3
さて、冒頭に戻ったところから。
「それでは。あとは部屋でもどこででもご自由に過ごしてください」
公用の婚姻届と、自分たちだけの間で交わすこの関係についての誓約書、ふたつの書類へのサインをそれぞれ終え――そう言った彼女から追い立てられるように、俺は執務室を出た。
「さて、それじゃあ、潔くニートな生活を――と言いたいとこだが」
廊下に出てすぐ、目の前の壁を見る。
「……どこでも自由にって言われてもなぁ」
閉まった扉を背に、こめかみを掻いた。
自分にとって、この屋敷は昨日初めて来たばかりだ。知っているのは、自分の部屋と、さっきまでの執務室、あと正面玄関までの道順くらいしかない。
部屋に戻るんでもいいが、俺に与えられた「自室」は、広さこそ十分なものの、今ある家具はベッドと一人掛け用のソファとクローゼットだけで、他の物は殆どない。
暇つぶしにできるものをほとんど持ってこなかったことが悔やまれる。
「てか、何もしなくていいとまで言われると思ってなかったんだよなぁ…」
急ぎ、実家に連絡を取って色々と持ってきてもらうようにはするが――
「とりあえず、探索するか」
ぽんと膝を打って、扉から背を離す。
自分が暮らす屋敷だし、どこででも、と言われているからには、中を歩くことだって許されるはずだ。たぶん。
そう自分に言い聞かせながら、左右を見た。
どちらの方向にも廊下は伸びていて、どちらにでも進める。
左の廊下を進んで、すぐの角を右に曲がれば正面の玄関ホールに繋がるでかい階段の上まで出ていける。
右の廊下の先に何があるのかは、まだよく知らない。
「うん、こっちだな」
で、右へ。
✳︎
廊下は磨き上げられていた。
歩いていく。
右手側には扉が並び、左手の壁にはずらりと風景画が飾られていた。
それから、子供なら隠れられそうな大きさの壺が途中にあった。
台に乗って飾られていて、花は入っていなかった。壺そのものに価値があるタイプのやつだ。
「うーん、いかにも高そうだな」
呟きながら、半歩、壺から離れたところを通る。
俺が転んで割ったら、得た援助がその日のうちに消えるかもしれない。
その先で曲がり角にぶちあたった。
素直に曲がる。
「うわ」
つい声が出た。
その廊下は、肖像画が左右にずらりと飾られた【ゾーン】だった。
「おお、ここ貴族っぽいな」
きょろきょろと見回す。
「先代、先々代、そのまた……ってやつだよな」
少し足が浮ついた。
前世では仏間の天井に近い壁のところにちょろっとご先祖さんの写真が飾ってあったくらいだったし、現世の実家でも、一応、あのくそおやじが男爵になったときに描いてもらったみたいだが、自分の部屋に置いたままにしてある。だから、こういう「いかにも」なのは新鮮だ。
驚き半分、感心半分で、大量の顔を眺めながら中央を歩いていく。
肖像画は、男、男、男――と続いたが、たまに女と男が一緒に並んで描かれているのもある。
どの絵も、服装や髪型にそれぞれの時代を感じる。だが、ほぼ確実に、全員、血がつながった人たちだというのも見て取れるのは、彼らの目が、皆、同じ緑青色で描かれていたからだった。さっきのペアで描かれていたのだけは、女の人のほうだったが。
(なるほど、昔からの遺伝なんだな)
ちょっと鋭い感じも似ている。
「なんか……俺で途絶えさせてすみません、って言ったほうがいいのか? いやでも、俺の責任じゃないしな…」
絵の中の彼らはいかにも貴族らしい厳格そうな顔つきだ。
それで俺を見ている。
……見ている。
「……いや、睨まないでくださいよ…」
そこまでそれなりに楽しんでいたはずだったのに、ふと、この中に彼女が言っていた「倒れた父親」もいるのかと思うと、あまりまっすぐに見返せる気がしなくなってきて、その後は極力目を逸らしながら通過した。
【ゾーン】を抜けるとまた角があった。
特に何も考えず曲がった――その瞬間。
「うわっ」
「きゃっ」
人がいた。ぶつかる寸前で、なんとか壁際に一歩跳んだ。
「す、すみません」
両手を上げた妙な体勢の壁画みたいになりながら言うと、
「いえ、こちらこそ申し訳ありません」
と、平素な声で返事があった。
屋敷のメイドだった。
いかにも上等そうな生地の、黒いクラシカルメイドの服に、フリルの無いエプロン。飾りげはないが、襟のところに蔦模様の刺繍が丁寧に入っている。
俺たちがやりとりしていると、その背後の廊下にもうひとりいたメイドも早足でやってきた。
そして、俺がぶつかりかけた人の隣に並ぶと、俺のことを、頭の先から靴のつま先まで見てから、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「この子に何かございましたか、“旦那様”」
――そうか、もう、そう認知されているのか。
仕事が早いなと感心するのと同時に、まだ自分の中ではまだ認めきれていない気まずさもあり、モゴモゴとした返事になる。
「あ、いや、ぶつかりかけただけで……」
「でしたら、失礼いたします」
冷たい声だった。
え? と思って見ると、ふたりのメイドはもう俺の横を通り過ぎようとしている。
「あ、ちょ、ちょっと待ってください」
「はい?」
ふたりが足を止める。
「えっと、そのー、僕、この屋敷の中を見て回りたいんですけど、入ってはいけない場所とかあります?」
「……さあ」
「さあ?」
「旦那様は、どこででもご自由にお過ごしになっていただいて構わないと伺っております」
丁寧な言葉だった。
そのはずなのに、妙に棘を感じる。
「じゃ、じゃあ、実家に手紙を出したいんですけど、どちらで頼めばいいですか」
「わたしたちではありません」
「え」
「連絡係がいるのでそちらにお申し付けください。それか、部屋付きの従者にでも」
「わたしたちは掃除と洗濯が担当ですので」
「そ、そうなんですね」
――もしかして、ものすごい縦割り組織…なのか……?
「ってそんなわけ」
おかしな想像を振り払うように、頭を振った。
あまりにもキッパリ言われて、少しびっくりしすぎた。
「あの……部屋付きの方なんていないと思います、僕。お会いしてないし」
「そうですか」
「そうですか?」
「いえ。でしたら、ご実家からどなたかお連れすればよろしかったのに」
「……」
はあ。
「ま、まあ、いいです…。じゃあ、その連絡係はどちらに……」
「たいていは電話室におります」
「……その電話室はどこに」
すると、メイドは、無言で床を指さした。この下の階ということだろう。……だいぶ雑だが。
「わかりました。ありがとうございます」
礼を言ったが、返事はなかった。
ふたりと別れて、数歩進んだところで、背後にすぐあった曲がり角の向こうから押し殺した声が聞こえた。
「……あの方が?」
「そうみたい」
それだけなら、好意とも敵意ともつかない会話だ。けれど、直前までの、のらりくらりとしたやりとりを思い返すと、鈍感になりきれない自分がもういる。
「まあ、わからなくもないけど」
たぶん、今の自分はまだ、彼女たちにとっては、旦那様でも、お嬢様の夫でもなく、突然やってきてこの屋敷の主人を名乗りだした不審人物に近いんだろう。
「歓迎されてないなぁ……」
理解はできる。だから、誰に言うでもなく頷いた。




