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白い結婚ですが、雨上がりの森と母の手記は取り戻します  作者: 乾為天女


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21/24

第21話 公開審問の日、白い結婚の期限が近づく

 翌年の早春、王都の風はまだ冷たいのに、陽の色だけは少しやわらかくなっていた。


 公開審問の日の朝、議場前の石段にはすでに人が集まっていた。傍聴席に入れる人数は限られているが、それでも洗濯場の女たち、香舗の元奉公人、北辺から来た農家の夫婦、記録係の未亡人、礼拝堂の管理人、法務局の若い書記たちまで、顔ぶれは広い。皆が大声を出すわけではない。ただ、黙って並ぶ人の多さが、そのまま圧になっていた。


 アリエルは控室の鏡の前で深く息を吸う。濃紺のドレスは北辺公爵夫人としての格式を守りながら、袖口だけに雨粒の刺繍が入っている。母の研究棟に残っていた意匠を、ポラが見つけて縫い込んだものだ。


 「似合っています」

 ポラが最後の襟元を整える。

 「今日は顔色も強いです」

 「褒め言葉として受け取るわ」

 「ええ。弱そうに見せる日は昨日で終わりですから」


 控室の扉の外では、ユーソフが資料箱の数を数え、メンゼルが「今日こそ軽口禁止」とファビーニョに先回りで叱られていた。レンノンは傍聴席へ入る証人の顔ぶれをもう一度確認し、ケイデンスは最後の陳述順を紙へ書き込んでいる。アルヴァは肩の傷をまだ完全には庇いきれないのに、それを悟らせない立ち姿で窓際にいた。


 「緊張しているか」

 彼が近づいてくる。

 「少しだけ」

 「少しで済むのか」

 「たくさん緊張すると、化粧がもったいないので」

 そう返すと、アルヴァはほんの一瞬だけ目元を緩めた。

 「それは大事だな」

 「ええ。今日は負ける顔では来ていませんもの」


 開廷を告げる鐘が鳴る。


 議場は第一回の時より人が多く、熱も高かった。中央席に座る審問官の前へ、書類箱が次々運び込まれる。セラフィナは白銀の衣装で現れたが、以前のような余裕のある優雅さはもう薄い。隣の代理人は書類枚数の時点で眉間を曇らせていた。ローデン侯子の姿はない。連れ去り未遂の件で別室の聴取へ回されていると、今朝ケイデンスから聞いた。


 「では、続行します」

 審問官の声が落ちる。


 最初に立ったのはケイデンスだった。法文を読む声は相変わらず乾いていて、その乾きが逆に信頼を呼ぶ。


 「被申述人セラフィナ・ハーグレイヴは、伯爵家の寄進管理、研究棟管理、旧森区画修繕に関し、故意に虚偽記載を行い、第三者と利得を分配していた疑いがある。加えて、成年再確認通知の隠匿、受領印偽造、寄進荷札の不正転用、療養記録改ざんの補助行為が確認された」


 代理人が「疑いの段階」と口を挟む。だがケイデンスは即座に証拠番号を読み上げ、偽造印影と本来の印影の差異、仕立て代帳簿と布仕入れ控えの不一致、検問印の欠落した荷札を順に示した。紙だけでも、もう逃げ道は細い。


 次に立ったレンノンは、香りの代わりに筆跡と会話のほころびを拾う自分のやり方を簡潔に説明した。王都南門の通行帳、薬材商会の受渡控え、北辺東市場の搬入帳、礼拝堂周辺で捕縛された男の所持していた支払札。それらを横に並べると、変名の裏に同じ手が浮かび上がる。


 「においは戻っていません」

 レンノンは傍聴席まで届く声で言った。

 「でも、だからこそ見えたものがあります。香りでごまかされた人たちは多い。けれど紙の癖までは変えられない」


 ざわめきの向こうで、セラフィナの手袋の指がわずかに強張る。


 証言席には、ひとりずつ女たちが立った。


 洗濯場の娘は、夜ごと運ばれた包みと時刻を述べた。香舗を辞めた女は、寄進名目で届く薬草の質の低下と、粉で匂いをごまかしていた手口を語った。元乳母は、母の寝室の茶がやけに濁っていた夜を覚えていた。記録係の未亡人は、違法伐採で空いた区画と修繕費の増額日が一致する帳面控えを提出した。


 ひとつひとつは小さな記憶だ。だが積み重なると、家一つを崩す。


 最後に、アリエルが立った。


 議場は静まり返る。評議会で罪を着せられた日、この場に近い空気の中で、アリエルは自分の声を奪われかけた。今日は違う。奪われた声を持って戻ってきた。


 「わたくしは、亡き母の研究と、旧森区画の権利を取り戻すためにここへ来ました」

 視線をまっすぐ前へ置く。

 「ですが今は、それだけではありません。偽薬草で体を悪くした人、働き口を失った人、寄進という言葉を利用されて騙された人たちの分も、ここで終わらせに来ました」


 そして手記『下』が提出された。


 母の筆跡。違法伐採の記録。毒ではなく眠気を強める粉を用いた三度の危害。療養記録が意図的に“持病の悪化”へ書き換えられていった痕跡。審問官が頁をめくるごとに、議場の空気が冷えていく。


