第16話 王都帰還、継母の笑顔
冬の王都は、北辺の冷え方とは別の意味で骨身にしみた。
吐く息こそ白いものの、街路には人と馬車と噂が隙間なく流れ、石畳の上を走る車輪の音まで落ち着かない。北辺では空が広く、風の行き先が見える。けれど王都の空は屋根と塔に細く切り取られ、誰かの視線と同じくらい逃げ場がなかった。
ハーグレイヴ伯爵家の門へ公爵家の馬車が入ると、使用人たちの動きが目に見えて慌ただしくなる。正面階段には冬薔薇の鉢が並べ直され、扉の両脇では侍従がわざとらしいほど背を伸ばしていた。
「歓迎の準備が行き届いてるな」
アルヴァが窓の外を見たまま言う。
「歓迎というより、見世物の支度でしょう」
アリエルは手袋の縁を整えた。
「継母は、誰が見ている場かで笑顔の角度を変えます」
「今日は何度くらいだ」
「二十度前後かしら。優しい義母に見せたい日は、そのくらいです」
向かいに座るユーソフが、手元の覚え書きに何か書き足した。おそらく、継母の笑顔の角度という、公文書には絶対残らない情報である。
馬車が止まる。
扉が開いた瞬間、外気と一緒に懐かしい香りが流れ込んだ。柑橘を強く焚いた香油。母が好んだやわらかな花の香りとは違う、場を支配したい人間の匂いだ。
「アリエルさん」
階段の上で、セラフィナが両手を広げていた。濃い葡萄酒色の冬衣装に真珠の耳飾り。喪にも喜にも寄り過ぎない色合いで、どの場にも自分を合わせられる女の顔をしている。
「まあ、本当にお元気そうで安心しましたこと。北辺は厳しい土地だと聞きますから、公爵家でご迷惑をかけていないか心配しておりましたのよ」
柔らかい言い方だった。けれど言葉の縫い目には、失敗したのではなくて、と誰かへ言わせたい意図が見える。
アリエルは一段ずつ階段を上がり、継母の正面で止まった。
「ご心配ありがとうございます。公爵家では台所も温室も書庫もずいぶん忙しくて、失敗している暇がありませんでした」
「まあ」
「ですので、心配より帳簿の保管状況を気にしていただいたほうが助かります。今日は寄進先の確認と収支監査も兼ねて参りましたから」
セラフィナの口角が、ほんのわずかに止まる。
その横で、ローデン侯子の姿がないことをアリエルは確認した。今ここで顔を出せば、執着が見えすぎる。つまり継母はまだ、公の体裁を保つ段階だ。
「もちろんですわ」
セラフィナはすぐに笑い直した。
「けれど、その前に旅の疲れを癒やしていただかなくては。皆さんも長旅でお疲れでしょう。公爵閣下、拙い家ですがどうぞおくつろぎを」
「拙くないなら何よりだ」
アルヴァは一礼だけ返した。
「くつろぐ前に、保管庫の鍵の所在を確認したい」
「本当にお仕事熱心でいらっしゃるのね」
「仕事で来たので」
返しが早すぎて、出迎えの侍女の肩が小さく揺れた。笑いをこらえているのが見える。昔なら、そんな揺れひとつでその侍女が叱責されるのを恐れて、アリエルは先に表情を消していた。けれど今は違う。消す必要のない場は、自分で作ればいいと知っている。
応接間へ通される道すがら、屋敷の空気は表面だけ磨かれ、中が痩せたままなのがよくわかった。壁の絵は入れ替えられているのに、床板の軋みは直されていない。花瓶の花は新しいのに、窓の蝶番に油が足りない。母は見えないところほど先に整えた人だった。セラフィナは逆だ。見られる場所だけを磨き、見えない場所から切り売りする。
応接間では、すでに数人の婦人たちが茶を囲んでいた。王都の小貴族の夫人、薬舗を営む家の未亡人、仕立て屋の主人の妹。どれも「偶然立ち寄った」には出来すぎた顔ぶれだった。
「まあ、北辺公爵夫人さま」
ひとりが扇を口元へ寄せる。
「公爵家では、ずいぶん大変だったと伺いましたわ。食卓の作法から侍女の取りまとめまで、すべてお苦手でいらしたとか」
あまりにも早い。馬車が門をくぐるより先に噂が着いていたらしい。
セラフィナが困ったふうに眉を寄せる。
「そんな言い方はだめよ。アリエルさんにも慣れない土地でご苦労が」
「お義母さま」
アリエルは微笑んだ。
「その噂、もう少し面白くしてから流したほうがいいです。せめて、料理長と一緒に保存食を作って市場に出したとか、薬草園で水路工と喧嘩しながら温室を建てたとか、そのくらいは混ぜませんと」
婦人たちが目をぱちぱちさせる。
「……喧嘩、なさるの?」
