茶器と毒見
碧悠さんは「ではあとはよろしく」と朗らかに笑うと、控え室を出ていった。さて私はどうしよう。隣の部屋からは参謀と碧悠さんが話す声が聞こえる。
(これあんまり聞いてちゃいけない気がする)
私に聞かせてもいい内容を選んで喋ってくれているのならいいが、もしも機密だとまずい。今のところ、私に機密を聞かせてもいいという信頼があるとも思えないが。
「……汚い」
目についたのは、先にご紹介してもらった茶器。はっきり言って、薄汚れている。もっと丁寧に磨けばマシになると思う。
大参謀がこんなのを使っていては、他の官吏になめられる。女官長たちだって、綺麗なものを身にまとい、使っていることでその地位に箔をつけているのだ。
(磨こう)
私は茶器と盆を持ち、控室を出た。参謀と碧悠さんの視線が私に集まる。話し合いを邪魔してしまっただろうか。
「お茶を用意してきます」
早口で告げ、足早に部屋を出る。二人からは特に反応はなかった。
(水場、水場)
碧悠さんの話では、軍の方にある水場は訓練場と宿舎寄りになってしまうので、私がひとりでいると武官たちに話しかけられて面倒かもしれないとのことだったので遠慮する。あと普通に宮廷の炊事場の方が近い。
私は茶器を落とさないように注意しながらいつもの厨に向かった。
「――っ!」
途中、きょろきょろしている女官を遠目に発見し、建物の陰にサッと身を隠した。
(あの動きは……! 仕事を押し付ける相手を探している!)
見つかったら厄介なことになる。私は進行方向を変え、回り道をしていくことにした。随所で別の先輩女官たちの似たような動作を目にする度、息を潜め、足音を消し、まるで密偵のようにして目的地にたどり着いた。帰りもこうかと思うと、億劫な気持ちになる。
「水場お借りします」
「はーい」
皆が皆、仕事を放棄している訳ではない。私は炊事場にいた女官たちに声をかけ、水場で茶器を洗い始めた。周りの人々は特に不思議がることなく、各々の仕事をしている。女官長たちのお茶を用意するときもここを使っていたので、皆私を気に留めることはない。おそらく今も、女官長の誰かへお茶を持っていくのだと思われていると思う。
(……茶渋、いつからそこにいるんだ)
長いこと茶器にいすわっていると思しき茶渋と格闘し、つるんとした白い磁器が戻ってきた。表面も丁寧に磨くと、鮮やかな青い文様が蘇る。くすみが一掃され、茶器は息を吹き返した。こうでなくては。
茶葉を煮出し、お茶を作る。茶器にお茶を確保し、私は炊事場を出た。来るときと同様、怪しい動きをしている先輩女官の目をすり抜け、軍の参謀室を目指す。せっかく淹れたお茶が冷めない内に、そして味が落ちない内に届けたい。
可及的速やかに部屋に戻ると、参謀と碧悠さんはまだ話をしていた。あまり音を立てないように、椀にお茶を注ぐ。小さな盆に載せてそれを参謀の近くに持っていくと、参謀は目を細めて「ありがとう」と言った。
そしてそのまま椀を取ろうとするので、私は少々驚いて、盆ごと身を引いた。
「あれ? どうしたの」
参謀がきょとんとするので、私も「あれ?」と戸惑いを禁じ得ない。
「毒見は誰が、とお尋ねしようとしたところでした」
「……毒見」
「毒見」
その初めて聞いたと言うような反応は何だろう。私は碧悠さんへ視線を遣った。すると彼は「そうか!」という具合に何かを閃いていた。
「すみません。参謀は毒見が不要です」
「え」
そんな。いいのだろうか。女官の方では、廷内に持っていくものには全て毒見がされる。帝や後宮だけでなく、高位の官吏たちも毒見をまずさせていると聞いている。
訝しむ私を面白がるように、参謀は「いいんだ」と言いながら椀をひょいと掴んだ。
「自分で分かるからね」
参謀は躊躇いなく椀に口をつける。私だって毒を入れた訳ではないし、今後も入れる予定はないけれど、それでいいのかと思ってしまった。
「うん。美味しい。それに茶器も何だか綺麗になってる。ほら見て碧悠」
碧悠さんも、特に参謀を案ずることなく、生き返った茶器を見て「本当だ」などと笑っている。
(――危機感!)
