第14話 豪雨の夜、白い契約は役に立たない
冬の入口は、ある晩いきなりやって来た。
昼過ぎから低く垂れこめていた雲が、夕刻には真っ黒に変わり、北辺一帯へ容赦なく雨を叩きつけはじめた。公爵邸の窓硝子が何度も鳴り、庭木が風に煽られて大きくしなる。暖炉の火はついているのに、廊下の空気まで湿っていた。
「今夜は誰も森へ近づけません」
ファビーニョが玄関広間で言い切る。
「川が先に膨れます」
「わかってる」
アリエルもわかっていた。わかっていたのに、落ち着けなかった。
夕方、カラニから使いが来たのだ。
北の外れの旧温室跡で、雨紋が不自然に濃く出ている。普段の小雨では見えなかった筋が、この雨なら読めるかもしれない、と。
母の手記『上』には、旧温室の床下へ「記録を濡れない場所へ移した」とだけ書かれている。もしそこへ関連資料が残っているなら、今夜を逃せば次に読めるのがいつになるかわからない。土が崩れれば、跡ごと流れる可能性もあった。
「止めても行く顔をしていますね」
ポラが静かに言う。
「してるかしら」
「しています」
きっぱりしていた。
アルヴァはまだ外の堰の確認から戻っていない。ユーソフは西の倉庫の見回りへ出ている。邸内はそれぞれに忙しい。
アリエルは濡れにくい外套の紐を結びながら、最低限の人数だけ連れてすぐ戻るつもりだと自分へ言い聞かせた。ファビーニョを説得するのは難しかったが、旧温室跡まで行って雨紋だけ確かめ、何もなければ引き返すと約束すると、ようやく渋い顔で護衛を二人つけてきた。
「約束を違えたら、私がアルヴァ様へ全部言います」
「そのときは先に謝っておいて」
「謝りません」
ポラはきっぱりしたままだった。
外へ出た途端、雨は傘など意味がないと教えてきた。風が斜めから吹きつけ、外套の裾が足へ貼りつく。灯りを覆いながら進んでも、森へ入るころには靴の中まで冷たくなっていた。
旧温室跡には、先に来ていたカラニがいた。頬へ雨を打たれながらも、カラニは興奮気味に崩れた石畳を指さす。
「ここです。見てください、この縁」
雨に濡れた石の表面へ、細い筋が何本も浮いている。水の流れにまぎれて、誰かが床板をずらした痕と、重い箱を引いた跡が残っていた。
アリエルはしゃがみ込み、息を整える。雨紋読解は、急げば急ぐほど見誤る。母にそう教わった。焦りを押し込み、しずくの重なりをたどると、石の継ぎ目のひとつだけ、濁り方が違う。
「ここを」
言いかけた瞬間、足もとで土がずるりと崩れた。
護衛が腕を掴むより早く、石畳の脇の斜面が雨水でえぐれ、アリエルの片脚が落ちる。体勢を立て直したものの、灯りが転がり、辺りが一気に暗くなった。次の瞬間、上流から押し寄せた水が、膝下へ横からぶつかる。
「奥様!」
叫びが聞こえる。
アリエルは咄嗟に石の縁へ手をかけた。だが濡れた石は滑る。カラニが飛びついて腕を伸ばしたところへ、さらに水が来た。細い流れだったはずの水路が、もう別物になっている。
視界の端で、さっき見つけた継ぎ目の板が半ば浮き上がっているのが見えた。
あそこに、何かある。
こんな状況で考えることではないとわかっていても、母の手記と同じ癖が頭をもたげる。失われる前に拾え。消える前に読め。
「だめです!」
護衛の声を背に、アリエルは半歩だけ踏み出した。
その半歩が、いけなかった。
足もとの土が完全に抜け、冷たい水が腰まで跳ね上がる。息が詰まり、世界が灰色になった。水面へ叩きつけられながらも、アリエルは必死に板の端を掴む。指先に木の感触。重い。箱だ。薄い木箱が板の裏へ括りつけられている。
掴んだ瞬間、流れがさらに強くなり、腕が持っていかれそうになる。
そのときだった。
「アリエル!」
雨と風を裂くような声がした。
次の瞬間、強い腕が背から回り、浮きかけた体をまとめて引き寄せられる。泥と水の匂いの中でも、それが誰なのかはすぐわかった。アルヴァだった。
どうしてここに、と思うより先に、抱き上げられる。片腕でアリエルを支え、もう片手で岩角を掴み、アルヴァは踏みとどまった。その肩へ雨が容赦なく叩きつけている。
「箱を」
アリエルが掠れた声で言うと、アルヴァは信じられないものを見る顔をした。
「まず自分だ」
「でも、流れます」
「君も流れる」
「箱も」
「君のほうが先だ!」
怒声に近い声だった。アルヴァがそんなふうに声を荒らげるのを、アリエルは初めて聞いた。
