第18話 ローデン侯子の執着
第一回公開審問のあと、王都の空気は目に見えて変わった。
伯爵家の応接間では「誤解ですわ」という笑顔が続いても、街の茶店や仕立て屋の奥では別の話が回り始める。ハーグレイヴ家の帳面はおかしいらしい。北辺公爵夫人は泣いて戻ってきたのではなく、書類を持って戻ってきたらしい。法務局の女書記官が継母の代理人を黙らせたらしい。噂は王都の雨水みたいに、石の継ぎ目を見つけるのがうまい。
だからこそ、継母側も穏やかではいられない。
その夕方、アリエルは法務局から戻る途中で、礼拝堂へ向かうための寄進確認書を受け取る予定だった。場所は南区の小さな公文受渡所。表通りから一本入った、陶器店と葡萄酒倉の間にある石造りの建物である。人目はあるが、騒ぎにはなりにくい位置だ。だからこそ護衛は厚くしていた。前にファビーニョ、後ろにメンゼル。少し離れてレンノンが周囲の顔を拾い、ユーソフが通りの先の馬車留めを確認する。アルヴァも同行を申し出たが、表向き別件で議場へ残っていることにして動きを分けていた。
「左の角、赤帽子が三度変わった」
レンノンが小さく言う。
「見張りの合図です」
「商会側?」
「それだけじゃない。女を攫う時の見張りは、もっと目線が低い」
言い終わるより早く、陶器店の裏口が開いた。
「アリエル!」
聞くだけで背筋が固くなる声だった。ローデン侯子が、灰青の外套を翻しながら通りへ出てくる。冬の日差しの下でも、あの男の笑みはどこか湿って見えた。欲しいものが手に入る前提で口角を上げる人間の顔だ。
「こういう会い方は好みません」
アリエルが足を止めずに言うと、ローデンは二歩で距離を詰めてきた。
「好みだの何だの、君は昔から贅沢だ」
「昔から趣味が悪いのは、そちらです」
「相変わらず口が回る」
彼は笑ったまま、声だけ低くする。
「だが、もう遊びは終わりだ。公爵家で気取っても、君は結局こちら側の女だ。壊れるまで愛してやると言っただろう」
その言葉に、通りの空気が一瞬だけ凍る。
次の瞬間、ファビーニョが前へ出た。
「その一歩先で止まれ」
低い声だった。剣を抜いてはいないのに、抜くより先に人を止める声だ。
メンゼルも横へ回る。
「侯子さま、趣味の悪い口説き文句なら自室で鏡に言ってくださいよ」
「下がれ」
ローデンの後ろから、私兵らしい男が二人出てきた。通りの向こう側にもさらに二人。見張りではなく、最初から連れ去るつもりで配置していた数だ。
アリエルは一歩後ろへ下がり、壁際へ位置を取る。足場を取ったのと同時に、ポラから持たされた細い呼び笛を袖の中で指に挟んだ。豪雨の夜に無茶をした反省は、一応形になっている。
「侯子さま」
アリエルはできるだけ平らな声で言う。
「公道で公爵夫人へ手を出せば、家同士の問題では済みません」
「だから静かに連れていく」
「理屈になっていません」
「君は理屈で生きすぎなんだ」
ローデンは笑みを崩さない。
「女は、愛されて囲われていればいい。泣こうが怒ろうが、そのうち慣れる。君もそうなる」
ぞっとするほど、本人はそれを優しさだと思っている顔だった。
アリエルが呼び笛を吹くより先に、通りの反対側で蹄の音が響いた。
「ならない」
落ちた声は短く、重かった。
アルヴァの馬が石畳を蹴り、通りの入口で止まる。彼は鞍から降りる動作の途中で、すでにローデンだけを見ていた。いつもの無表情に見えるのに、空気が違う。怒りが熱ではなく、密度になって周囲へ満ちる感じだ。
「北辺公爵」
ローデンが舌打ち混じりに笑う。
「夫婦ごっこにずいぶん熱心だな」
「ごっこかどうかを決める権利は、おまえにない」
アルヴァはアリエルの前へ立つでもなく、半歩横に出た。視界を塞がず、奪われる位置にも置かない立ち方だった。
「そして今の発言で、公道上の脅迫と連れ去り未遂は十分に成立する」
「大げさだ」
「大げさかどうか、議場で話せ」
私兵のひとりが動いた瞬間、ファビーニョが腕を取って石壁へ叩きつける。もうひとりへはメンゼルが横から足を払った。狭い通りでは数の優位が生きにくい。しかもこちらは最初から狭さを使う位置に立っていた。二息のうちに、私兵たちは膝をつくか、地面へ転がるかして動きを失う。
