第八十八話 もっと強ければ
翌朝。
エイルはいつもより早く目を覚ました。
隣のベッドでは、カイがまだ眠っている。
窓の外は薄暗い。
しばらく天井を見ていたが、もう一度眠れる気はしなかった。
目を閉じると、昨日のことが浮かぶ。
倒れたミナ。
茂みから飛び出してきた牙ネズミ。
木剣を振ったときの手応え。
止まらなかった身体。
ミナの悲鳴。
エイルは布団を押しのけた。
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寮を出て、普段訓練に使っている場所へ向かった。
まだ人はほとんどいない。
木剣を一本取る。
身体強化の術式を形成し、発動する。
構える。
踏み込む。
振る。
戻る。
もう一度。
今度はさっきより強く。
「……違う」
足がずれた。
構え直す。
踏み込む。
振る。
昨日、自分の木剣は当たった。
外したわけではない。
ちゃんと牙ネズミの身体を打った。
それでも止まらなかった。
もう少し強く打てていたら。
もっと速く次の一撃へ動けていたら。
「エイル」
後ろから声がした。
振り返ると、カイが立っていた。
髪が少し跳ねている。
「何してんだよ」
「訓練」
「それは見れば分かる」
カイが近づいてくる。
「朝飯は?」
「まだ」
「俺も」
エイルはもう一度構えた。
カイは少し黙ってから聞いた。
「昨日のこと?」
「うん」
踏み込む。
木剣を振る。
「俺、当てたんだ」
「見てた」
「でも止まらなかった」
もう一度振る。
「バルガ先生は一発だった」
カイは何も言わなかった。
エイルも、それ以上は言わなかった。
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朝食のあと、学校から連絡があった。
その日の通常授業は一部変更。
校外で行う授業や実習はすべて中止。
昨日の実地訓練に参加した生徒からは、順番に教師が話を聞くという。
校舎へ向かうと、いつもと様子が違った。
廊下を行き来する教師が多い。
正門にも何台か馬車が止まっている。
怪我をした生徒の家族も来ているらしい。
「ミナ、どうなったかな」
カイが言った。
「聞きに行こう」
「会えるかな」
「聞くだけ聞こう」
二人は治療室へ向かった。
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ミナ本人には会えなかった。
まだ休ませているという。
ただ、近くにいた教師が状態を教えてくれた。
腕と肩に傷がある。
しばらく安静は必要だが、治療は進んでいる。
今のところ、命に関わる状態ではない。
「よかった……」
カイが息を吐いた。
エイルも頷いた。
そのとき、治療室の奥から人が出てきた。
別の生徒だった。
脚に厚く布が巻かれている。
昨日、別の班で牙ネズミに噛まれた生徒だ。
肩を借りなければ歩けない。
エイルは何となく、その姿を目で追った。
「行こう」
カイが言った。
「うん」
二人は教室へ戻った。
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昼前、一年生が講堂へ集められた。
前には校長と、昨日の実習に関わった教師たちが並んでいる。
バルガもいた。
腕を吊っている教師もいる。
全員が揃うと、校長が前へ出た。
「昨日の実地訓練で、複数の生徒と教員が負傷しました」
講堂は静かだった。
「学校が訓練場所を決め、安全確認を行ったうえで実施したものです。その訓練で負傷者を出したことについて、学校として重く受け止めています」
校長は、負傷者の治療を優先していることを説明した。
同時に、訓練区域の再調査を行っている。
昨日、牙ネズミがなぜ複数の場所でまとまって確認されたのか。
事前の確認ではなぜ分からなかったのか。
各班へ撤収の情報がどう伝わったのか。
そうしたことを一つずつ調べるという。
「原因が確認できるまで、校外での実習は原則として停止します」
ざわめきは起こらなかった。
「昨日参加した皆さんにも、順番に話を聞きます。覚えていることを、そのまま話してください」
校長は続けた。
「分からないことを推測して答える必要はありません。自分が見たこと、聞いたことだけで構いません」
エイルは前を見ていた。
昨日のことを思い出す。
足跡。
撤収。
牙ネズミ。
ミナ。
自分が見たことなら、全部覚えている。
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講堂を出ると、レオンが廊下の端に立っていた。
エイルとカイも足を止める。
「レオン」
「……ああ」
いつもより口数が少ない。
「どうした?」
レオンは少し迷ってから言った。
「俺が責任者だった」
カイが顔を見る。
「班の?」
「ああ」
「でも、足跡を見つけてからは先生が戻るって決めたよ」
