嘘も方便
「あ! いた!」
「待ちなさいよ!」
あれから。先輩たちの活動が激しくなってきた。最初は「さりげなく」邪魔する作戦だったのだが、あまり成果がなかったために、堂々と追いかけられるようになった。
大抵の場合、先輩が私を見つけるよりも先に私の方が先輩を見つける。今のところ、彼女たちが私を発見するのは、私が速足で歩いて逃げ切れる「見つかってもいいや」くらいの距離を取ってからである。
自慢ではないが、逃げるのは得意だ。
「ふー……。逃げ切った」
本日も追いかけっこを乗り切り、参謀室のある建物の前で一息つく。毎日毎日、お互いよくやる。
参謀は軍の所属とはいえ、職種的には武官でなく文官に値する。武官はちょっと雅に欠けると思っている先輩たちは、これまで同じ官吏でも、必死に文官を追いかけていたのだが、私という身近な存在が急に高位の文官――大参謀付きになってしまったがために、彼女たちの目標は、私を追い落として自分が代わりになることに定められたらしかった。
なので、もはやこの追いかけっこはただの腹いせの嫌がらせではなく、彼女たちの玉の輿作戦の一環となっており、厄介さが一回りも二回りも厚くなっている。
幸いなことに、この間、姫榕が気まぐれに気晴らしをしてくれたおかげで、小さなことはどうでもいいのだ、という心持になっている。
先輩たちに見つからなければ、あるいは見つかったところで逃げればいいだけなので、彼女たちのことはさして気にしなくていいと、この状況を割り切ることにした。
昨日姫榕にそう話したら「単純だな」と爆笑された上、隣にいた劉燕にも「いい子だね」と子ども扱いされた。あの人達はたまに私のことをすごく幼い子のように扱うことがある。
私はもう齢十八の立派な大人なのに。確かに大人びた容姿ではないし、言動も紅龍楼の姐さんたちからすると子供っぽいかもしれない。しかし元を辿ると、その一因はあの二人が私を子ども扱いすることにあるのではないかとも思う訳である。
周りがああなのだから、流されてはいけない。さもなくば、私はいつまで経っても子供っぽいままになってしまう。それは望むところではない。少し反省をしながら、私は建物の階段を上がった。
「どうも。お疲れ様です」
部屋の前に碧悠さんが立っていた。何だかただの挨拶をされただけのようには感じず、私は彼に「何かありましたか」と尋ねた。
「毎日、お疲れではないかと」
碧悠さんはスッと視線を女官たちの棟へ移した。その動作で、彼が例の追いかけっこのことを知っているのだと容易に察せられた。そして、彼が知っているということは、当然参謀も知っているはずである。
どうして知っているのだということはさておき、どうして聞いてきたのだろうか。
(もしや、私の仕事にご不満が)
そういうことを示唆する「お疲れでは」かもしれない。私は碧悠さんに小声で訊き返した。
「何か、私の仕事に不都合がありましたでしょうか」
「? どういうことでしょうか」
碧悠さんが柔らかい表情をして首を傾げる。
「? あ、いえ。私に至らぬことがあって、それがあの、女官間のアレによるものではとご指摘されたのかと」
「ははあ」
碧悠さんは何かを納得したかのように頷いた。そしてきっぱりと「違いますよ」と否定した。気持ちがいいくらい、きっぱりしていた。
「参謀、朱春さんはこう言っておられます」
碧悠さんが部屋の中に声をかけた。すると参謀の「そっかー」という声が返された。何が「そっかー」なのだろうか。相変わらずここのほんわかした会話は気が抜けそうになっていけない。
碧悠さんに促され、彼と共に参謀室へ入る。参謀は「大変そうだから、一応聞いとかないと、と思って」と会話の続きを口にした。
私のことを思って聞いてくれていたらしい。そんな気遣いを受けるとは思ってもみなかった。
「……気にかけてくださってありがとうございます。ですが、特に気にしていませんし、苦でもありませんので」
参謀と碧悠さんは「へー」と目を大きくした。
「だって君、ここから出ては絡まれてるじゃない。女官長たちも一応食い止めてるみたいだけど」
「女官長たちも?」
「うん。こないだ謝りに来られちゃった。私たちに迷惑がかかっていないかって」
今度目を見開くのは私の番だった。流石、相手が参謀ともなれば、女官長たちも気を遣わざるを得ないらしい。管轄している女官が参謀の気に障ったとあれば、女官長たちも面倒なのだろう。
「私は特に何も被っていないと答えておいたけれど、肝心の君がどうかと思って。直接相手をしているのは君だし」
「恐れ入ります」
「で? 本当に平気なんだね?」
参謀の目が一瞬鋭くなった。
「やせ我慢とか遠慮が聞きたいんじゃないって分かるよね」
「……はい」
「どう?」
私は正直に答えた。
「小さなことだと思って、特に気にしておりません」
「…………」
参謀はしばし私を見つめた。私はその目をしかと見返した。嘘ではないです、という意を込めて。
やがて参謀は「分かった」と頷き、私に持っているお茶を寄こすよう手で合図した。
「どうぞ」
「ありがとう。あっちが困ってたら行ってもいいよ」
「分かりました」
あっち、というのは女官長たちの補助のことである。ここですることがないのにじっとしているのも苦痛なので、私は向こうで手伝うことはあるかと様子を見に行くことにした。
