お怒りの理由
参謀から「女官棟で面白い話があったら聞かせて」と言われて数日。参謀の目論見どおり、先輩女官たちからの妨害をされなくなった私は、女官棟の水場等に滞在している際に、ちらほらと話しかけられるようになった。
会話の出だしは大抵「まだ無事?」という心配である。とりあえずその設定に乗っかるしかないので「はい」と答えているが、危険な目に遭う予定はない。毛頭ない。
「じゃあね、元気でね」
別れ際には無事を祈られる。ありがたいとは思うが、余計な心配を振り撒いているようで、いささか申し訳ない気持ちになる。これは明らかに参謀がいけない。
(かといって、言い訳するのも面倒だしな……)
あれは参謀の冗談で~、と言ったらまた先輩たちが騒ぎかねない。
(これで……いいのか……?)
この現状に若干疑問を抱きつつ、参謀室への廊下を今日も行く。
「やあ、おはよう」
階段を上がろうとした先、上階の欄干から参謀が顔を覗かせた。どうやらあちらも部屋に戻るところらしい。
(朝議帰りかな)
参謀の朝イチの仕事は帝他、偉い人たちが出席する朝議に出ることである。勿論大参謀なので、彼も漏れなく偉い。
いつもは参謀室に寄ってから朝議に向かうのだが、今日は直接向かわれた。よって本日顔を合わせるのはこれが初である。
「おはようございます、お帰りなさいませ」
挨拶を返して階段を上がる。一方、参謀は同じ場所に立っていた。何故先に部屋に戻っていないのだろう。
「どうかなさいましたか」
不思議に思って尋ねてみると、参謀は「うん」と言って僅かに微笑んだ。
そして部屋の方へ向かって「碧悠」と呼ぶ。
「はい」
部屋から碧悠さんが出てきた。
「書物庫に行くよ」
「承知しました」
碧悠さんはそのままこちらへ歩いてくる。二人はこれから書物庫なるところへ行くらしい。
(ということは私に一人で留守番をしていてね、ということ……)
指示を先回りして、これから部屋でどんな仕事をしようかと考える。といっても、不在中に訪れた人々への対応や、掃除、その辺の補修、繕い物くらいしかすることはないのだけれど。
「朱春」
「はい」
呼ばれて、顔を上げる。参謀は私の脇を過ぎながら「行くよ」と発した。
(……行くよ?)
一拍、はてと考えた。振り返ると、参謀と碧悠さんの背中が見える。
(行くよ、と言われた)
あれは「行ってくるよ」という意味ではない。私にも「行くよ」と言ったのだ。
「朱春」
参謀が歩きながら私を再び呼んだ。私はハッとした。
(行かなくては)
視界の端で、参謀の部屋の前に兵が二人付いたのが見えた。あれで留守中の対応とするらしい。
(行先は書物庫と言ったけれど、どうして私まで……?)
私までついていく理由が不明だが、来いと言われたからには行かねばならない。急ぎ、二人の後ろを追う。
参謀を先頭に、碧悠さん、私の順で歩いた。
「……」
軍の敷地を抜け、文官たちのよく分からない色んな部署がある区域にやってきた。ここは私のような下っ端は、許可がなくては入れない。いくら参謀付きになったからといっても、自由に歩き回っていい権利は私にはない。
(へええー。宮廷内はこうなってたんだ)
普段、中庭と呼んでいいのかも分からない、非常にざっとした、下っ端の通ってよいところしか歩かないので、周りの景色がとても物珍しく映る。
あまりきょろきょろして怪しまれてもいけない。私は好奇心を押さえ、努めて前を見て進んだ。
「朱春殿は、こちらを歩くのは初めてでは」
不意に碧悠さんが私へ少し振り返った。
「はい。指示がなくては入ってはいけないと」
「そうですよね」
「……行くよ、と言われたのでついてきてしまっておりますが」
どうして私も、と暗に問う。碧悠さんは少し渋い顔をした。
「うーん、恐らく今後あなたにこの辺りを歩いていただくおつもりなのではないかと思いますが」
「今後?」
「はい。先日、私の手が空かない時はあなたに届けものなどをしてもらおうかとおっしゃっていたので」
「何と」
それでは、この随行の意図としては、私に今来た道を覚えておけということなのか。
「あまり覚えてはよくないのかと、見たものを忘れるつもりで歩いておりました……」
こそこそと告げると、碧悠さんは「あなたらしいですねえ」と笑う。私らしいとはなんだ、と思ったけれど、私が問う前に彼は「しかし」と声を落とした。
「あくまで私の予想ですので。真意は後で参謀にお訊きしましょう」
「後で、ですか」
「ええ」
どうして今は訊かないのだろうという私の疑問をくみ取ったのか、碧悠さんが苦笑する。碧悠さんは視線を一瞬前に遣り、「どうやら」と囁いた。
「朝議で何かあったのでしょう。今は、少々参謀のご機嫌が悪いようですので」
――分からなかった。参謀が機嫌を害しているとは。傍に長くいる碧悠さんだから気付いたのだろう。私の目には、参謀はいつもの参謀のようにしか見えなかった。
(参謀も参謀で、隠すのが上手なんだろうけど……)
とはいえ、碧悠さんには変化が分かったのだから、何か印はあったはずである。それが見抜けなかったとあれば、これは改善をはからねばならない。
(火に油を注いで大惨事……!)
