第15話 手記『下』のありか
豪雨の夜から三日後、アリエルはようやく寝台の上から机へ戻る許可を得た。
許可を出したのは医師で、許可に条件をつけたのはポラで、許可のあとの椅子の背へ余計な膝掛けを掛けたのはアルヴァだった。公爵邸の人間は、ひとり残らず過保護だとアリエルは思ったが、反論すると全員が同じ顔で「自覚が遅い」と返してくるので、最近は半分あきらめている。
豪雨の晩に回収した箱は、書庫の机の中央に置かれていた。薄い木箱で、外側はひどく傷んでいるが、中へ詰められていた油紙包みは無事だった。そこから出てきたのは、古い種子の袋、温室の補修図、そして母の癖の強い走り書きが入った折り畳み紙である。
「文字が急いでますね」
レンノンが肩越しにのぞき込む。
「書いた本人が追われていたのか、後で見つかるのを急いでいたのか」
「どちらもありえます」
アリエルは紙を押さえた。
そこにあった文章は断片的だった。
――上だけでは足りない。
――礼拝の音が聞こえる場所へ。
――雨が石を叩く午後、天使の左手を見なさい。
母は大事なことになるほど、急に詩みたいな書き方をする。子どものころは格好いいと思っていたが、解読する立場になると少し困る。
「礼拝の音が聞こえる場所?」
ユーソフが首をかしげる。
「教会ですか」
「礼拝堂でしょうね」
アリエルは頷いた。
「でも、ハーグレイヴ家の礼拝堂は母が亡くなったあと改装されています。今の状態を見ても、隠し場所が残っているとは限りません」
「別の礼拝堂かもしれません」
レンノンが言う。
「『音が聞こえる』って表現なら、隣接してるだけの場所も入る」
そのとき、書庫の扉が開いた。ポラが封蝋付きの手紙を盆に載せて運んでくる。
「王都から急ぎの便です。差出人はケイデンス様」
アリエルは封を見た瞬間、思わず前のめりになった。
中から出てきたのは手紙一通と、折り畳まれた青い図面だった。
ケイデンスの字は相変わらずきっぱりしている。
――あなたが以前言っていた、伯爵家旧領で母君がよく寄進していた離れ礼拝堂を調べました。
――本堂ではなく、王都南西の葡萄畑の脇にある小礼拝堂です。
――十年前の修繕図面に、壁龕の左右へ不自然な空洞があります。
――正面祭壇の天使像は左右に一対。左手の像の台座だけ、中へ手が入る寸法でした。
アリエルは図面を広げた。石造りの小礼拝堂の平面図。その祭壇脇に描かれた天使像のうち、左側の台座へ確かに細い注記がある。
「これだわ」
思わず声が出る。
「『雨が石を叩く午後、天使の左手を見なさい』……本当にそのまま」
「君のお母上、詩人ではなく謎かけ師だな」
アルヴァが呆れ半分で言った。
「身内にやられるとわりと困ります」
「よくわかりました」
けれど困るだけでは終わらない。胸の奥で、何かが一気につながっていく感覚があった。
手記『下』はある。
場所は王都近郊の離れ礼拝堂。
母は『上』と分けてまで、どうしても残したかった記録をそこへ隠した。
それを手に入れれば、継母と薬材商会の繋がりだけでなく、母の死に関わる最後の部分まで届くかもしれない。
アリエルは図面の端を握りしめた。
「王都へ戻ります」
「そう言うと思った」
アルヴァは驚きもしない。
ユーソフがすぐに紙と筆を引き寄せる。
「日程を詰めます。表向きの名目はどうしましょう。年末の寄進確認か、収支監査か」
「両方」
アリエルとアルヴァの声が重なった。
二人で顔を見合わせる。
「寄進確認なら礼拝堂へ入る理由になる」
アリエルが言う。
「収支監査なら伯爵家側の帳簿も要求できます」
「なら二枚看板にする」
アルヴァが頷く。
「継母が片方を潰しても、もう片方で通る」
話が決まると早かった。ユーソフが動線を書き出し、レンノンが王都側で見張るべき商会の名を挙げる。ファビーニョは護衛人数を増やせと言い、メンゼルは「面倒だが面白くなってきた」と不謹慎な感想を漏らしてファビーニョに睨まれた。
その一方で、雨宿りの食卓へ集う女たちも黙ってはいなかった。
「王都は足が滑りやすいから、底の厚い靴で」
「冷えると頭が回らなくなるから、生姜糖を持っていって」
「知らない顔に囲まれたら、伯爵夫人みたいに背筋を伸ばすんです。あ、今の奥様ならいつも通りで足りますね」
見送りの準備なのか遠足前なのかわからない勢いで、旅支度の助言が次々飛ぶ。ケイリンは当然のように携帯食を作りはじめ、ポラは王都でも困らないよう替えの手袋と簡易の雨除けを二組ずつ包み始めた。
「皆さん、少し落ち着いて」
アリエルが言っても誰も落ち着かない。
「だって王都でしょう」
マーヤが真顔で答える。
「奥様の継母がいるんでしょう」
「いますね」
「ならなおさらです」
妙に筋の通った理屈だった。
夕方、荷造りがひと段落したころ、書庫の窓へ冬の淡い光が差した。人の気配が引いたあと、アリエルは図面をもう一度開く。離れ礼拝堂。葡萄畑の脇。左手の天使像。
王都へ戻れば、セラフィナはきっと笑顔で迎えるだろう。何も知らないふりをして、アリエルの服の裾まで褒めるかもしれない。その笑顔の裏にどれだけの泥があるのか、今ならもう目をそらさずに見られる気がした。
「怖いか」
いつの間にか、アルヴァがそばへ来ていた。
アリエルは少し考え、それから正直に答える。
「ええ」
「よかった」
「どういう意味ですか」
「怖さがあるなら、無茶の速度が少しは落ちる」
「ひどい」
「事実だ」
言い返そうとして、やめた。たしかに豪雨の夜の件では、反論できる立場にない。
「でも」
アリエルは図面を畳む。
「怖いのと、戻らないのは別です」
「ああ」
「今度は、追い出される側ではなく、取り返しに行きます」
自分で言って、自分の声の芯に気づいた。前よりも、少しだけ太くなっている。
「母の手記も、家の記録も、奪われた時間も、全部は無理でも、取り戻せるだけ取り戻す」
アルヴァは静かに頷いた。
「そのために一緒に行く」
その一言が、奇妙なほどまっすぐ胸へ届いた。
白い結婚の契約上、二人は対等な協力者だ。互いを利用する利点もある。けれど今の「一緒に行く」は、契約条文のどこにも書かれていない温度を持っていた。
アリエルは視線をそらすように窓の外を見た。雨はもう降っていない。庭の低木の先で、薄い夕暮れが雪の前触れみたいに白んでいる。
王都へ戻れば、たぶん穏やかでは済まない。
継母の笑顔も、ローデン侯子の執着も、帳簿の嘘も、全部まとめて正面から来る。
それでも、もう一人ではなかった。
机の上の図面へ手を置きながら、アリエルは小さく息を吐く。母の遺した『下』は、まだ石の中で待っている。ならば迎えに行くしかない。
冬の旅支度は、そうして静かに始まった。