ローデンだけが舌打ちをして後ずさる。
「覚えていろ」
「その台詞、負け際の定番なんですね」
メンゼルが呆れたように言った。
「便利ですよねえ。中身がなくても言えますし」
その軽口が、逆に通りの緊張を切った。
衛兵の笛が近づいてくる。レンノンがいつの間にか角の見張り二人の顔を覚え終えており、名前と特徴をすでにユーソフへ伝えていた。私兵のうち一人は薬材商会の用心棒で、もう一人は伯爵家の馬小屋で見かけた顔だという。継母とローデンの線が、これでまた一本太くなる。
騒ぎが収まったあと、公文受渡所の裏庭へいったん身を移した。冬枯れの葡萄棚の下、石の水盤には薄氷が張っている。
「怪我は」
アルヴァがアリエルへ向き直る。
「ありません」
「本当に」
「本当に」
答えながら、アリエルは彼の手へ目がいった。
右手が、ほんのわずかに震えている。
剣を取っていない手だ。人を殴った直後でもない。それなのに、指先だけが細かく揺れていた。怒りなのか、間に合わなかったかもしれない想像なのか、その両方か。
アリエルは考える前に、自分の手袋越しの手を重ねていた。
「アルヴァ」
呼ぶと、彼が初めて目を瞬く。
「わたくしは無事です」
「ああ」
返事は短い。けれど、その短さの中へ噛みしめるみたいな間がある。
「遅かった」
「いいえ」
「あと半刻議場へ縫い止められていたら、もっと危なかった」
「でも間に合いました」
アリエルは指先へ少し力を入れた。
「だから、今はそこを数えてください」
アルヴァはしばらく何も言わなかった。
やがて、彼は自分の震える手を見下ろし、困ったようにわずかに眉を寄せる。
「情けないな」
「どこがですか」
「手が」
「震えるくらいなら、むしろ安心しました」
アリエルが言うと、今度はアルヴァのほうが目を上げた。
「いつも平気な顔をして来られたら、怒るところでした」
「怒るのか」
「ええ。こちらは攫われかけたのに、助けた側だけ平然としていたら腹が立ちます」
それを聞いて、アルヴァは息だけで少し笑った。笑ったというより、張りつめていたものが一瞬だけ緩んだ。
その横で、ファビーニョがわざと大きく咳払いをする。
「無事確認が済んだなら、場所を移すぞ」
「済んでないですよ」
メンゼルが口を挟んだ。
「まだ主君の説教が」
「おまえにもある」
「えっ、僕も?」
「軽口が多い」
「役に立ったのに」
いつものやり取りが始まり、空気がようやく人のものに戻った。
けれど警戒は増した。礼拝堂へ向かう計画は前倒しに決まり、寄進確認書の受け取りもその場で済ませる。ローデンがここまで露骨に動いた以上、継母側は追い詰められている。つまり次は、もっと直接くる。
裏庭を出る前、アリエルは冬空を見上げた。雲は低いが、雪にはならない色をしている。母の手記『下』は、あの離れ礼拝堂の石の中でまだ待っている。そこへ辿り着く前に怖がらせて、足を止めさせたいのだろう。
なら、余計に止まれなかった。
「明日の夜明け前に出ましょう」
アリエルが言うと、ユーソフがすぐに頷く。
「礼拝堂方面の街道は二本。表を囮にして、裏道を使います」
「私も同行する」
アルヴァが言う。
「別件の体裁はもう崩れた。隠す意味がない」
「公爵閣下が出ると目立ちますよ」
「目立って困る段階は過ぎた」
その言い方に、アリエルは少しだけ口元をゆるめる。
「では、目立つついでに礼拝堂まで守ってください」
「最初からそのつもりだ」
白い契約のはずなのに、最近は条文の外で言われることが増えた。守る。一緒に行く。間に合った。無事でよかった。
それらの言葉は、派手ではない。けれど胸の奥へ静かに積もる。雪より遅く、でも確実に。
ローデン侯子の歪んだ執着が残したのは、嫌悪だけではなかった。
壊すための手と、守るための手は、似ているようでまるで違う。
その違いを、アリエルはますますはっきり見分けられるようになっていた。




