羨望
「――ちょっと」
いつものように水場を使いに来たら、普段はそこにいない先輩女官に声をかけられた。ちなみに普段からいるのが正しいのだが、例のごとく別件で忙しいため、あまりこちらで顔を合わせることがなかった。
それがどうして今日は、と思ったが、すぐに「ああ」と思いつく。
(私を、待ってたからですね)
先輩はお茶を用意しようとしている私を睨みつけ、「こっちに来なさい」と強く命令した。周りの人が「何事だ」と私たちに注目する。ここで先輩に抵抗して揉めると邪魔になってしまう。
それは忍びないので、私は大人しく先輩に従うことにした。一旦茶器を脇に置き、周りに「すみません」と断って水場を出ていく先輩を追う。
先輩は私がちゃんとついてきたことを確認すると、つんと顔を背けた。
連れてこられたのは、水場から少し離れた、人気のない建物の裏だった。いや、人気は他にもあった。私たちの到着を、更に四人の女官が待っていた。
私は壁際に立たされ、計五人の先輩に囲まれた。
「最近見かけないと思ったら、あなた大参謀様付きになってたんですって?」
知られているのならごまかす必要はない。正直に「はい」と答えると、先輩たちから一斉に「どんな手を使って」、「先輩をさしおいて無礼」など批判が集まる。
「女官長に取り入ったんでしょう」
「卑怯だわ」
頭が痛い。どうしたものか。きっと何を言っても彼女たちは納得しないだろう。しかし何か言わなくては収まりもつかない。
「私もどうして私なのか分かりません。そう命じられただけです」
嘘ではないので、心を込めて言えた。参謀がどうして私を置いているのか、理由はよく分からない。今している仕事ならば、他の誰かでも務まる。
先輩たちは眉を寄せて私を怪しんだ。
「私と代わりなさいよ」
「何言ってるのよ、あんたには無理だわ。私と代わって」
私を相手にしたときには味方同士でも、個々の関係はそうでないらしい。先輩たちは争い始めてしまったが、そこで誰が勝っても、「じゃあ代わりますね」とはいかないのだが。さっき言ったとおり、私だって命じられている立場なのである。
(うーーん)
走って逃げることは不可能ではない。屋根に上がって逃走することも。しかしそんなことをしてもいいことはない。先日ほとんど腹いせに不審者を倒してしまったからこんなことになっているのだ。迂闊に飛んだり跳ねたりしてはいけない。ヘンに怪しまれても困る。
「朱春? どこにいるの?」
離れたところから女官長の呼ぶ声がした。先輩たちはぱたっと喋るのを止め、息を殺した。そして意味ありげに私を睨みつける。
(黙っていろ、と)
告げ口をしたら許さないぞ、という雰囲気がよく伝わってくる。しかしこの状況を見れば、説明しなくとも、何となく何があったか分かってしまうのではないだろうか。
「朱春ー?」
この場所は建物と壁に囲まれており、先輩たちも逃げ場がない。足音は近づき、ついに女官長が私たちのいるところへ顔を出した。
「あ! あなたたち、何をしているの」
「……」
女官長は現場を見るなり、眦を吊り上げた。
「いないと思ったら……! こんなところで、こんなこと」
「女官長、違うんです。私たち朱春に聞きたいことがあって」
「あなたたちが何を聞くことがあるの。担当することも違えば、今は配置も違うでしょう」
女官長にぴしゃりと返され、先輩は口を噤んだ。
「朱春、早く仕事に戻りなさい」
「はい」
私は女官長に一礼して、その場を離れた。私に続いて解散しようとした先輩たちは、「あなたたちは残りなさい」と引き留められる。
「本当にあなたたちは……! 真面目に働かない者が、仕事で報われる訳がないでしょう」
背後からお説教が聞こえる。私はすたこらと逃げ、厨に戻った。茶器は同じ場所に置かれたままだった。戻ってきた私を見て、年配の女官は「あんたも大変だねえ」と労ってくれた。
そして次の日。先輩女官たちは自分の持ち場で働いていた。果たして、昨日の女官長のお説教の効果はあったのだろうか。
「……」
私を見つけると、彼女はひと睨みして、「ふん」とそっぽを向く。特に慕っているわけではないので傷ついたりはしないが、やはりよくは思われていないのだなということは分かった。
(よく思われようとも、思っていないけど)
私の仕事には何の支障もない。私は気にせず、せっせとやるべきことをやって立ち去った。
しかし数日して。
「――っ」
お茶を載せた盆を持って厨を出ようとしたところだった。狭い通路ですれちがう瞬間、先輩がわざと私に体をぶつけようとした。
咄嗟に避け、衝突は免れたが、危うく茶器を落としたり、中身を零すところだった。
先輩は一瞬悔しそうな表情をし、すぐに素知らぬ顔をして歩き去っていった。堂々とした嫌がらせである。しかし周りを見回しても、皆自分の仕事に集中しており、この現場を目撃した人はいないようだった。
相手も見計らって仕掛けてきている。
(うーーーーん)
自分のせいでしくじるのは仕方がないとしても、誰かのせいでしくじるのは納得がいかない。
(気をつけねば)
私は盆を持つ手に力を入れ、足早に厨を去った。道中見かけたいつもの先輩たちは、皆自分の仕事をしていた。何かあっても嫌なので、彼女たちに見つからないよう、遠回りをしたり、音を極力消したりして移動した。
(もしかしたら、似たようなことを今後されてしまうかもしれない)
そう予感したとおり、次の日以降も、先輩たちの妨害は続いた。ぶつかられそうになったり、何かを隠されそうになったり、誰かが呼んでいると騙られたり。姑息で陰湿な腹いせである。
「……」
一応、被害は防げてはいるものの。そんなことがしばらく続いた結果……。
(む、むきーーーーーー!)