危機感は。大丈夫だろうか。このほのぼのとした光景は一体。先日私をここに呼び出したときも、実家に来たときも、もっとぴりぴりしていたではないか。私のことはもしや全然疑っていないのだろうか。それともこれは油断させようという作戦か。
作戦なら何とも思わないが、本当に無防備なら少々不安になる。私が。
毒見をしなかったがために倒れられでもしたら、近くにいた私が疑われかねない。
(私も気を付けておこう……)
幸い、鼻も利くし、ヘンなものは口にすれば分かる。幼い頃野山を駆け巡り、集落の人たちに食べられるもの、食べられないものを教えられている。たまに劉燕にも「これどう思う?」と聞かれるくらいだ。
「……」
ともかくお茶を出したなら私はこの執務室に居続ける理由はない。私は虫のように静かに移動し、控室へと引っ込んだ。
その日は極力音を立てないように、控室の掃除や整理をしたり、お茶を淹れ直したり、道中女官長たちの様子を見たりして過ごした。日は順調に暮れ、私の勤務時間も終わりを迎える。
「本日は失礼いたします」
荷物を持って、参謀に挨拶をした。参謀は油に火を灯し、明るくして何かを読んでいるところだった。部屋に備えられている棚には、書簡が大量に積まれている。これが全て仕事に係る書簡だとしたら、大変な仕事量なのではないか。
参謀は執務机の書簡の山の向こうから顔を出し、「ご苦労様」と言ってまた消えた。
私は書簡の山に一礼してから部屋を出た。廊下で碧悠さんと会った。彼は腕に丸めた書簡を持っていた。
「ご苦労様です。お気をつけて」
「失礼します」
碧悠さんは参謀の部屋へ入っていった。二人ともいつまで仕事をしているのだろう。
(こちらはこちらで、大変なんだな)
私は宮廷の敷地から出て、いつもの帰り道を辿った。体の疲労感が昨日より少なく、どうしてだろうと考えたが、今日は先輩女官の仕事をもらっていないからだ、という結論に至った。
その分の仕事は、本来の担当の女官がこなしたのか、それとも別の犠牲者が出たのか。
(くわばらくわばら)
今日は帰ってから厨房でも、給仕でも、何でもやれる気がする。とにかくお腹が空いた。早く戻って、孫か楊に何か賄をもらおう。暮れなずむ街の隙間を、足早に抜けた。
「おかえり朱春」
紅龍楼の裏口から入ると、待っていたかのように劉燕が立っていた。
「どうだった」
何が、とは聞かない。彼は私が本日から参謀付きになったことを知っている。
「お茶を汲んだり、掃除したり、女官長たちの様子を見に行ったり」
やってきたことをそのまま伝えると、劉燕は「下働きだね」と笑った。私は「当然だ」と眉を寄せた。あそこでのし上がる野心もないし、このお手伝いだって期間限定のものだと思っている。
「そうだよ。困るよ、重要なことをさせられちゃ」
「うん。そうだね。元気そうでよかった」
「今日は体力が余っています」
劉燕は「そうなの?」と目を瞬かせると、「じゃあ月影ちゃんの相手を頼もうかな」と恐ろしいことを言い出した。いくら体力があったって、それはちょっと。私はじり、と劉燕に距離を取り、拒否の意を示した。
「あれどうして? たまにはいいじゃない」
「嫌だよ、月影ちゃんどんどん呑ますもの」
「それは朱春が強いから」
「嫌だ~!」
にこにこしている劉燕を残し、私は二階へ逃げた。しかし上階で待ち構えていた月影ちゃん、もとい変身前の姫榕にあえなく捕まり、抵抗むなしく彼の部屋に連行されることになった。姫榕の脇に抱えられながら、私は訴える。
「あの……明日も、ほら、仕事なんで」
「皆そうだ」
「…………」
それ以上何も言えず、私は着替えた彼に店の舞台へ連れていかれた。しかし訴えの甲斐あってか、月影ちゃんの気まぐれか、ほんの少し、気持ちばかり、いつもより手加減をしてくれたような気がした。
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