私は一礼して、その場を座した。
・・・・・・
「嫌な顔せず行ったね。また絡まれるかもしれないのに」
「行きましたね」
朱春が去った後、二人は彼女が出ていった戸を眺めながら口にした。
「小さなことだと思って、気にしていないって」
「言っていましたね」
「随分とおおらかじゃない?」
「流石、あの二人のところにいる人というべきか……」
碧悠が指す二人とは、言わずもがな朱春の「身元保証人」のことである。確かに、その二人の傍で生きている彼女ならではの肝の据わり方を目にすることもあるが、そんなことがその二人や朱春に聞かれたら気を害すのではないか、と志鶴は思った。
「……まあまあ。さてどうしようかな。彼女が何とも思っていないなら彼女がどうにかしようという気はないだろう」
「女官長たちがいくら言っても無駄なのはもう分かっていますしね」
志鶴は碧悠に「声が高いよ」と注意した。
とはいえ、彼の言葉は真実であり、女官長たちに「困っているから何とかして」と言ったところで事態は変わらないのは目に見えている。ちなみに問題を起こしている女官を解雇しないのは、いくら彼女たちでも人手としては惜しく、ちゃんと働きさえすれば役に立つ、という女官側のしょっぱい事情らしい。
「でも何とかしないと、困るんだよね」
「そうですね」
「仕方ないな」
志鶴は立ち上がった。碧悠は「ご苦労様です」と頭を下げた。これも仕事だ、何のことはない。
「じゃあ行こうか」
「はい」
志鶴は碧悠を連れて参謀室を出た。先に行った朱春は既に姿はなかった。相変わらず足が速い。志鶴はゆったりとした足取りで、目的地へ向かった。
参謀が滅多に足を踏み入れることはない、女官の働きどころ、洗い場、厨を含む、女官棟である。
「さてどこにいるのかな。見つけてもらうのが早いが」
志鶴は目を細め、辺りを見回して言った。
遠巻きに志鶴を眺める者たちは皆、下働きの者であり、衣からして志鶴が高位であることは察せられたが、皆「あれは誰だろう」という顔をして通り過ぎる。志鶴がそこへ足を踏み入れるのは、あまりに場違いだった。
彼らに正体が知れるのは、「知らない人がいる」と報告を受けた女官長の一人が事実確認に駆けてきたときであった。
女官長は参謀の顔を見ると、「どうしてこちらに!」と慌てた。その声を聞きつけた女官の一人が、宝物を見つけたかのように、顔を輝かせる。
官吏の衣の研究者である彼女からすれば、志鶴を見て参謀だと判断するのは容易かった。剣を腰に履いている高位の文官など、ひとりしかいない。
まして、女官長がへりくだっているのだから。
「大参謀様! まさかお目にかかれるなんて!」
志鶴は女官の観察眼に内心で苦笑した。彼女は明らかに能力の使いどころを誤っている。
「――こちらは?」
志鶴に尋ねられた女官長は冷や汗をかきながら「下がりなさい。無礼ですよ」と女官を叱責した。しかし女官はこの機会を逃がしたら他にないと悟っており、「私」と志鶴に話しかけるのをやめなかった。
少し後ろで現場を眺めている碧悠は、ため息を吐くのを堪えた。いくら必死に参謀へ直訴したところで、上司の言うことが聞けないことを証明してしまっては、参謀でなくとも箸にも棒にも掛からないだろう。
「あの! 私、是非、大参謀様のお役に立ちたいのです!」
「ほう。立派な志だ」
志鶴は淡々と答えた。女官は受け答えをしてもらえると思い、舞い上がった。女官長の顔が渋く歪む。
「傍仕えの女官にしていただけないでしょうか!」
「すると」
志鶴から低く、冷たい声が発せられた。それは分かりやすく、意図的に発せられたものであり、浮かれた女官も流石に違和感を覚えたのか、びくりとした。
「――いざというときは、私の盾になってくれる、と」
「……え」
「悪いけど、私は必要とあれば君を策略に使うし、命を守るために盾にする。君はそれを喜んでやってくれる、と」
「あ、あの……」
「橘殿!」
女官と、冷笑を浮かべて彼女を見下ろす志鶴の間に、女官長が割って入った。
「おや。何をなさるのですか。私は今彼女に覚悟を問うているのですが」
「彼女は、今こちらで重要な役目を担っております。いくら本人の希望があっても通せません」
女官長の言葉を聞き、さっきまで参謀付きになることを切望していた女官はあからさまにほっとした表情になった。
「もし、あなた様がまたご希望があるのでしたら女官棟へお声がけくださいませ。そのときは、私共が適切な人物をあてがわせていただきます」
「ではそのように。残念だが」
最後の一言と共に、志鶴は女官に視線を向けた。女官はぎくりとして身を強張らせた。
「女官長殿。朱春を先にそちらにやった。彼女に伝言を頼めるか」
「……何なりと」
「今日はこちらに戻らなくていい、と伝えてほしい」
「畏まりました」
「出かけるついでにそれを言いに寄ったが、どうも騒がせてしまった。失礼」
いつの間にか、周りにはひとだかりができていた。女官長は志鶴の本当の用事を察し、深く頭を下げた。貸しを作ってしまったことを悔いる。
志鶴は衣を翻し、碧悠を伴って去っていった。
その場には肩を落とす女官長と、青い顔をして動けずにいる女官、そして事態が掴めずにひそひそと話している野次馬たちが残された。
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