ついに、段々と嫌気が差してきた。
悪意をもって仕事の邪魔をされるということが、こんなに苦痛とは知らなかった。
「苛立ってるな」
家に帰って自室で寝ていると、姫榕がやってきた。今日は店の手伝いを休みとし、ごろごろしていたところだった。たまには休みもないと、やっていられない。
姫榕は遠慮なく部屋に入ってくると、丸太のように転がっている私を押し避け、寝台に腰を下ろした。
「何された」
「……」
面白がっている雰囲気で、姫榕が見下ろしてくる。これが本当に面白がっているかどうか分からないのが姫榕の恐ろしいところだ。うっかり「あのね」と軽い気持ちで喋っただけなのに、即成敗しに行くこともあり得る。姫榕にはよく考えて喋らなくてはならない。
苛立っているのは姫榕の見立てどおりではあるが、姫榕に何とかしてもらうことではない。
「何もないよ」
「何もなくて苛立たないだろう」
姫榕が片手で私の両の頬をぎゅっと掴む。私は間抜けな顔になった。やめてほしいという意を込めて、姫榕の手を軽く叩く。
「はは」
姫榕は軽く笑った。しかし目が笑っていない。白を切りとおすのもまた危険かもしれない。仕方がないのでふんわりと伝えることにした。
「ちょっと、仕事でうまくいかないことがあるだけ」
「ほう?」
「姫榕は気にしなくていいよ」
ぎし、と寝台が軋む。姫榕が私の頭の横に手を突いた。はらり、と髪が落ちてきて、私の顔にかかる。ぎらつく瞳が至近距離で私を捕らえた。心臓がどくり、と脈打った。
「散歩するぞ」
私が「え」と目を見開いた瞬間、体が浮いた。
「わ!」
姫榕に豪快に持ち上げられ、私は慌てて彼の体にしがみついた。姫榕は私を小さい子のようにして抱えると、部屋の窓枠に足をかけた。
「ちょ!」
まさか、と口から出る間もなく、姫榕はそのまま外に飛び出した。着地先は屋根の上。そしてまるで平地でも走っているかのように、姫榕は数歩屋根を駆け、紅龍楼の別棟の一番大きな屋根の上へ登った。
(……わあ)
そこから一望できる、夕洛の街。暗い空の下、夜の街が明かりで光っている。
姫榕はしばらくそこに留まったが、やがて別の屋根にひょいひょいと移った。私を抱えているのに、何て身軽なのだろう。
夜風を切る感覚が気持ちいい。姫榕が落ちたら二人とも終わりなのに、信じられないことに恐怖はない。姫榕が足を滑らせることはないし、私を落とすこともない。根拠はないが、そう確信している。
綺麗だ。
「姫榕、ありがとう」
「気は晴れたか」
「うん」
姫榕は目を細めて笑った。豪快な気晴らしだ。夜を駆ける姫榕は、普通に格好いいと思う。
(小さなことが、どうでもよくなる)
さっきまで部屋で燻っていた苛立ちはなくなっていた。私は今一度、姫榕にぎゅっと掴まり直し、もう少し続く夜の散歩を楽しんだ。
お読みいただき、ありがとうございました!




