第九十一話 戻る日常
事故から日が経つにつれて、学校は少しずつ元の姿に戻っていった。
校外での実地訓練はなくなったが、それ以外の授業は変わらない。
朝になれば教室へ行く。
読み書きをして、計算をして、歴史や地理を学ぶ。
基礎魔力学の日もあれば、身体訓練の日もある。
食堂へ行けばカイが今日の料理について文句を言い、寮へ戻ればどちらが先に湯を使うかで揉める。
第五回実地訓練の事故も、毎日のように話題になることはなくなっていった。
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ミナの腕も順調に治っていた。
まだ右腕を大きく動かすことは禁止されているが、授業には普通に出ている。
ただ、文字を書くのには苦労していた。
「もう無理」
ミナが机に突っ伏した。
左手で書いた文字が、紙の上をふらふらと蛇行している。
エイルが横から覗き込む。
「読めるよ」
「ほんと?」
「たぶん」
「たぶんじゃ駄目でしょ」
カイも覗き込んだ。
「これは?」
「三」
「五だよ」
「読めないじゃん」
「エイルよりは惜しかった」
「俺まだ答えてない」
「じゃあ何に見える?」
エイルはじっと見る。
「……魚?」
「数字ですらない!」
ミナが左手で紙を隠した。
周囲から笑いが起きる。
事故の直後にはなかった笑いだった。
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授業の内容も、先へ進んでいった。
基礎魔力学では、これまでより長い術式を扱い始めていた。
ヴァレンが黒板に術式を書く。
「今日は、同じ目的を持つ二つの術式を比較します」
黒板の左右に、それぞれ違う形が描かれている。
どちらも小さな熱を発生させる術式だった。
「結果はほぼ同じです。しかし設計が違います」
エイルは黒板を見る。
形だけなら、どちらも形成できそうだった。
問題は、その違いだった。
「右の方が短い」
カイが言った。
「見れば分かる」
「じゃあ右の方がいいんじゃない?」
ヴァレンが聞きつける。
「なぜですか?」
「短いから?」
「短いと、何が良いのでしょう」
「えっと……覚えやすい?」
教室に少し笑いが起きた。
「それも利点ではあります」
ヴァレンは否定しなかった。
そこから、必要な魔力量、安定性、条件の違いについて説明が始まった。
エイルも必死に聞く。
形成するだけなら簡単だった。
だが、なぜその形なのかを理解しようとすると、話は別だった。
途中で分からなくなり、エイルは手を挙げた。
「先生」
「はい」
「ここの線、なくしたら駄目?」
「なくしてみましょうか」
ヴァレンが黒板から一本の線を消す。
術式の意味を順番に追っていく。
途中で条件がつながらなくなった。
「あ」
エイルにも分かった。
「駄目だ」
「そうですね」
ヴァレンは線を書き戻した。
授業はそのまま続いた。
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身体訓練では、レオンとの差が相変わらず大きかった。
「もう一回」
エイルが木剣を構える。
「いいぞ」
レオンも構える。
始めの合図。
エイルが踏み込んだ。
最近練習している通り、足から動く。
腰を回す。
木剣を振る。
受けられる。
すぐにレオンの木剣が返ってきた。
エイルは慌てて避けた。
「今の惜しくない?」
「最初だけな」
「最初はよかった?」
「ああ」
「じゃあもう一回」
「休まないのか?」
「まだできる」
「俺は休みたい」
「じゃあちょっと休む」
二人で壁際に座る。
エイルは汗を拭った。
以前よりは動けるようになった。
それでもレオンにはなかなか勝てない。
「レオンって、いつから剣やってるの?」
「小さい頃から」
「何年?」
「覚えてない」
「ずるいな」
「何がだ」
「俺も小さい頃からやればよかった」
「今言っても仕方ないだろ」
「そうだけど」
エイルは立ち上がった。
「だから今やる」
レオンも仕方なさそうに立つ。
「休憩短いな」
「もういいでしょ」
「お前が決めるな」
そう言いながら、レオンも木剣を構えた。
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図書館へ行く時間も増えた。
実地訓練がなくなった分、午後に空きができる日があったからだ。
ある日はノアに連れられて、魔道具についての棚へ行った。
「これ」
ノアが分厚い本を取り出す。
「何?」
「灯りの魔道具の構造」
「灯り?」
「前に授業でやっただろ」
手のひらに小さな光を作る術式。
「あれを人が毎回使わなくてもいいようにしたのが、こういう魔道具」
「ずっと光るの?」
「ずっとじゃない。魔力を入れないと駄目」
「じゃあ人が使うのと同じじゃない?」
「全然違うよ」
ノアが本を開く。
そこから長い説明が始まった。
途中からエイルは分からなくなった。
「待って」
「何?」
「最初から」
「今ので最初だよ」
「もっと最初」
ノアがため息をつく。
「じゃあ、魔道具って何かから?」
「そこから」
「本当に?」
「うん」
隣で本を読んでいたカイが笑った。
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学校には、いろいろなものがあった。
魔術だけではない。
剣だけでもない。
数字を扱う授業。
国や領地について学ぶ授業。
物を作るための知識。
商売に必要な計算。
魔物について書かれた本。
エイルの村にいた頃には、知らなかったものばかりだった。
入学した頃は、それを見るだけで面白かった。
今も変わらない。
分からないことがあれば聞く。
聞いても分からなければ、もう一度聞く。
それでも分からなければ本を探す。
そして。
放課後になれば、木剣を振った。
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季節が少しずつ進んでいく。
ミナの腕から固定具が外れた。
まだ以前のようには動かせない。
それでも、本人は嬉しそうだった。
「見て」
右手をゆっくり上げる。
「おお」
エイルが拍手する。
「まだここまでだけど」
「治ってる」
「治ってるよ」
「じゃあ剣できる?」
「先生にまだ駄目って言われてる」
「じゃあ駄目だね」
「エイルに止められるとは思わなかった」
「先生が言ったなら」
「そこは素直なんだ」
カイが横から言った。
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第五回実地訓練の事故について、学校から新しい話が出ることはほとんどなくなった。
見直しは教師たちの間で続いているらしい。
だが、生徒たちの生活は先へ進む。
次の試験が近づけば、事故より試験の方が大きな問題になった。
「やばい」
カイが机に突っ伏している。
「何が?」
「計算」
「昨日やってたじゃん」
「やって分からなかったからやばいんだよ」
「セレナに聞けば?」
「この前聞いた」
「じゃあ分かった?」
「説明は分かった」
「ならいいじゃん」
「問題になると分からない」
エイルは少し考える。
「それ、分かってないんじゃない?」
「うるさい」
そんな日々が続いた。
エイルもいつの間にか、事故のことを考えない日の方が多くなっていた。
忘れたわけではない。
ミナの傷を見れば思い出すこともある。
訓練で牙ネズミを想定した動きをすれば、あの日の感触が戻ってくることもある。
だから、もっと強くなろうと思う。
それ以外は。
また学校で新しいことを覚えていく。
今のエイルにとっては、それでよかった。