しかし次の瞬間には、彼は歯を食いしばったまま、空いているほうの手を無理に伸ばしていた。箱の紐を短剣で断ち切り、護衛へ投げ渡す。
「持て! それを離すな!」
「はっ!」
そこまでやってから、ようやく彼はアリエルだけを抱え直した。
帰路の記憶は途切れ途切れだった。雨が顔を叩く痛み、アルヴァの外套の重さ、誰かが灯りを掲げて走る気配。公爵邸の玄関へ入ったときには、全身から熱が逃げきっていて、自分の足で立てていたのかも怪しい。
暖炉の前へ運び込まれ、濡れた外套を剥がされるころ、アリエルは薄く目を開けた。
「……契約違反、では」
頭のどこかで、場違いな言葉が浮かぶ。
アルヴァが濡れた髪のままこちらを見下ろした。いつも整っているはずの前髪が額へ張りつき、頬に泥までついている。
「何がだ」
「抱き上げるのは」
「知らない」
「知ってください」
「今は知らない」
いつもよりずっと短い返事だった。そのぶっきらぼうさが、逆に恐ろしいくらい取り乱していた証拠なのだと、熱に鈍った頭でもわかった。
医師が呼ばれ、湯が運ばれ、ポラが容赦なく濡れた髪を拭く。ケイリンはなぜか生姜のきいた熱いスープを持ってきて、「飲まないと叱ります」と本気で叱った。箱は無事だった。ファビーニョがずぶ濡れのまま守っていると聞いて、ようやく胸の奥が少しだけ緩む。
だがその夜更け、熱は思ったより高く出た。
浅い眠りの中で、アリエルは何度も雨の音を聞いた。子どものころの寝台。母の細い指。研究棟の窓を打つ雨。行かないで、と言いたかったのに言えなかった喉。
「お母さま」
自分の声で目が覚めそうになり、けれど目は開かない。
「……置いて、いかないで」
額へ、冷たい布が触れた。
「置いていかない」
低い声が近くでする。
「ここにいる」
夢の続きのように聞こえた。アリエルは布の冷たさへ少しだけ顔を寄せ、それからまた眠りへ沈む。
夜明け前、椅子に座ったままのアルヴァを見つけたのはポラだった。彼は着替えは済ませていたが、髪はまだ完全に乾いていない。寝台の脇で、手を伸ばせば届く位置に座っている。
「旦那様」
ポラが小声で呼ぶ。
「少しはお休みを」
「あとで」
「あとではなく今です」
「熱が下がったら行く」
聞く気のない声だった。
ポラは小さくため息をつき、温かい茶を置いてから部屋を出た。
朝になって、アリエルの熱はようやく落ち着いた。薄く目を開くと、窓の外には洗われたような淡い空が見える。雨は止んでいた。
寝台の脇で本を開いていたアルヴァが、気配に気づいて顔を上げた。
「起きたか」
「……おはようございます」
「昼前だ」
「では、ぎりぎり朝です」
自分でも驚くほど掠れた声だったのに、アルヴァは眉間の皺を少しだけゆるめた。怒っているのか安堵しているのか、その両方なのか、判別しにくい顔である。
「箱は」
アリエルが最初に問うと、彼は深く息を吐いた。
「無事だ」
「よかった」
「よくない」
「箱がですか」
「君がだ」
今度の叱責は低かった。だが、昨夜の怒声よりよほど胸へ響く。
アリエルは毛布の上で指を握った。
「……すみません」
「謝って済むなら、川はいらない」
「それはよくわかりません」
「私はわかってほしい」
少しだけ沈黙が落ちる。
その沈黙の中で、アルヴァは視線をそらさずに言った。
「契約は、便利だ。距離を測るには役立つ」
声がかすかに重くなる。
「だが昨夜みたいなときには、何の役にも立たなかった」
アリエルは返事ができなかった。
白い結婚。寝室は別。私生活に踏み込みすぎない。理屈は全部正しかったはずなのに、濁流の中で抱き上げられた感覚は、理屈より先に体へ残っている。
「次からは」
アルヴァが続ける。
「行くなとは言わない。どうせ行く」
「信頼がない」
「信頼している。だから先に言う」
ほんの少し、目元だけで疲れた笑いを見せる。
「私を置いていくな」
胸の奥で、小さく何かが跳ねた。
アリエルは毛布を少しだけ引き上げて顔を隠し、それでも隠しきれないまま頷いた。
「……善処します」
「善処では足りない」
「では、努力します」
「最初からそう言え」
いつもの調子に近い応酬が戻って、ようやく息ができた気がした。
窓の外では、豪雨に洗われた庭が静かに光っている。白い契約は昨夜、たしかに何の役にも立たなかった。けれど、その役立たなさを知ってしまったことが、二人の間に新しい何かを残していた。




