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「この結婚は、仕事です。」
「はい?」
結婚が、仕事?
何言ってるんだ、このひと。
ーー最初は、そう思った。
勧められて一人掛け用のソファに座った、その直後にいきなりだった。
通された部屋は、黒木を基調にした質素な部屋だった。
大きな縦長の窓の前に執務机と椅子があり、部屋の真ん中に、黒い大理石みたいなローテーブルと長いソファが向かい合わせに二つ。それから、壁に天井まで届く高さの本棚。
実家の執務室とも似ていたが、くそおやじの部屋のデスクは赤木が基調でもう少し明るい印象が前に来る。こっちのお宅のほうが渋い。
その中で、彼女ーーエリシア・シグルディスは、執務机の隣に、片手を乗せて立っていた。
金色の髪をぎゅっと後ろ頭の高いところでまとめた彼女の冷たい雰囲気に、冗談めいた言葉で対抗することでなんとか並ぼうと試みる。
「墓場なら聞いたことはありますけどね」
――が、
「いいえ。まだ死なれては困ります。せめて社交会のある日まで生きていてくださらないと、夫として隣に立ったと示せませんので」
「あ、はい」
冗談、おわり。である。
「要するに、“夫婦”を演じていただきたいのです。仕事として」
令嬢の声が冷静に続いた。
「本当の夫婦としての生活を貴方に求めることはありません。寝室も別に用意させています。公の場では夫として振る舞ってもらいますが、それ以外の時間はどう過ごしていただいても自由です」
「自由……ですか」
「ええ。欲しいものがあれば使用人に言ってください。外に出かけたければ出てもいいですし、屋敷の中で静かに暮らしたければそうしてください。うちの領地の仕事は、基本的に私がしますので、あなたはシグルディス伯爵の名を負ってくださればそれだけで結構なんです」
つまり仕事も何もかも彼女に任せて、俺はニートしていいってことか。
思っていたより悪くなさそうな生活だな。
そう思いかけたところで、ふと疑問が湧いてくる。
そんな気楽なことで、俺の実家の事業援助もしてくれるなんて正気か? このお嬢様。
「ちょ、ちょっと聞いても?」
つい、声が出た。
令嬢が片方の眉を怪訝そうに上げる。
「なんで僕なんですか」
彼女は、その一瞬だけ答えなかった。質問から逃げるように、指先に視線を落とす。
(そんなに言いにくいのか?)
そう思うと同時に、はっと、ひらめいた。
「もしかして」
彼女が顔を上げる。
「僕らは実は幼い頃に出会っていて結婚の約束をしていたとか……」
「お会いしていませんし、していません」
とたんに、目の奥が冷えて見えた気がした、淡々とした答えだった。
「違うのか……じゃあ、どうして」
「王立のセントラル学園に在籍されていましたよね。あなたが卒業する頃、私は中等部におりました」
「えっ、まさかそこで僕に秘かに惚れて……」
「違います」
一切照れもせず言われた。
「……じゃあ」
「私と同等以上の男性と結婚するより、あなたくらいのほうが御し易いと思ったまでです。合理的ですよね」
「…デスよネ」
ここへきて初の個人的会話が、この1分で終わった。
「あ、いや、すみません。ずいぶん、こちらに都合がよすぎるように聞こえて……」
「そんなことはないでしょう」
「でも、なんでそこまでしてもらえるのかわからないですし……」
「女子ひとりではこの家を継げないからです」
俺は口を閉じた。
この世界は、男が優勢なところがある。
女子は血統上の継承者にはなれるが単独では爵位と領地の統治権を継げない。
そのため、男子のいない家では、一人娘と結婚した夫が、その娘の継承権を介して爵位と家督を継ぐことになっている。
改めて目の前の令嬢を見ると、めちゃくちゃ若かった。
ぱっと見、濃い目の化粧でわかりにくかったが、たぶん二十歳を超えてない。もしかすると、学院も卒業したかも怪しいくらいなんじゃないかという気がした。絶対に、結婚を急ぐような歳ではない。少なくとも、俺的にはまだ。
「先日、父が倒れました」
すぅ、と大きく息を一吸いする音に視線を上げた。
「目を覚ます保証はないと言われました」
それを聞いてようやく、なるほどと思った。
そういう事情なら最初から言ってくれればーーけれど、そう口を開きかけたところで、彼女はさらに続けた。
「私がこの家と領地を自分の手にするなら、今しかありません」
「っえ」
あまりにも淡々とした物言いだった。
「の、乗っ取り……?」
「私の家です」
息を呑んだ瞬間に、彼女と目があう。十円玉にできる錆みたいな色だった。
「ですので、あなたを夫として愛するつもりはありません」
部屋の空気が止まる。
感情の見えない目ーーそれがわずかに細まった。
「とはいえ、恋人を作っていただくのは構いません。お若い男性にそこまで我慢しろとは申せませんし」
さすがに、膝に置いていた指が跳ねかける。
「ただし、決して外聞を損なわないように。使用人としてそばにつけるか、離れに住んでいただくことをお勧めします。」
「それは……」
ほんの一瞬、言葉を失った。
それは舐めてないか、と思った。俺のことも、その誰かに対しても。
「……そんな人はいません」
「今後できる可能性も含めてお伝えしています。私は求められても応えることはしませんので」
まるで、夫がほかの女を愛そうが何の関心もないと言わんばかりだった。
いや、それどころか、こちらが何も示していないうちから【拒絶】とでかでか書いた張り紙を額に貼って座っているような――
「いや、まあ、“しない”ことは……いいんですけど」
拳をぐっと握りしめたところで、一応のために聞いておく。
「ただ、跡継ぎとか? 大丈夫なんですか」
これ、こんな若い子に言っていいのか、セクハラと思われないか、すこし躊躇ったが、背に腹はかえられんと少し気合を入れて声を出した。
彼女の答えは相変わらず冷静だった。
「それは、いずれ優秀な子を養子にもらえば済むことです」
「なるほど」
ほっと息を吐いた。
ならもう確認することはなかった。
ただ、最後にひとつだけ気になる。
「……きみ、じゃない――あなたは、それでいいんですか」
「何がですか」
眉を顰められた。
思わず唾を飲み込む。
このまま言葉にするかどうか、一度だけ迷ったが、結局は、膝の上の拳を握り、ほとんど睨みながら口にする。
「僕と……愛情の無い相手と、これから夫婦として生きていくことが」
聞いた瞬間、彼女は一瞬だけ黙った。
けれど表情は変わらなかった。
「貴族の婚姻は、もともと、そういうものでしょう。貴方もお父上がそうなられたばかりとはいえ同じです」
「……」
彼女の目を見る。
「……わかりました」
俺は握りしめた拳をそのままに、静かに頭を下げた。
「お互い干渉しない、そういう夫婦を目指しましょう」
「助かります」
彼女は冷たい顔のままだった。机を回り、俺の前を通り抜けて扉に向かう。
「今日はお疲れでしょう。ゆっくり休んでください」
そう言うと振り返ることなく、扉に手をかけた。
「明日から必要なことはすべて家令に聞いてください。サインをいただきたいものがいくつかありますので届けますが、私も、用がない限りあなたの部屋を訪れることはしないようにしますので」
「わかりました」
「では、失礼します」
扉が閉じる。
それきり、静まり返った部屋で、俺はソファの背にぐったりともたれこんだ。
そして、冒頭の翌日へと戻った。




