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白い結婚ですが、雨上がりの森と母の手記は取り戻します  作者: 乾為天女


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14/24

第14話 豪雨の夜、白い契約は役に立たない

 冬の入口は、ある晩いきなりやって来た。


 昼過ぎから低く垂れこめていた雲が、夕刻には真っ黒に変わり、北辺一帯へ容赦なく雨を叩きつけはじめた。公爵邸の窓硝子が何度も鳴り、庭木が風に煽られて大きくしなる。暖炉の火はついているのに、廊下の空気まで湿っていた。


 「今夜は誰も森へ近づけません」

 ファビーニョが玄関広間で言い切る。

 「川が先に膨れます」

 「わかってる」

 アリエルもわかっていた。わかっていたのに、落ち着けなかった。


 夕方、カラニから使いが来たのだ。

 北の外れの旧温室跡で、雨紋が不自然に濃く出ている。普段の小雨では見えなかった筋が、この雨なら読めるかもしれない、と。


 母の手記『上』には、旧温室の床下へ「記録を濡れない場所へ移した」とだけ書かれている。もしそこへ関連資料が残っているなら、今夜を逃せば次に読めるのがいつになるかわからない。土が崩れれば、跡ごと流れる可能性もあった。


 「止めても行く顔をしていますね」

 ポラが静かに言う。

 「してるかしら」

 「しています」

 きっぱりしていた。


 アルヴァはまだ外の堰の確認から戻っていない。ユーソフは西の倉庫の見回りへ出ている。邸内はそれぞれに忙しい。


 アリエルは濡れにくい外套の紐を結びながら、最低限の人数だけ連れてすぐ戻るつもりだと自分へ言い聞かせた。ファビーニョを説得するのは難しかったが、旧温室跡まで行って雨紋だけ確かめ、何もなければ引き返すと約束すると、ようやく渋い顔で護衛を二人つけてきた。


 「約束を違えたら、私がアルヴァ様へ全部言います」

 「そのときは先に謝っておいて」

 「謝りません」

 ポラはきっぱりしたままだった。


 外へ出た途端、雨は傘など意味がないと教えてきた。風が斜めから吹きつけ、外套の裾が足へ貼りつく。灯りを覆いながら進んでも、森へ入るころには靴の中まで冷たくなっていた。


 旧温室跡には、先に来ていたカラニがいた。頬へ雨を打たれながらも、カラニは興奮気味に崩れた石畳を指さす。

 「ここです。見てください、この縁」

 雨に濡れた石の表面へ、細い筋が何本も浮いている。水の流れにまぎれて、誰かが床板をずらした痕と、重い箱を引いた跡が残っていた。


 アリエルはしゃがみ込み、息を整える。雨紋読解は、急げば急ぐほど見誤る。母にそう教わった。焦りを押し込み、しずくの重なりをたどると、石の継ぎ目のひとつだけ、濁り方が違う。


 「ここを」

 言いかけた瞬間、足もとで土がずるりと崩れた。


 護衛が腕を掴むより早く、石畳の脇の斜面が雨水でえぐれ、アリエルの片脚が落ちる。体勢を立て直したものの、灯りが転がり、辺りが一気に暗くなった。次の瞬間、上流から押し寄せた水が、膝下へ横からぶつかる。


 「奥様!」

 叫びが聞こえる。


 アリエルは咄嗟に石の縁へ手をかけた。だが濡れた石は滑る。カラニが飛びついて腕を伸ばしたところへ、さらに水が来た。細い流れだったはずの水路が、もう別物になっている。


 視界の端で、さっき見つけた継ぎ目の板が半ば浮き上がっているのが見えた。


 あそこに、何かある。


 こんな状況で考えることではないとわかっていても、母の手記と同じ癖が頭をもたげる。失われる前に拾え。消える前に読め。


 「だめです!」

 護衛の声を背に、アリエルは半歩だけ踏み出した。


 その半歩が、いけなかった。


 足もとの土が完全に抜け、冷たい水が腰まで跳ね上がる。息が詰まり、世界が灰色になった。水面へ叩きつけられながらも、アリエルは必死に板の端を掴む。指先に木の感触。重い。箱だ。薄い木箱が板の裏へ括りつけられている。


 掴んだ瞬間、流れがさらに強くなり、腕が持っていかれそうになる。


 そのときだった。


 「アリエル!」


 雨と風を裂くような声がした。


 次の瞬間、強い腕が背から回り、浮きかけた体をまとめて引き寄せられる。泥と水の匂いの中でも、それが誰なのかはすぐわかった。アルヴァだった。


 どうしてここに、と思うより先に、抱き上げられる。片腕でアリエルを支え、もう片手で岩角を掴み、アルヴァは踏みとどまった。その肩へ雨が容赦なく叩きつけている。


 「箱を」

 アリエルが掠れた声で言うと、アルヴァは信じられないものを見る顔をした。

 「まず自分だ」

 「でも、流れます」

 「君も流れる」

 「箱も」

 「君のほうが先だ!」


 怒声に近い声だった。アルヴァがそんなふうに声を荒らげるのを、アリエルは初めて聞いた。


 しかし次の瞬間には、彼は歯を食いしばったまま、空いているほうの手を無理に伸ばしていた。箱の紐を短剣で断ち切り、護衛へ投げ渡す。

 「持て! それを離すな!」

 「はっ!」


 そこまでやってから、ようやく彼はアリエルだけを抱え直した。


 帰路の記憶は途切れ途切れだった。雨が顔を叩く痛み、アルヴァの外套の重さ、誰かが灯りを掲げて走る気配。公爵邸の玄関へ入ったときには、全身から熱が逃げきっていて、自分の足で立てていたのかも怪しい。