そんなことになったらどうなるか、あまり考えたくもない。この人の一言で、色んなことが動かせてしまうはずなのである。
安心安全に生きていくためには、顔色を読めるようにならなくては。
決意を胸に、私は目的地へ到着した。古びた蔵のような建物の入り口には、確かに「書物庫」と書かれている。
参謀はためらいなくその扉を開いた。
「ごめん仕る」
「おやおや橘殿」
「どうも、叢雲殿」
私たちを迎えたのは穏やかそうな老師だった。
(おやこの方は――っ!)
瞬間、参謀からとても強くて冷たい怒りの気配が発せられた。
(……急に出してきた)
驚きを覚えながら、碧悠さんと並んで部屋の隅に立つ。碧悠さんは穏やかな面持ちで、二人を眺めていた。
(びりびりする)
痛いくらいの圧である。よくこれだけの気持ちを隠していたと感心してしまった。
「すみませんね、突然お伺いして」
参謀はとげとげした声で叢雲殿と呼んだ老師に話しかけた。老師は「まあまあ」と参謀を宥めながら椅子をすすめる。
(普段あんなにゆるっとした雰囲気の人が、こんなに怒るなんてどういったことだろう)
私は壁の一部になり、机を挟み向かい合って座る二人を観察した。老師はいかにも博識で柔和な感じのおじい様であり、怒っている参謀を年長者らしく窘めている。この御仁が書物庫の主なのだろうか。
「お越しの理由は見当がつかないでもありませんが。先の朝議でしょうか」
老師は柔らかく尋ねた。対するうちの参謀は、ぎらっとした瞳を老師に返す。
「私が腹を立てていることを面白がっていらっしゃるかもしれませんが、あなたこそ怒っていいことですよ」
「ははあ。やはりそのことですね。いえ、私も当然反対ですよ。――春の祝賀を、何だと思っているのかと」
(春の祝賀?)
私は聞こえてきた単語に、街の賑わうある日を思い出した。「春の祝賀」はめでたいと、洛夕の街がお祭り騒ぎになる日だ。
「国の興りを祝い、安泰と繁栄を願う、宮廷として重要な祭礼です。これまで宮廷は厳かに、謹んで儀礼を行ってきました。それなのに、あの馬鹿どもが」
(馬鹿ども)
珍しく参謀が悪態を吐いた。思わず目を瞬かせる。横目で碧悠さんを窺うと、彼は「心中お察し」というような顔で参謀を見ていた。私よりも事態を把握していると見える。
壁際の私たちをよそに、二人の会話は続いた。
「民たちの祝いに近づけ、宮廷ももっと楽し気な雰囲気で執り行った方がいい、とおっしゃってましたね」
「そもそもの意義はどこにいった! ちなんで宴会がしたければそれこそ外に行け!」
参謀は吐き捨てるように言った。
「よくも、祭礼院のあなたの前であんなことが言えたと」
「私も耳を疑いましたねえ。……ただ、我々にとって非常識な意見でも、お若い方は賛成を唱える方が多くいらっしゃいました。あのとき、帝は私の方をご覧になられました」
「それは……」
「帝は賛成も反対も唱えられず、我々に任せると仰って中座なさいましたが、お心には、きっとこの件について何かおありだと思います。ここは帝を信じませんか」
「……」
押し黙る参謀に、老師は言い聞かせるようにして言った。
「あなたがたの警備の負担が増大するのは私も誠に遺憾とは思いますがね」
「……はあ」
参謀の大きくて深いため息が、やけに大きく聞こえた。
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