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その人を初めて見たのは、婚姻届を出してから数日たった、ある日の昼前だった。
式はあげなかった。
俺の結婚生活は、とくに代わり映えのしない日々が続いていた。
家令の“じいちゃん執事”が言うには、今は社交シーズンでもなく、どこぞの家へのお呼ばれもない、と。つまり、俺の唯一といっていい仕事の「夫婦で立つ」機会は、まだ当分先なんだとか。
だから今、俺が屋敷でしているのは、言われたとおり空いた時間をのんびり自由に過ごすことだけ――と思いきや、時折、エリシアが確認して“OK”を出した領地の仕事の書類らしきものに“俺の”サインを記入する仕事だけは回されていた。
「たしかに『名を負ってくれれば』とは言われてたけどさ」
小さく不満を漏らしたその時、部屋には、紅茶をいれに何人かのメイドが来ていたが、彼女らは俺の声など聞こえていないかのように華麗な無視を決めていた。
まだ歓迎はされていないらしい。それは仕方ない。
けど、まったくの全員が、遠巻きにしてるってわけでもなかった。
「二重チェックのためってわけでもないのに、必要あるのか、これ」
机に置かれた書類の束から一枚ずつ抜き、サインを入れては、左から右へ移すだけの俺のぼやきに
「たしかに。本当に形式だけなんですよねぇ」
と、そう苦笑まじりに返してくれたのは、ルシルだ。
ここの使用人の一人で、俺よりもすごく若い。雇われてからまだ日が浅いらしく、だからこそ、俺にも抵抗なく接してくれる、ものすごくありがたい存在だ。
ちなみに、仕事は、エリシアと俺のところを行き来して必要な書類を運ぶこと。
「でも楽ですよね?」
とんとん、と紙の端を揃えて脇に抱えながら、ルシルは笑って扉に向かう。
「……まあ、否定はできないけどな」
俺は小さく肩をすくめた。
たしかに今の仕事量は少ない。作業も単調だし、時間だって、いつもだいたい2時間もあれば終わってしまうほどだ。
ただ、馬鹿らしくなるというか、虚無~な気分になるというか……。
(本当に、夫の名前だけが欲しかったんだな)
というのがありありと感じられて、シンプルに、なんか疲れる。
ふと手がしびれてきた気がして、一旦、筆を置いた。
ルシルが出て行ったばかりの部屋の扉を見、それから天井を見上げる。
(……すべて自分が握るため、だったっけか)
手首を回しながら、目を閉じた。
――自分の家だろうに。
――よっぽど倒れた父親というのが厳しかったのか。
(よくわからんな)
彼女とは、あれ以来、ほとんど顔を合わせていなかった。
昼間はほとんど執務室にこもっているし、食事も自室で取ると言って出てこない。夜は当然来るわけがないし、要するに、何も話せていない状態が続いていた。
(でも、お互い干渉しないって言ったし。契約結婚ってこういうことなんだよな)
そう自分に言い聞かせて立ち上がると、窓際へ向かった。
窓の下には広い庭がある。
緑を目に入れながら、ぐっと伸びをしようとして――ふと、下を横切ろうとする金色のまとめ髪に目がとまった。
「……あれ? 珍しい」
彼女だった。しかも、男と並んで話している。
五十は過ぎているだろうか。きっちりなでつけた灰色交じりの髪をしていた。細身の身体に仕立てのいい上着を着ていて、使用人には見えない。
客人かな、と思ったけど、距離が近い気がした。
ふたりは目を合わせながら、なにかやりとりをし、庭の向こうに見える建物のほうへ向かっていくみたいだった。
「誰だろ、あの人。それにあそこって――?」
遠くなっていく背中を見送っているうちに気になってきて、俺は「あのぅ」と声を出した。
「はい、なにか?」
お、一応、ひとり来てくれた。よかった。
俺は窓の向こうに指を差しながら聞いた。
「あれって何の建物なんですか」
「……お伝えしていませんでしたか」
メイドはちらっと見ただけで言った。
「あちらは離れです。」
「離れ。別館ってこと?」
「まあ、そうです。大切な物を一時的に置いたり、大勢の客人をお招きするときに使っているんです」
「ああ、そうなんですか。……えっと、じゃあ、あの人は」
「あちらは――」
ほんの一瞬だけ言葉が途切れ、それから、すぐに続いた。
「お嬢様の大切な方です」
「大切?」
「はい」
「それってどういう――」
意味を捉えきれずに狼狽える俺を前に、彼女は、それ以上は答える気はないと言わんばかりに、つんと鼻先をあげて背を向けた。
「それよりも旦那様」
「は、はい」
持ち場に戻る背中越しに、あっさりと言われた。
「こちらの屋敷はどこでもよろしいのですが、あちらには、あまり立ち寄らないでいただけると助かります」
「え、わ、わかりました」
いや、なんでだ――?
