(11)割られたティーカップ
「は〜食った食った! さァて、もうひと仕事だ」
食事を終えた後、善は袖をたすき掛けにし、流しに立って食器を洗い始めた。
桶の中でじゃぶじゃぶと皿をすすぐ音が、台所に心地よく響く。
「お皿洗いくらい私がやるのに……」
「いいって、いいって。俺ができる家事なんてこれくらいだしよ。
それにこいつら、桶の中でも動き回るから大変なんだ」
善はお皿洗いから逃れようとするお皿のモノダマを「はい、確保〜」と言いながら回収する。
手足をジタバタさせているモノダマを手早く洗っていく様子は、まるで風呂嫌いの子供を世話する父親のようだ。
「じゃあ、せめてお茶を淹れさせて」
私は傍で待機していた急須に茶葉を入れ、お湯を注ぎ入れる。
蓋をして蒸らしている間に、
「はーい! ぼく、配達係します!」
と壱丸がぴょんと跳ねて、棚の上に声をかけた。
すると、湯のみや茶托のモノダマたちがいそいそと動き出した。
彼の掛け声に従って、モノダマたちはちゃぶ台へ列をなして進んでいく。
「前へ進め〜!」
壱丸とモノダマの可愛らしい行進に、私は思わず口元を緩める――が、次の瞬間。
湯のみのうちの一つが、足を滑らせた。
ガチャン! と陶器の割れる音。
床に強くぶつかってしまったのか、湯のみはぱっくりと真っ二つに割れてしまった。
「わわっ! 大変です! 真っ二つです!」
壱丸が慌てて湯のみのまわりをうろちょろするので、私はとっさに声を上げた。
「壱丸、あまり近くを歩かないで。破片を踏むわ」
「ごめんなさい……先頭のぼくが、高いところから飛び降りちゃったから……」
しょんぼりする壱丸の頭を、私は「大丈夫よ」と撫でてあげる。
この割れ方なら、修理屋にお願いすれば綺麗に直せるはずだ。
どうせなら金継ぎを施してもらうのもいいかもしれない。
そう考えながら、私は割れた湯のみをそっと拾い上げる。
掌に伝わる、まだ温かい感触。
そこから一瞬、鋭い痛みが体中を走り抜けた。
――『わたくしにこんな物を使わせないで!』
私の頭の中に、少女の金切り声が響いた。
私が大嫌いな声――私が大嫌いな、従姉の叫び声。
「……? 珠希さま? どうしたんですか?」
目の奥に、見たくもない光景が浮かんでは消える。
散らばる破片、踏みにじられる音。
叔母の笑い声。
喉の奥で息が詰まり、視界がぐらりと揺れた。
湯のみの破片が手から滑り落ちる。
「――おい、珠希!? どうした!?」
私が、揺れる。
善の声がいびつに聞こえる。
視界が、脳が、臓腑が、揺れる。
ぐらぐら、ぐらぐら、崩れて、壊れて、傾いて。
私の心が、どこか遠くへ飛んでいく――。
*
私の心に強烈な爪痕を残した、あの日の出来事。
脳裏に刻まれたその記憶は、ガシャン! という磁器の悲鳴から再生される。
――鼓膜に針が刺さったような、キィンという鋭い痛み。
――床の上に散らばる、粉々になった磁器の残骸。
半年前にやってきた淡い桃色のティーカップは、ほんの一瞬で形を失ってしまった。
とても可愛くて、戸棚の外から毎日眺めていたのに。
大事に使ってもらえるように、毎日綺麗に磨いていたのに。
「お客様の前でわたくしに恥をかかせるつもりなの、珠希?」
なのに、持ち主たる彼女は――従姉の麗華は、お気に入りだと言っていたはずのティーカップを、私の目の前で叩き割った。
「言いましたわよね。時代遅れの物は私に相応しくないから使わないでって。
こともあろうに、それを同級生の前で出そうとするなんて、一体なんの嫌がらせですの?」
「そんな、私、そんなつもりじゃ……!」
私は意地の悪い麗華のことが大嫌いだった。
けれど、ご学友とのお茶会にこのティーカップを選んだことには、悪意など欠片もなかったのだ。
麗華ならきっとこのティーカップのことを自慢するだろうと思ったし、そうすればティーカップもきっと喜ぶから、よかれと思っての判断だった。
睨んでくる麗華に私が怯えていると、そこへ叔母もやってきて、一緒に私を責め始めた。
「貴方にしてみれば軽い悪戯のつもりでしょうけどね、これで麗華がご友人から侮られてしまったら、貴方はどう責任を取るの?」
――違う、私はそんな意地悪なこと考えていない。
――ただ、この家の人たちに使われたがっていた物たちの願いを、叶えてあげたかったのだ。
――こんなことをさせるためにやったんじゃない……!
言いたいことは山ほどあるけれど、私はそのすべてを奥歯で噛み潰した。
この人たちに何か言い返せば、暴力を振られるのは目に見えている。
「いいこと、珠希? 半年前に買ったものはもう古い物なの。
古くなった物はさっさと処分して、新しい物を使うようになさい」
「…………」
「……返事をなさい、この愚図!」
麗華が私の髪を掴みあげながら怒鳴りつける。
私は文句を言いたくて仕方がなかったけど、早く離してほしいので「はい」と返事をした。
麗華は私を床に投げ捨てるようにしながら髪を離す。
「そこ、ちゃんと綺麗にしておいてね。午後には大事なお見合いがあるんだから。
もしまた粗相をしたら、お父様に言いつけてお仕置きしてもらうわよ」
「……はい」
酷い。酷い。酷い。なんて下劣な女だ。
もういらないからと言ってわざと物を壊すなんて、信じられない。
私が怒りと悲しみに涙をにじませながら破片を集めていると、突然、叔母が私の手を上から強く踏みつけた。
「い……ッ!? 痛い、痛いです、叔母様っ」
「お黙り、穀潰しの分際で!」
私の手に無数の破片が突き刺さる。
あまりの激痛にやめてと懇願するが、叔母は構わず私の手をぐりぐり踏み続けた。
「親を亡くしたお前を引き取って面倒を見てきたのは誰だと思っているの?
いつも不真面目なことを考えているから、お前は粗相ばかりするのよ」
床が私の血で汚れてきた頃に、ようやく叔母は足をどける。
破片があちこち刺さった手のひらは、痛々しくて見るのもためらわれる。
「礼儀作法もなってなければ、使用人としても使えないのね。いつまでみっともなく生きているのかしら」
叔母が私を嘲笑する。
手のひらの痛みと共に、屈辱が胸に深々と突き刺さる。
――うるさい。
――うるさい!
――うるさい!!
――私だって、こんな場所に引き取られたくなかったんだ!!
――物を泣かせるお前たちのところになんか、来たくなかったんだ!!
私の胸を、真っ黒な怒りが瞬く間に満たしていく。
口汚く叫んでやりたい衝動をこらえながら、私は叔母の嘲笑を必死に聞き流していた。




