチだった。さして嬉しそうではない。どちらかというと「えー?」という感じだ。予想どおりではあるので、特に私も動じることはない。
「そんなこと言ってんのか」
姫榕は気だるげにこちらを振り返った。
美しい月影ちゃんの顔が仕上がっている。紅を差さなくても既に色っぽい。何度見ても見飽きない魅力がある。
(何故だ……)
時々この姿に釈然としないことがある。これが冗談ではなく、本当に「美人」だの「目の保養」だのという理由でお客が集まってくるのだから、真実美人なのだが、中身はあの姫榕なのだ。
容赦なく敵とみなした者をぼこぼこにしたり、遊んでやると言いながらぼこぼこにしたり、大皿何杯もの料理を平らげたり、何人も飲み比べで潰した挙句に一人でまだ飲んでいたりする、姫榕なのだ。
「……今日も、綺麗だね……」
このいかんとも納得しがたい気持ちを押さえつける暴力的な美貌。私は一方的に敗北した気持ちになり、その美しさを讃えた。
姫榕は「突然何だ」と訝しげにしながら、髪を結い始める。化粧に次ぎ、こちらも慣れたものである。彼は普段適当に結っている髪を上手にまとめ、それなりにこなれた感じのお団子にした。
「で? 何だ? 橘殿が来たいだと?」
「ああ、うん。そう」
「勝手に来ればいい。別に、他の客と分け隔てもしないし、優遇もせん」
「特別なお客待遇しないの?」
「しない」
姫榕ははっきり言った。でも大体特別なお客待遇をするかどうかは劉燕が決めるので、実際はどうなるのか分からないなと思った。
「それでね姫榕」
「何だ」
「参謀ね、月影ちゃんに会いたいんだって」
「あ?」
姫榕、もとい、月影ちゃんはガラ悪く首を傾げた。
「それならなお普通に来い。個室であいつの相手をするのは御免だ」
「ああ……」
私もあまり見たくない図ではある。個室で参謀が客をし、姫榕が月影ちゃんをしているのを見るのはキツイ。相当キツイ。
「おい、何考えてやがる」
「むぐ」
またしても片手で両頬を掴まれた。もう月影ちゃんなのに、この振舞いはどうだ。
「言っとけ。勝手に来いって。俺がいるかどうかは気分だ、分からん」
(はーい)
喋れないので、頷いて応える。それで伝わったのか、月影ちゃんは「よし」と言って私から手を離した。
「それにしても俺に会いたいって何だ」
「さあ……? 興味? 好奇心?」
月影ちゃんは引き気味に眉を顰めた。気持ちは分かる。
「はあ……変なのに目を付けられた。あーあ、じゃあアタシ行くわよ、朱春」
「あ、はい」
そうこうしている間に、月影ちゃんは準備をすっかり終えていた。
「あ。今日はどうすんの」
部屋を出かかったところで振り返りざま、月影ちゃんが問いかけた。質問の意図としては、私が今日は店の手伝いをどうするつもりかと訊いているのだろう。
「んー……厨房行くね」
「ん」
月影ちゃんは至極簡単な返事だけ寄こした。
「じゃ、あとで食べ物頼むから」
「分かりました」
月影ちゃんはうっとりするような微笑みを浮かべると、堂々たる様で廊下を歩き、階段を降りていった。おしろいの匂いと、香の混じった匂いが残される。
「……はっ」
しばしうっかりぼんやりとしていたが、不意にハッと我に返る。
(わ、私も行かなきゃ)
彼女の言ったとおり、「何か持ってこい」というお達しがじきあるだろう。厨房に入るならば、私もしっかり手伝わなくては。
(月も恥じらう、絶世の美女……)
本人あれはあれで気に入っているらしいので良いのだが、彼もいつまで月影ちゃんでいられるだろうか。
落ち着いた、花街での暮らし。時折思い出す、その日暮らしの頃。
(ああ……)
遠くから人々の湧く声が聞こえた。月影ちゃんが店に現れたのだろう。楽しそうだ、姫榕も、お客も、店の皆も。
「私も行こう」
私は別棟に急ぎ、着替えて支度を整え、厨房に滑り込んだ。
案の定、少しして表から「月影ちゃんが腹減ったと」と給仕係が連絡に来た。
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