第19話 泣き顔を知ってしまった日
礼拝堂へ向かう馬車は、夜明け前の薄青い闇を切って進んだ。
王都南門を抜けるころ、空にはまだ星が二つ残っていた。表街道へ空の荷馬車を先に走らせ、アリエルたちは川沿いの裏道を使う。先頭にファビーニョ、後方にメンゼル、少し離れてレンノンが足跡と見張りの気配を拾い、ユーソフは地図を膝へ広げたまま時刻を刻んでいた。アルヴァはアリエルの向かいに座り、膝の上で革手袋の指先を静かに組んでいる。
「眠れましたか」
アリエルが小声で聞くと、アルヴァは正直に首を振った。
「半分ほど」
「半分でも眠れたなら上出来ですね」
「君は」
「三分の一くらいです」
「それを上出来とは言わない」
「でも、出発を止めるほどではありません」
そう返すと、ユーソフが顔も上げずに呟いた。
「夫婦そろって寝不足の自慢を始めるのはやめてください」
「自慢ではないわ」
「聞いてる側がそわそわするんです」
前方からメンゼルの笑い声が飛ぶ。
「わかります。今の会話、内容は地味なのに妙に甘い」
「甘くない」
「主君、その否定はもう遅いです」
小声のやり取りで張りつめていた空気が少しだけほどける。そのまま馬車は、離れ礼拝堂の手前の雑木林へ滑り込んだ。
礼拝堂は、丘の中腹にひっそり残っていた。灰色の石壁には長年の雨筋が刻まれ、正面の聖像は顔の輪郭がすり減っている。けれど、扉脇の排水溝の彫りだけは妙に新しかった。母が生前よく言っていた。「雨の通り道を見れば、あとから触った手がわかる」と。
アリエルは手袋を外し、石に残る冷えた湿りを指先でなぞった。昨夜の雨はこの礼拝堂の表面を浅く濡らしただけだが、排水溝の右脇だけは、別の水の流れ方をしている。自然の筋ではない。いったん拭われ、あとで細く濡らし直された跡だ。
「ここです」
アリエルが膝をつくと、アルヴァがすぐ隣へしゃがんだ。
「仕掛けか」
「ええ。石を外す時だけ雨紋がずれるようにしてある」
ユーソフが工具袋を差し出し、ファビーニョが周囲を見張る。アリエルは細い金具を差し込み、排水溝脇の石板を少しずつ浮かせた。中から出てきたのは、蝋引き布で何重にも包まれた薄い冊子と、小さな鍵一本だった。
胸が跳ねる。母の字で、表紙に小さく記されていた。
『雨上がりの森 下』
「見つかった」
言った瞬間、アリエルは自分の声が思ったより震えているのに気づいた。
そのときだった。礼拝堂の裏手で、乾いた音が弾ける。
「伏せろ!」
アルヴァの声と同時に、矢が石壁へ突き立った。次の一本はアリエルの肩口を狙って飛び、彼が半歩踏み込んで払う。礼拝堂の破れた窓から、黒布で顔を隠した男が二人、裏門からさらに三人。薬材商会の用心棒にしては動きがそろいすぎている。継母側が金で雇った、場慣れした連中だ。
「手記を持って下がれ!」
ファビーニョが剣を抜き、入口を塞ぐ。メンゼルは裏へ回った男の足元へ石を蹴り込み、体勢を崩したところへ飛び込んだ。レンノンは矢の来る角度だけを見て叫ぶ。
「右上、鐘楼跡! あとひとりいます!」
アリエルは冊子を胸へ抱え、礼拝堂内の祭壇陰へ滑り込んだ。アルヴァはその前へ立ち、剣で狭い入口を切る。金属音が石の天井へ何度も跳ね返った。
「公爵を囲め! 女だけでも奪え!」
誰かの怒鳴り声がした。言葉の下品さに、雇われただけではない執着が混じっている。
礼拝堂の床へ落ちた雨水が、誰かの靴で蹴られて散った。アリエルは息を整え、祭壇脇の壊れた燭台を手に取る。使うつもりはなかった。だが、使わずに済む保証もない。
入口から一人が踏み込んだ瞬間、アルヴァの剣先が外套だけを裂いた。深追いしない。その代わり、相手を礼拝堂の外へ押し返す。狭い場所で人数差を生かさせない、北辺で何度も見た戦い方だ。なのに今日は、それを落ち着いて見ていられなかった。
鐘楼跡から三本目の矢が飛んだ。
「アルヴァ!」
声より先に体が動いたのは、アリエルのほうだった。祭壇陰から出ようとした肩を、彼が片手で押し戻す。
「出るな!」
その瞬間、鈍い音がした。
矢ではない。短弩だ。至近距離から放たれた短い鉄矢が、アルヴァの左肩の少し下へ食い込んでいた。
時間が止まったみたいだった。
アルヴァは眉ひとつ動かさなかった。右手の剣はそのまま相手の喉元で止まり、男は青ざめて後ずさる。けれど、外套の濃紺がじわりと黒く変わっていくのを、アリエルは見てしまった。
「退路確保!」
ファビーニョの怒声が飛ぶ。
「今だ、馬車へ!」
メンゼルが最後の一人を石畳へ転がし、ユーソフが礼拝堂裏の小門を開ける。レンノンはすでに手記を防水袋へ押し込み、アリエルの腕へ渡した。
「絶対に離さないで」
「離さない」
アリエルは答えたはずなのに、自分の声がどこか遠かった。
アルヴァは「歩ける」と短く言って一歩踏み出した。だがその一歩で、肩から落ちた血が石段を濡らした。
その赤を見た瞬間だった。
胸の奥でずっと張っていた糸が、音もなく切れた。
「……いや」
誰に向けた言葉なのかもわからなかった。次の瞬間、視界が滲む。豪雨の夜も、評議会の日も、母の死の話を読んだ夜も、落ちなかったものが、とうとう頬を伝った。
「いや、です……」
止めようとしても止まらない。情けないほど、熱い。
「それ以上、平気な顔をしないで……!」
アルヴァが振り向く。
痛みで血の気を失った顔で、それでも彼はまずアリエルを見た。自分の傷ではなく、アリエルの涙に驚いた顔だった。
「泣くな、とは言えないな」
かすれた声で、彼は不器用に言った。
「今の私は、言える立場じゃない」
「そんなことを言っている場合ですか」
「少しはある」
「ありません」
泣きながら怒ると、メンゼルが横で半泣きの顔になった。
「この状況で夫婦喧嘩みたいな会話しないでください、心臓に悪い!」
その一言が妙におかしくて、泣きながらでも呼吸が戻る。
馬車へ押し込まれたあと、ファビーニョが矢傷の周囲を縛り上げ、ユーソフが最短で安全な医師宅へ向かう道を叩き出す。揺れる車内で、アリエルはアルヴァの右手を握っていた。今度は震えていたのがどちらの手なのか、自分でもわからなかった。
アルヴァは痛みの波の合間に、握られた手へほんの少し力を返した。
「知らないほうがよかった、とは思わない」
うわごとみたいに低い声だった。
「君の泣き顔の話だ」
「今、それを言いますか」
「今だから、言う」
彼は目を閉じたまま続ける。
「見なくて済むようにしたかった。だが、もし泣くなら……受け止められる男でいたい」
その言葉で、アリエルの涙はますます増えた。もう隠せなかった。隠す意味も、今だけはなかった。
礼拝堂の鐘はとっくに鳴らなくなっていた。
けれどあの朝、古い石壁の前で落ちた涙は、白い契約の条文より先に、二人のあいだの何かを決定的に変えていた。