 「そんな古い女の日記など」

 ついにセラフィナ本人が声を荒げた。

 「病人の被害妄想に決まっていますわ! あの人は森しか見ていなかった。家のことなど何も――」

 「家のことを見ていなかったなら」

 アリエルが遮る。

 「どうして修繕費の差額と、あなたの宝飾品の支払い月が同じなのですか」


 その一言で、セラフィナは口を閉じた。


 審問官が次の書類を示す。宝飾商の控え。仕立て代帳。薬材商会から伯爵家へ戻った金の記録。ケイデンスが法的構成を短くまとめ、レンノンが変名の対応表を差し出し、ユーソフが日付表で逃げ道を塞ぐ。最後にアルヴァが立ち、北辺公爵として、偽薬草により北辺住民へ実害が出たこと、旧森区画の違法伐採が広域流通へ影響したことを述べた。


 「これは伯爵家の内輪揉めではない」

 低い声が議場へ落ちる。

 「王都と北辺をまたいだ流通不正であり、寄進制度の信頼を傷つける行為だ。見逃せば、次は別の家、別の土地で同じことが起こる」


 沈黙のあと、審問官は結論を読み上げた。


 セラフィナ・ハーグレイヴに対し、相続関連書類の再審、研究棟および旧森区画の管理権停止、横領・偽造・不正流通・違法伐採関与の本調査移行。付随して、母の療養記録隠匿に関する別件捜査開始。


 完全な刑の確定ではない。だが、家名と笑顔で押し通せる段階は終わった。


 傍聴席から声は上がらなかった。代わりに、誰かが静かに息を吐いた。その連なりが波みたいに広がる。長く張っていたものが、ようやくほどける音だった。


 議場を出たあと、石段の上で春先の風が頬を打った。女たちが順にアリエルへ頭を下げ、ケイデンスへ礼を言い、レンノンへ小さく手を振って帰っていく。北辺から来た農家の夫婦は、再開園の日には必ず手伝いに行くと言ってくれた。


 終わった、と思うにはまだ早い。けれど、大きな一線は越えた。


 「よく立ったわ」

 ケイデンスが言う。

 「足、震えてない?」

 「終わってから震えます」

 「それでいい」

 彼女は書類箱を抱え直し、いつもの調子で付け足した。

 「あとでちゃんとお茶を飲みなさい。勝った日の人間は糖分を取る義務があるわ」

 「そんな法文ありました?」

 「今作った」


 その会話に、アリエルはようやく笑えた。


 だが、その日の午後には別の噂が王都を回り始めた。


 北辺公爵夫妻の白い結婚は、春の終わりで満了するらしい。

 審問が済めば、夫人は目的を果たして離縁するらしい。

 公爵はもともと政治上の都合で妻を迎えただけらしい。


 茶店の奥でも、仕立て屋でも、法務局の廊下でも、その話が妙に軽く交わされた。人は断罪の次に恋の行方を知りたがる。


 夕方、公邸へ戻る馬車の中で、アリエルは窓の外ばかり見ていた。石畳の隙間から、名もない草が芽を出している。冬を越えた草だ。強いわけではない。ただ、ちゃんと季節が来たから出た。


 「疲れたか」

 向かいからアルヴァが聞く。

 「少しだけ」

 「公邸へ着いたら、誰も通させない」

 「それは助かります」

 会話はそれだけだった。もっと言いたいことは、たぶんお互いにいくつもある。なのに、契約という言葉が間へ座っている。


 アリエルは考えてしまう。

 母の研究は取り戻した。継母の不正も暴いた。森の再開園も、もう目前だ。

 だったら、自分は約束通り去るべきなのではないか。

 安全な男、利用価値のある協力者、白い結婚の相手。始まりがそうだったのだから、終わりまで筋を通すべきではないか。


 けれど同時に、礼拝堂で血を流した肩や、震える手や、朝食のたびに交わした小さな会話が胸を重くする。


 公邸の玄関へ着いたとき、アルヴァが先に降りて手を差し出した。いつものように、公の場で妻を支えるための手つきで。けれどアリエルには、その一瞬のためらいがわかってしまう。離したくないのに、離す自由も相手に返さなければならないと思っている手だ。


 アリエルはその手を取り、降り立つ。触れたのはほんの数秒なのに、胸の奥には長く残った。


 白い結婚の期限は、静かに近づいていた。

 勝った日のはずなのに、失いたくないものの形ばかり、はっきり見える夕暮れだった。



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