「それは分かってる」
レオンは床を見る。
「その前に、何か気づけなかったのかと思ってるだけだ」
「何かって?」
「分からない」
「分からないなら――」
カイが言いかける。
そのとき、セレナとノアがやってきた。
「聞き取りの順番が来たみたい」
セレナが言う。
レオンは顔を上げた。
「行こう」
六人のうち、ミナを除く五人が教室へ向かった。
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話は一人ずつ聞かれた。
エイルの番になる。
教室にはバルガと、記録を取る教師がいた。
「座れ」
「はい」
「最初から、覚えている範囲で話せ」
エイルは順番に話した。
森へ入った。
ノアが足跡を見つけた。
数が多かった。
バルガが連絡のため教師を向かわせた。
戻ることになった。
途中で牙ネズミが現れた。
走った。
ミナが転んだ。
「そこでどうした?」
「戻りました」
「なぜ?」
「ミナが起きてなかったから」
エイルは続ける。
茂みから牙ネズミが出た。
身体強化を使った。
木剣で打った。
「当たったか?」
「はい」
「どこへ?」
「横です」
「そのあと?」
エイルの言葉が少し止まった。
「……止まりませんでした」
それでも最後まで話した。
牙ネズミがミナへ向かった。
ミナが噛まれた。
バルガが倒した。
傷を押さえた。
記録していた教師が筆を止める。
「以上です」
「分かった」
バルガが言った。
エイルは椅子から立ちかけて、やめた。
「先生」
「なんだ」
「俺がもっと強かったら、あれ止められましたか?」
バルガはすぐには答えなかった。
「可能性はある」
エイルは顔を上げる。
「お前の一撃で牙ネズミを止められていれば、ミナが噛まれなかった可能性はある」
「じゃあ――」
「だから、強くなりたいなら訓練しろ」
バルガは言った。
「それ自体は悪くない」
エイルは頷く。
「ただし、昨日の事故が起きた理由まで、それ一つで決めるな」
「どういうことですか?」
「ミナが噛まれた場面と、昨日の実習全体は別だ」
エイルは黙った。
「別の場所でも怪我人が出た。教師も怪我をした。複数の班が牙ネズミと遭遇している」
バルガは机の上の記録へ目を落とす。
「お前が強ければ、目の前の一匹を止められたかもしれない。それは調べるまでもない」
「はい」
「だが、なぜ複数の班が遭遇した。なぜ撤収が間に合わなかった班があった。事前の確認で何が分かっていて、何が分かっていなかった」
エイルは聞いていた。
「そっちは今、学校が調べている」
少し難しい。
けれど、一つだけは分かった。
昨日の全部が、自分と牙ネズミの一撃だけの話ではない。
「今日はそれでいい。行っていいぞ」
「はい」
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夕方。
ようやくミナに会うことができた。
腕から肩にかけて厚く布が巻かれている。
ベッドの上で上半身を起こしていた。
「ミナ」
「エイル」
「痛い?」
「痛い」
「そっか」
何を聞いているんだろうと思ったが、ほかに言葉が出なかった。
ミナが少し笑う。
「でも治るって」
「うん。聞いた」
エイルは椅子に座った。
しばらく黙る。
「……ごめん」
ミナが首を傾げる。
「何が?」
「止められなかった」
「でも来てくれたでしょ」
「来たけど」
「先生が言ってたよ。エイルが最初に打ったから、牙ネズミの動きが少しずれたって」
エイルは自分の手を見る。
「でも噛まれた」
「それはそうだけど」
ミナは巻かれた腕を見る。
「私も転んだし」
「ミナのせいじゃないだろ」
「じゃあエイルのせいでもないでしょ」
エイルは答えられなかった。
そう言われても、あの一撃をもっと強くしたいという気持ちは消えない。
「俺、もっと練習する」
「うん」
ミナは普通に頷いた。
「私も治ったら、ちゃんと走る練習する」
「転ばない練習?」
「そう」
「どうやるの?」
「知らない」
「じゃあバルガ先生に聞こう」
「怒られそう」
「なんで?」
「『まず足元を見ろ』って言われそうだから」
二人とも少し笑った。
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夜。
エイルはまた木剣を持って訓練場所へ出た。
身体強化。
踏み込む。
振る。
戻る。
もう一度。
強くなることは必要だ。
次に目の前で同じことが起きたとき、止められる方がいい。
それは変わらない。
何度か振ったところで、エイルは木剣を止めた。
昼間、治療室で見た生徒を思い出した。
脚を深く噛まれた、名前も知らない生徒。
あのとき自分は、別の場所にいた。
木剣を握ったまま、少し考える。
どうすればよかったのか。
分からない。
エイルはもう一度構えた。
今は、分かることからやるしかなかった。




