かわいそうな子
何かあったのだろうか。いつも私を見つけると鬼の形相で追いかけてきていた先輩女官たちが、今日は大人しい。大人しいどころか、どちらかというと、私を避けているような印象さえある。
私を見つけても顔を逸らし、足早に遠ざかるのだ。
逃げようとした私は肩透かしをくらい、その場でしばし首を傾げた。
更におかしなことに、私に積極的に近づいていた先輩だけではなく、私とは軋轢のない女官たちまで、どこか遠巻きに私を見ているではないか。
(何か、あった?)
私が何かをした覚えはない。昨日は先輩と普通に追いかけっこをし、参謀にお茶を運び、その後は女官長たちの手伝いに行ってもいいと言われたので、そのとおりに一日女官長たちの補助をしていた。
なので、私が何かをした、のではなく、彼女たちに影響を及ぼすような何かがあったのでは、と考えている。
周りの視線に居心地の悪さを感じながら、参謀の部屋の埃だらけだった調度品を井戸で洗っていると、同じく洗い物に来た年配の女官に「あら朱春ちゃん」と声をかけられた。
「こんにちは」
私は彼女に礼をし、場所を空けた。彼女は大きな甕を持っていた。
「ありがとう。よっと」
どしん、と音がしそうな程重そうな甕だ。力持ちである。
(すごい)
感心して見ていると、彼女は「あんたさ」とひそひそ言いながら私に近づいた。私もつられて「はい」と声を潜める。
「大変なとこに飛ばされちゃったねえ」
(飛ばされちゃった?)
「昨日大参謀さんがあんたに会いに寄ってってさ」
実際には私は会ってはいないが、女官長から言伝は聞いた。そのときの話だろうか。
「そのときに結構なこと言ったそうじゃないか」
「結構なこと?」
何だそれは。聞いていない。私はつい聞き返し、キョトンとしてしまった。
「あんたあれだろ、参謀の盾にされたり、作戦のために犠牲にされることもあるそうじゃないか」
「え……そうなんですか……?」
「知らなかったのかい!」
どういうことだ。聞いていないぞ。私がそのままを顔に出したからか、女官は哀れみのこもった目で見てきた。私はその目を見た途端、本日周りに感じていた違和感の正体に気が付いた。
(こ、これだ……!)
きっと皆、彼女と同じ気持ちで私を見ていたに違いない。どことなく、気遣うような、それでいて腫れ物を触るような。例えるなら生贄に選ばれた人を見ているような。
(おい)
道理でこの座を狙っていた先輩たちがよそよそしい訳だ。昨日まで花の筵に見えていた場所は、今日には今にも火で炙られるかもしれない危険なところになったのだろう。
「何かあったら、助けを求めるんだよ。……あんたを推薦したのは女官長たちだっていう話だから、頼りづらいかもしれないけど……」
そういえばそういう設定だった。心の底から気の毒、という顔を向けられ、私は何と答えていいか分からずにただ神妙にして「ありがとうございます」と頭を下げることしかできなかった。
ぴかぴかになった鉄製の鶏の置物を持って大参謀室に戻ると、参謀がまた誰かを詰めているところだった。
私はできるだけ気配を消して、参謀室から控室へ滑り込むようにして入った。隣の部屋から声が漏れ聞こえてくる。
「私は別に、予算を削りたい訳じゃない。血税を使うんだから、どんぶり勘定じゃなくてきっちり根拠つけて持ってこいって言ってるんだよ」
(おお……)
正論過ぎて、予算の案を持ってきた武官は何も言えないようだった。さっきも部屋に入るときにちらっと見たら、背中がとても丸かった。余程参謀が怖いのだろう。
「お前のとこの将も、大雑把過ぎる。頭の中にはちゃんと考えがあるはずだから、しっかり記して提出するよう伝えて」
「はい……!」
私は武官の人の名前は碧悠さんしか上げられないが、ここに出入りするのは専ら武官の人たちである。何回か顔を見た人もいるけれど、名前までは知らない。観察の結果言えるのは、皆参謀を前にすると小さくなってしまう、ということだ。
予算案提出のお使いをさせられているのが、そこまで位の高い人ではないからか、この部屋での滞在中は皆さん参謀に委縮している。碧悠さんに最初連れてこられたとき、参謀を前にすると皆委縮してしまうと聞いたが、その事実がよく分かった。
その碧悠さんだが、彼は若くして参謀の右腕に抜擢された凄い人らしい。その上誰に対しても礼儀正しく、丁寧に接するので、他の武官も彼に一目置いているとか。私のことも「朱春殿」と呼び、親切にしてくれる。私は恭しく扱われることがあまりないので、時々こそばゆくなってしまうのだが。
とはいえ物腰が柔らかくとも、決して甘いということではない。締めるところはきっちり締める、侮れない人でもある。
参謀不在のとき、どうにかして参謀に掛け合って今の資料で通してくれないかというお願いをしに来た武官がいたが、彼は「できません」と一蹴した。ごねても無理、と相手に思わせる、静かな迫力があった。
あの現場を見たとき、うちの紅龍楼の困ったお客を対応する役に欲しいと思ったのは秘密だ。
「失礼しました」
武官の人が出ていった。私はそろりと控室の戸を開き、参謀の様子を窺った。
「どうしたの」
参謀は気配にすぐ気が付いた。この人も、全く侮れない。
「少しだけ、よろしいでしょうか」
「いいよ」
あっさりと許可が下りた。私は部屋から出て、参謀の執務机に近づく。一礼してから、口を開いた。
「先ほど他の女官から聞いたのですが……。私は参謀の盾にされたり、作戦のために犠牲にされることがあるのでしょうか」
当初、「参謀付きの女官に」という話をされたとき、そんなことは言われなかった。それどころか、ちゃんと身の保証をしてくれたはずだ。
「ふっ。話が回るのが早い」
参謀はおかしそうに私を見た。
「効果はあったかな」
(そういうことですよね)
そんなことをわざわざ向こうに言いに行くには、理由があると思った。本気でそういうつもりがあるにしろないにしろ、別に発表しなくたっていいのだから。
(先輩女官を退けたんですよね)
昨日、「困ったことはないか」と聞かれたばかりだ。この文脈で合っているだろう。
「会う方会う方から、哀れみの視線を頂戴しました」
「はっはっは」
参謀は朗らかに笑った。私も笑えればよかったのだが、それはできかねた。何故なら、新たな疑問を抱いてしまったからである。
(私は気にしていないと言ったのに、どうして対処されたんでしょうか)
きっと私のためではない、という確信めいたものがあった。何故なら、参謀付きの女官としては今のところ与えられた仕事に支障は出ていなかったし、私をそこまで贔屓する訳もない。
参謀側で、何か目論見があってのことではないのか、と私は睨んだ。
「警戒しなくていいよ」
参謀はゆるりとした調子で言った。私が笑っていない理由を分かっているのだと思った。
「君を陥れようとか、そういうつもりじゃないから。そんなことをしたら君の身元保証人に恨まれてしまう」
「はあ……」
「思っているとおり、彼女たちにあのままでいられると不都合があってね。ちょっと介入させてもらったよ」
「不都合とは……?」
参謀の口元に笑い皺が浮かぶ。
「新しいことを頼んでもいいかな」
それは私に意向を確認しているかのような言い方ではあったが、立場は当然参謀の方が上である。命令のように言わないこの人を、誠実と思ったらいいのか、性質が悪いと思ったらいいのか。
私は意を決し、参謀の目を真っすぐ見た。
「御聞かせいただけますか」
参謀は、目を細めて「あのね」と切り出した。
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