この前は「どこででも」って言ってたし、駄目な場所はと聞いても教えてくれなかったのに。
返事とは裏腹に俺の頭の中は、疑問でいっぱいだった。
だから、その日の夕方、珍しく食堂に彼女が現れたとき、これは天啓か?と思ったんだがな。
スープを口に運ぶ途中だったスプーンを空中で止めたまま、入ってきたエリシアを、俺は最初、ぽかんとして見ていた。
けれど、彼女は「食事を」と、たった一言、近くの使用人に言いつけると、俺の真向かいの席に自然と座った。
「ひ、」
「?」
「……久しぶりですね」
なんとかそれだけ言うと、彼女はあまり感動もなさそうな顔のまま、「ええ」とこくりと頷いた。
「少し時間ができたものですから、たまにはと」
「そうなんですね」
「ええ」
「いいですもんね。温かいご飯」
「ええ」
……少し間が空いた。
「……何か?」
不思議そうに首を傾けられる。
慌てて前から気になっていたことが口から転げ出た。
「いや……そういえば、お父上って、今はどうされているのかなあって」
彼女は目を細めたが、すぐに答えてくれた。
「容体は変わっていません」
「療養はここで?」
「ええ、そうです。……何かありまして?」
「いや、僕、結局挨拶してないままなんで。良かったのかなと」
一瞬だけ、彼女の目が丸くなった。でも次の瞬間にはまた戻って言う。
「……構いません。起きませんから」
ほんの少し、声に冷たさが混じった気がした。
聞かない方が良かったのかもしれない。ちょっと無神経だったか。
給仕の使用人も、彼女の後ろで一瞬止まって彼女を見ていた。
話題を変えようと頭を巡らせる。昼間に見た男の姿が浮かんだ。
「そ、そういえば。今日、昼間に庭であなたと一緒にいた人って――」
今度は言い切る前に、彼女の視線がわずかに細くなった。
「あなたは気になさらなくて結構です」
ぴしゃり。
そんな音が聞こえた。
「……わかりました」
俺が言うと、彼女は軽く頭を下げた。
「それよりも、書類の件、ありがとうございます。面倒でしょうが……」
「え、いえいえ……あんなんは、別に大したことじゃ……」
言葉が途切れる。
彼女もそこで止まった。そして、湯気の出たスープが運ばれてくると、視線はもうそちらにしか向かなかった。
✳︎
ーー二度目は、数日後の夕方だった。
執務室からあの男と彼女のふたりが揃って出てくるのにでくわした瞬間、咄嗟に廊下の角に隠れた。
いや、なんで隠れてんだ? と自分で思いながら、壁に背中を貼り付け、耳だけを傾けた。
「じゃあ、また」
落ち着いた男の声が聞こえてきた。
「何かあればすぐに私を頼りなさい」
「ええ。ありがとうございます」
男の言葉に、感謝を返す彼女の声が続いた。
俺はおそるおそる角から目だけを出す。
男は“イケオジ”だった。髪こそ灰色交じりだったが、それがファッションとして成立しているタイプのやつだ。
そいつが、ふっと左手を伸ばして、彼女の頬を包むように触れた。
薬指には少し太めの指輪がはまっている。
「気休めじゃなくてね」
男が真剣な顔で言う。
「君の力になりたいんだよ」
すると、彼女は、じっと彼の顔を見つめ返したあと、力を抜いたように目を伏せて静かに「……はい」と頷いた。
それは、契約の日でも先日の食堂でも、俺の前ではあれだけ冷静に言葉を運んでいた彼女とは、まるで違う顔だった。
それで――俺は、つい思ってしまった。
「本当の理由はこれなんじゃ?」
そして――思うだけならまだしも、最悪な踏み方をした。
「あの。もしかして、あの男の人って、エリシアさんの本当の恋人なんですか」
またあの男が庭に来ていた。
それを窓の下に見かけながら気にも留めない素振りで拭き掃除をしていた使用人を見た瞬間、つい、確認したい気持ちが先に立ってしまった。
けど、その瞬間、尋ねた相手の顔が真っ赤になり、わなわなと唇を震えさせ始めたのを見て、即座に察した。
(しまった。違うーー)
「お嬢様はそんな人ではありません!!!」
俺が訂正するよりも早く、廊下じゅうに響く怒声が雷のように落ちた。




