第13話 母の死に、継母の指が触れている
雨の匂いがまだ薄く残る夜だった。
収穫祭が終わってからというもの、昼は相談紙と市場の報告、夜は母の手記『雨上がりの森 上』の読み直しが、アリエルの日課になっていた。公爵邸の書庫の一角には、ハーグレイヴ伯爵家から運び込ませた古い帳面の写し、北辺の土壌記録、王都の薬材商会の価格表、そして母の手で綴られた手記が、几帳面に並べ直されている。
その夜も、アリエルは机の上へ紙を広げ、ランプの灯を少しだけ近づけた。
手記『上』の中ほどに、これまで何度読んでも引っかかる一文があった。
――署名が、私のものに似せられている。
最初は研究棟の出納を指す愚痴だと思っていた。継母が家の金に口を出しはじめた時期と重なるのはわかっていたが、それだけで母の死と結びつけるには飛躍がある。そう考えて、アリエルは何度も自分を抑えてきた。
けれど、今日届いた市場報告の中に、見逃せない写しが混ざっていた。
北辺へ送られた薬材の納入依頼書。その末尾にある許可署名が、どう見ても母の筆を真似ている。
アリエルは、母の本物の書簡を横へ置いた。丸みのある字、払いの長さ、濁点の乗せ方。似せてはいる。似せてはいるけれど、違う。母は数字の七を書くとき、必ず最後の線を少しだけ跳ね上げる癖があった。納入依頼書の七は、まっすぐ止まっている。
「……雑だわ」
ひとりごとがこぼれる。
「似ていればいいと思ったのね」
その下にあった古い支払い帳も開く。ある月から急に、研究棟へ入る薬酒の量が増えていた。母は酒をあまり好まなかった。風邪でもないのに強い香味酒を定期的に入れる理由がない。
しかも、同じ時期の侍女の交替記録に、見覚えのある名前があった。セラフィナが後から連れてきた女中頭の遠縁。短期間だけ研究棟付きになり、母の死の直後にいなくなっている。
アリエルの指先が冷える。
病で弱っていた。
そう聞かされてきた。
大人たちは皆、同じ顔で、同じ声で、仕方のないことだったと告げた。
だが本当にそうだったのか。
薬酒へ何かを混ぜられていたのではないか。
研究をやめるよう脅されていたのではないか。
母はひとりで、どこまで追い詰められていたのか。
胸の奥で、怒りより先に、遅れてきた恐怖が広がった。あの日、母の指が少し冷たかったこと。寝台の脇で「よく眠りなさい」と笑ったこと。その笑顔の下へ、どれだけの無理が隠されていたのだろう。
アリエルは息を吐こうとしたが、うまくいかなかった。
そのとき、書庫の扉が控えめに叩かれる。
「入ってもいいか」
アルヴァの声だった。
返事をする前に扉が開き、彼は盆を持って入ってきた。湯気の立つ紅茶と、小さな皿にのった蜂蜜漬けの木の実。何か話し合いがある顔ではなく、ただ夜更かしの人間へ温かいものを届けにきた顔だった。
「まだ起きていたか」
「ええ」
「灯りが見えた」
アリエルは机の上を隠さなかった。隠せなかったと言ってもいい。アルヴァは盆を机の端へ置き、並んだ書類へ目をやる。彼はすぐに口を挟まない。読める範囲だけを読んで、必要なぶんだけ待つ。
「何か見つかったのか」
やがて問われ、アリエルは頷いた。
「母の署名を真似た書類です。それから、亡くなる前の薬酒の搬入記録」
「誰が関わった」
「まだ断言はできません」
そう言いながら、声が少し硬くなる。
「でも、継母の手が触れていないとは、もう思えない」
アルヴァはすぐに慰めの言葉を選ばなかった。ただ、紅茶の杯をアリエルの手の届く位置へ寄せる。
「飲め」
「……いま、あまり味がわからないかもしれません」
「構わない。温かい」
それだけを言う。
アリエルは杯を持った。たしかに温かい。喉へ落ちる熱が、止まりかけていた息を少しだけ動かす。
「病死だと思っていました」
気づけば、言葉がこぼれていた。
「少なくとも、そう思おうとしていました。そうでなければ、遅すぎるでしょう。わたくし、何も知らなかったんです」
「知らされなかったんだ」
「同じことです」
「違う」
短く、しかしはっきりした否定だった。
アリエルが顔を上げると、アルヴァはまっすぐこちらを見ている。
「君は子どもだった。家の金も帳面も人の配置も、触らせてもらえなかったはずだ」
「でも、もっと早く疑うべきでした」
「疑ったところで、証拠がなければ飲み込まれていた」
彼の声は低いが、妙に静かで、だからこそ逃げ道にならない。
「今はある。君が拾い上げた」
胸の奥で、何かがかすかに軋んだ。
怒ってもいい。
悔しがってもいい。
泣きそうになるのをこらえなくてもいい。
そんなふうに許された気がして、アリエルは杯を置いた。
「……腹が立ちます」
「ああ」
「病だと信じて、納得したふりをして、屋敷の廊下を歩いていた自分にも」
「それは、後でいい」
「よくありません」
「よくなくても、順番はある」
アルヴァは机上の依頼書を指で示した。
「まず相手を倒す。そのあと、自分を責めるなら好きにしろ」
「ひどい順番」
「効率がいい」
思わず、アリエルは笑ってしまった。笑った瞬間に喉の奥がひりつき、笑いなのか嗚咽なのか自分でも曖昧になる。視界が少しだけ滲み、慌てて伏せた。
アルヴァは見ないふりをしたまま、机の端の紙束を整える。
「証拠は写しを増やそう。原本が奪われても済むように」
「……はい」
「薬酒の件は、ケイデンスにも送る。法務局側から見れば別の穴が見えるかもしれない」
「はい」
「今夜は、ここまでだ」
「まだ、もう少し」
「眠らない頭で読んでも、怒りしか増えない」
淡々とした言い方なのに、拒みようがなかった。
「明日も読むなら、今夜は寝ろ」
アリエルは少しだけ迷った末、頷いた。負けた気もしたが、完全に間違っているとは思えない負けだった。
立ち上がったとき、机の上の手記がふいに目へ入る。母の筆跡は、何年経っても変わらずそこにあった。消えていない。奪われきっていない。
「アルヴァ様」
「なんだ」
「証拠が揃ったら」
アリエルは息を整えてから言う。
「今度こそ、母の死を、病気だったとだけは終わらせません」
アルヴァは頷いた。
「終わらせるつもりはない」
書庫を出る前、アリエルはもう一度だけ振り返った。並んだ紙束の上へ、ランプの灯が落ちている。その小さな明るさが、今日だけは妙に頼もしく見えた。




