第20話 母の遺した最後の一文
手記『下』が開かれたのは、その日の夕刻だった。
場所は王都南区の外れにある、ケイデンスの知己の老医師宅の離れである。表向きは古傷の療養を引き受ける家で、裏向きには口の堅い避難先として知られていた。木造の廊下は古く軋んだが、暖炉の火は安定していて、煮出した薬湯の匂いが家じゅうをゆるやかに満たしていた。
アルヴァの傷は幸い、骨を外れていた。深くはないが、あと半寸ずれていたら危なかったと医師は言った。本人は「大げさだ」と顔をしかめたが、肩を固定されて寝台へ押し戻された時点で説得力は消えていた。
「怪我人が静かにしていないと、手記を読ませません」
アリエルが言うと、アルヴァは珍しく即座に黙った。
その様子に、包帯を替えていた老医師が笑う。
「公爵閣下より奥方のほうが効く薬ですな」
「否定しづらい」
アルヴァが真面目に返すものだから、部屋の緊張が少し和らいだ。
夜が更け、暖炉の火が赤く沈んだころ、離れの居間へ必要な顔ぶれだけが集まった。アリエル、アルヴァ、ケイデンス、レンノン、ユーソフ、ファビーニョ、メンゼル。ポラは台所で温い茶を絶やさず、誰かの顔色が落ちるたびに無言で菓子を差し込んでくる。
蝋引き布をほどくと、手記『下』は思っていたより薄かった。
だが中身は薄くなかった。母の筆跡は最後まで整っている。焦って殴り書きしたのではなく、追われていると知りながら、読む者が迷わないように残した文字だ。
前半には森の記録があった。土壌を傷めない輪作の方法。湿り気を抱く苔地帯へ植えるべき香草の順。嗅覚を失った者でも乾き具合を判断できる、葉脈の見分け方。アリエルが北辺で試してきた工夫と、母の考えが一本につながる。
後半を読んだとき、室内の空気が変わった。
セラフィナの名が、そこにあった。
違法伐採の許可書へ便乗する形で、旧森区画の木材が薬材商会へ安値で流されていたこと。修繕費と寄進費の差額が、商会を経由して伯爵家の私的な装いと賭場の借財穴埋めへ消えていたこと。母がそれを止めようとした直後から、研究棟の鍵が入れ替えられ、配合資料の写しが抜かれ始めたこと。
そして、最後の数頁にはもっと重い記述があった。
『私の茶へ、眠気を強める粉が混ぜられた日が三度あった』
『階段の手摺が、私の使う日だけ油で滑っていた』
『病で弱っていることにされれば、帳面も森も奪いやすいのだろう』
母は病に倒れたのではない。病に見えるよう、少しずつ追い詰められていた。
紙を持つ手が冷たくなる。けれど、アリエルはもう目をそらさなかった。昨日までの自分なら、母の文字が揺れるたび胸ばかり痛んだかもしれない。今は違う。痛いまま、読むことができる。
「ここ」
レンノンが指差した。
「薬材商会の担当名、変名だけど筆癖が残ってる。南門通行帳にいた男と同じ手」
「伐採日の記載と、修繕費の上振れ月も一致する」
ユーソフがすぐ横へ表を書き始める。
「これなら違法伐採と横領を一本で立てられる」
「母君の死については、直接の殺害証明ではない」
ケイデンスは慎重だった。
「けれど、長期にわたる危害の意図と、療養記録の改ざんを重ねれば『隠蔽』と『故意の危険増大』は問える」
「十分よ」
アリエルは手記から目を上げた。
「母は、最後まで全部を書き切ってくれた。わたくしは、それを届く場所まで持っていけばいい」
しばらく沈黙があった。
暖炉の薪が、ぱちりと音を立てる。遠くの台所では、ポラが湯を足す音がした。暮らしの音がある。そのことが、かえってアリエルの胸へ沁みた。母が守りたかったのも、たぶんこういう音だ。森の研究そのものだけではなく、明日の朝に誰かが台所へ立てる暮らし。
手記の最後の頁をめくる。
そこには研究記録でも告発でもない、短い文が残されていた。母の文字で、ゆっくりと。
『雨上がりは終わりではありません。濡れた土へ、次の芽を植えなさい。アリエル、あなたは明日の食卓を守れる子です』
その一文を見た瞬間、アリエルは息を止めた。
部屋の誰も急かさなかった。泣くなとも、頑張れとも言わなかった。ただ、そこにいてくれた。
アリエルは頁を閉じず、そのまま母の文字へ指先を置いた。
「……続きを書きます」
独り言みたいな声だったのに、全員が聞いていた。
「母さまが守ろうとした森も、研究も、食卓も。今度はわたくしが、続きを書きます」
「なら、法の欄外は私が埋める」
ケイデンスが言う。
「証拠の足りないところを補強する」
「市場の欄外は私」
レンノンが肩をすくめる。
「見てないふりをしてた連中の顔、全部出せる」
「移動と日付の欄外は任せてください」
ユーソフが紙束を抱き直す。
「寝なくてもやれます」
「それは自慢じゃない」
アリエルが言うと、彼は少しだけ笑った。
寝台の上から、アルヴァが低く口を開く。
「君が続きを書くなら、私はそれが破られない場所を作る」
大きな言葉ではない。けれど、政治も剣も法も全部その一言へ入っていた。
アリエルは母の最後の一文をもう一度見た。そして手記の余白へ、小さく、今の自分の字で書き足した。
『承知しました。だから明日も、笑って食卓につけるようにします』
母の筆跡の下へ自分の文字が並ぶ。
奪われた娘ではなく、受け継ぐ女としての最初の一筆だった。




