(8)契約成立
私と百丸様は、気絶した柿本をそのまま放置し、橋を後にした。
警察に事情を説明するのは面倒だし、遊郭や百丸様にとっても色々と都合が悪い。
あの赤鬼――もとい、酒杯の付喪神も、きっと事の顛末を見届けてくれるだろう。
その後の酒宴で、私は遊女として最後の盃を受け、ちとせ楼の面々に「末永くお幸せに」と送り出された。
酒の力もあってか、みんな赤鬼が現れたことなどすっかり忘れていて、後に残ったのは酒宴の楽しい思い出だけだ。
「どうだィ。夜の散歩も優雅でいいだろう?」
「ええ、最高よ。心の底から自由になれた気がする」
そして今――私は百丸様の煙の術で作られた雲に乗り、夜空を散歩中だ。
雲のように大きい煙に乗ってぷかぷか浮かんでいると、私も煙になってしまったようで気持ちがよかった。
私はなびく髪を手で押さえつつ、下に広がる夜景をちらりと見下ろした。
「思えば、色んなことがあったわね……」
女郎屋に売られた時は目の前が真っ暗になったけれど、それでも必死にやりぬいて、ついにここまでたどり着けた。
ふう、と息を吐き、私は空を見上げる。
すっきりと晴れ渡った夜空には、まん丸にくり抜いたような満月が浮かんでいた。
横を見ると、夜空を背景にゆったりと煙管をくわえる百丸様が視界に入る。
(まさか、彼とこんな関係に行き着くとはね……)
百丸様との契約は、表向きは身請け後の婚姻関係――けれど、実際は人間と道具の主従契約だ。
こんな奇妙な関係を結ぶことになるなんて、かつての私に想像できただろうか。
「付喪神って不思議な術も使えるのね。煙々術、だったかしら?」
百丸様は煙を細く吐き出しつつ、少しだけ自慢げに言った。
「おうよ。今までの持ち主たちから受け取った霊力のおかげだな」
「霊力?」
「人や動物が持つ、霊魂の力さ。
俺たち道具は人間から霊力をもらうことで、少しずつ付喪神に近づく。
それまでにかかる時間が、だいたい百年くらいなのさ」
「ああ、そういうこと」
付喪神になるのも大変なのね、と思うと同時に、盃の付喪神のことが頭に浮かぶ。
あの赤鬼の盃も、柿本家の人たちからずっと大事にされてきたのだろう。
きっと、お祝い事のたびに酒を注がれて、たくさんの人の笑顔を見てきたのだろう。
「百年もずっと大事にされてきた盃を、あの馬鹿は勝手に質屋に持っていこうとしていたわけね。まったく腹が立つわ」
「あァ。赤鬼も捨てられまいと必死になるわけだ」
柿本は当初、家の蔵から盃を盗み出し、質屋に売り払おうとしていたらしい。
それを察した赤鬼は「自分を捨てないでくれ」と懇願しようとして、本体から出てきたのだそうだ。
そして親分気取りの柿本の命令に従い、仕方なく私を捕まえて連れてきた――というのが、ことのあらましだった。
「売り飛ばされなくて本当によかった。あの赤鬼は、これからも柿本家の人たちを見守っていくのでしょうね」
「カカ、そうさね。付喪神ってのァ、人の暮らしのそばでしか生きられねェからな」
私は赤鬼の笑顔を思い出す。
あの無垢な瞳が、悲しみの底に沈まぬことを願わずにいられなかった。
「なァ、骨董姫。改めて、いい命令だったぜ。胆力も見事なモンだった」
「光栄ね。もっとも、あんな野蛮な命令は二度と出したくないけれど」
「カッカ! そいつァそうだな。だが俺ァ、アンタに命じられた時、芯まで火が入った気がしたんだ。やっぱり、“使われる”ってのァ最高だな」
彼の声音には、心からの喜びが滲んでいた。
使われることでしか満たされない、道具の理――それは、人間には理解しえない幸福なのかもしれない。
「骨董姫様の道具にしてもらえるなんて、俺ァ幸せモンさ」
「ふふ、おかしな人ね。百丸様は」
笑うなんて、どれくらいぶりだろう。
顔や体を武器に、男を値踏みする日々の中で、本当の意味で“心から笑う”ことなど、もう二度とないと思っていた。
――けれど今、私はようやく自由を掴んだ。
「あー、珠希。その『様』ってのァ、やめにしてくんねェか。俺ァ、道具だからよ。むず痒くてしょうがねェ」
百丸様が口をひん曲げながら、煙管の先で私を指す。
「じゃあ、なんて呼べばいいの?」
「なに、簡単に“善”と呼んでくれ。そのほうが、アンタにも気軽に使ってもらえるだろう?」
「ふふっ、どこまでも道具なのね」
あまりにも個性的な口説き文句に、私はつい笑ってしまった。
「自分のものになれ」と言った男は数多くいたけれど、
「アンタのものにしてくれ」と言ったのは、この人だけだ。
「いいわ、善。これからよろしくね」
私がそう返せば、善の灰色の瞳はまた、鮮やかな朱色に輝いた。
誰の目も届かないこの場所で、夜空を丸くくり抜いたような満月だけが、私たちを見守っていた。
一章 骨董姫と喧嘩煙管・了