若い未亡人が思わず聞いた。
「必要ならします」
アリエルは頷いた。
「ただし、終わったあとに一緒に昼食を食べられる相手とだけ。そうでない喧嘩は時間がもったいないので」
沈黙のあと、ふっと誰かが吹き出した。
仕立て屋の妹らしい女が、膝の上で手を重ねる。
「その考え方、嫌いじゃありませんわ」
「ありがとうございます」
「実はわたくし、北辺から来た方に手紙を預かっておりますの」
その言葉に、セラフィナの視線が細くなった。
女は帯の内側から小さな包みを出した。油紙に丁寧に包まれたそれを、ポラが無言で受け取る。送り主の名は書いていない。けれど包み方に見覚えがあった。雨宿りの食卓で、ケイリンが焼き菓子のお裾分けをするときと同じ折り方だ。
中には短い便箋が三枚入っていた。
――北辺の市場で助けてもらったマーヤの従姉です。王都南門の洗濯場で働いています。伯爵家の下働きが、夜ごと薬材商会の帳面持ちと会っていました。
――わたしの姉は嗅覚を失って香舗を辞めました。北辺の食卓で名前を呼んでもらえたこと、忘れません。必要なら証言します。
――奥様へ。王都にも雨宿りできる場所はあります。声をかけてください。
たった三枚なのに、応接間の温度が変わった気がした。
セラフィナが茶器を持ち上げる音が少し高くなる。
「まあ、北辺ではずいぶん人助けに熱心でしたのね」
「ええ」
アリエルは便箋を畳んだ。
「助けてもらいましたから」
今度は、セラフィナの笑顔の角度が読めた。二十度を保っているふりをして、目元だけが冷たい。孤立させるつもりで流した噂の上に、別の話が載り始めたからだ。
その日の午後、保管庫の鍵は「探している最中」で、「古い帳面は虫干しへ出した」と言われ、「相続書類の一部は法務局で照合中」と説明された。どれも遅らせるための言い訳だが、言い訳が増えた分だけ守るべき穴が増える。
屋敷の東翼にある客室へ通されたあと、アリエルは暖炉の前で外套を脱いだ。ポラが音もなく扉の鍵を確かめ、ユーソフがすぐに机へ地図を広げる。
「出迎えの時点で三つ」
ユーソフが筆を走らせる。
「噂の流布、鍵の所在不明、帳面の持ち出し理由の不一致」
「四つよ」
アリエルは便箋を机へ置いた。
「王都の洗濯場にまで伯爵家の下働きが出入りしてる。帳面だけじゃなく、人の口も運んでいた」
「五つだ」
アルヴァが窓際から言う。
「継母は君を『帰ってきた娘』として扱っていない。北辺公爵夫人として牽制している」
「嬉しくない格上げですね」
「向こうがそう見るなら、その立場を使える」
窓の外では、冬雲の下で王都の煙が薄く流れていた。追い出されたときは、同じ景色が自分を拒んでいるように見えた。けれど今日は違う。嫌な匂いも、嫌な笑顔も、全部証拠に変えられる位置まで戻ってきた。
その夜更け、客室の扉がそっと叩かれた。
ファビーニョが警戒したまま開けると、立っていたのは昼の仕立て屋の妹だった。手には採寸箱を持っている。
「夜分に失礼します。昼間は言えなかったので」
彼女は部屋へ入るなり、箱の底板を外した。そこから細い帳面の切れ端が出てくる。
「伯爵夫人付きの侍女が、新しい冬衣装の支払いを急がせたんです。でも布の質も数も合っていない。帳面にある支出額が大きすぎる」
「横領の入口」
レンノンが目を細めた。
「しかも、仕立て代なら屋敷の女たちが自然に知ってる金額です」
仕立て屋の妹は唇を結び、それから言った。
「北辺から来た手紙に、こうありましたの。『黙らないだけで助かる人がいる』と」
その文の癖に、アリエルは覚えがあった。雨宿りの食卓で、結婚の愚痴をこぼした若い女へ返した相談紙の一節だ。
自分が軽い気持ちで書いたものではなかった。けれど、こんなふうに王都まで届くとは思っていなかった。
「ありがとう」
アリエルが言うと、女は少しだけ肩の力を抜いた。
「お礼は、全部終わってからで」
「ええ。全部終わってから、ちゃんとお茶を飲みましょう」
女が帰ったあと、部屋の中はしばらく静かだった。
北辺で交わした他愛ない会話や、焼き菓子の皿や、匿名の相談紙が、王都の夜に小さな橋をかけている。大きな旗ではない。けれど、こういう橋は足場になる。
継母は笑っていた。
でも、こちらにも笑わずに立ってくれる人が増えていた。
冬の王都で、最初の一歩はもう孤独ではなかった。