 暖炉の前へ運び込まれ、濡れた外套を剥がされるころ、アリエルは薄く目を開けた。


 「……契約違反、では」

 頭のどこかで、場違いな言葉が浮かぶ。


 アルヴァが濡れた髪のままこちらを見下ろした。いつも整っているはずの前髪が額へ張りつき、頬に泥までついている。

 「何がだ」

 「抱き上げるのは」

 「知らない」

 「知ってください」

 「今は知らない」


 いつもよりずっと短い返事だった。そのぶっきらぼうさが、逆に恐ろしいくらい取り乱していた証拠なのだと、熱に鈍った頭でもわかった。


 医師が呼ばれ、湯が運ばれ、ポラが容赦なく濡れた髪を拭く。ケイリンはなぜか生姜のきいた熱いスープを持ってきて、「飲まないと叱ります」と本気で叱った。箱は無事だった。ファビーニョがずぶ濡れのまま守っていると聞いて、ようやく胸の奥が少しだけ緩む。


 だがその夜更け、熱は思ったより高く出た。


 浅い眠りの中で、アリエルは何度も雨の音を聞いた。子どものころの寝台。母の細い指。研究棟の窓を打つ雨。行かないで、と言いたかったのに言えなかった喉。


 「お母さま」

 自分の声で目が覚めそうになり、けれど目は開かない。

 「……置いて、いかないで」


 額へ、冷たい布が触れた。


 「置いていかない」

 低い声が近くでする。

 「ここにいる」


 夢の続きのように聞こえた。アリエルは布の冷たさへ少しだけ顔を寄せ、それからまた眠りへ沈む。


 夜明け前、椅子に座ったままのアルヴァを見つけたのはポラだった。彼は着替えは済ませていたが、髪はまだ完全に乾いていない。寝台の脇で、手を伸ばせば届く位置に座っている。


 「旦那様」

 ポラが小声で呼ぶ。

 「少しはお休みを」

 「あとで」

 「あとではなく今です」

 「熱が下がったら行く」

 聞く気のない声だった。


 ポラは小さくため息をつき、温かい茶を置いてから部屋を出た。


 朝になって、アリエルの熱はようやく落ち着いた。薄く目を開くと、窓の外には洗われたような淡い空が見える。雨は止んでいた。


 寝台の脇で本を開いていたアルヴァが、気配に気づいて顔を上げた。

 「起きたか」

 「……おはようございます」

 「昼前だ」

 「では、ぎりぎり朝です」


 自分でも驚くほど掠れた声だったのに、アルヴァは眉間の皺を少しだけゆるめた。怒っているのか安堵しているのか、その両方なのか、判別しにくい顔である。


 「箱は」

 アリエルが最初に問うと、彼は深く息を吐いた。

 「無事だ」

 「よかった」

 「よくない」

 「箱がですか」

 「君がだ」


 今度の叱責は低かった。だが、昨夜の怒声よりよほど胸へ響く。


 アリエルは毛布の上で指を握った。

 「……すみません」

 「謝って済むなら、川はいらない」

 「それはよくわかりません」

 「私はわかってほしい」


 少しだけ沈黙が落ちる。


 その沈黙の中で、アルヴァは視線をそらさずに言った。

 「契約は、便利だ。距離を測るには役立つ」

 声がかすかに重くなる。

 「だが昨夜みたいなときには、何の役にも立たなかった」


 アリエルは返事ができなかった。


 白い結婚。寝室は別。私生活に踏み込みすぎない。理屈は全部正しかったはずなのに、濁流の中で抱き上げられた感覚は、理屈より先に体へ残っている。


 「次からは」

 アルヴァが続ける。

 「行くなとは言わない。どうせ行く」

 「信頼がない」

 「信頼している。だから先に言う」

 ほんの少し、目元だけで疲れた笑いを見せる。

 「私を置いていくな」


 胸の奥で、小さく何かが跳ねた。


 アリエルは毛布を少しだけ引き上げて顔を隠し、それでも隠しきれないまま頷いた。

 「……善処します」

 「善処では足りない」

 「では、努力します」

 「最初からそう言え」


 いつもの調子に近い応酬が戻って、ようやく息ができた気がした。


 窓の外では、豪雨に洗われた庭が静かに光っている。白い契約は昨夜、たしかに何の役にも立たなかった。けれど、その役立たなさを知ってしまったことが、二人の間に新しい何かを残していた。



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