第八十七話 事故
第五回実地訓練。
これが、一年目では最後の実地訓練だった。
これまでの四回でやってきたことを、出発前の確認から帰還まで、班で通して行う。
ただし、場所は前回までと違う。
第四回で正体の分からない痕跡が見つかった南西の森林は、訓練区域から外されていた。
代わりの区域は教師たちが事前に確認し、周辺で最近見られた魔物についても情報が集め直されている。
さらに今回は、各班を担当する教師とは別に、森のいくつかの地点へ連絡役の教師が置かれていた。
異常があれば、近い連絡地点へ報告する。
そこから、ほかの班や教師へ伝える。
集合場所を見回して、カイが言った。
「先生、増えたな」
「うん」
「前回のことがあったからでしょうね」
セレナが答えた。
前に立ったバルガも、そのことを隠さなかった。
「前回、予定していなかった痕跡が見つかった。学校でも調べたが、結局何のものかは特定できなかった」
生徒たちが静かになる。
「だから今回は区域を変えた。事前確認もやり直している。連絡方法も変えた」
そこで一度、言葉を切った。
「だが、最初の実習で言ったことは変わらん」
昨日安全だった場所が、今日も安全とは限らない。
「今日の目的も魔物を倒すことじゃない。危険を見つける。伝える。必要なら戻る。そして全員で帰ってくる」
最後の実習が始まった。
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エイルたち六人は、森の東側を担当することになった。
エイル。
カイ。
セレナ。
レオン。
ノア。
ミナ。
責任者は今回もレオンだ。
ただ、出発前の相談は以前より長かった。
「資料にない魔物を見つけたら戻る」
レオンが確認する。
「新しい痕跡が複数あった場合も、一度止まる。予定していた道が使えない場合も同じ」
「誰かが危ないと思ったときは?」
ミナが聞いた。
「その場で言う。勝手に進まない」
「前より決めること増えたな」
カイが言う。
「前回、決めてなくて困ったからな」
レオンが答えた。
近くにいたバルガは、六人の相談を聞いていたが口を挟まなかった。
「よし」
レオンが立ち上がる。
「行こう」
六人は森へ入った。
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午前のうちは、何も起こらなかった。
資料に載っていた小型魔物の古い痕跡を一つ見つけた。
道にも問題はない。
予定していた確認地点にも着いた。
「順調だなあ」
カイが言う。
「いいことでしょ」
ミナが返した。
「そうなんだけど」
「何か起きてほしいの?」
「いや、それは嫌だけど」
エイルも少し笑った。
何も起きない。
見て、記録して、帰る。
それでいい。
前の実習までなら少し物足りなく感じていたかもしれないが、今日は最後まで何もなければ、それが一番だった。
六人は次の地点へ向かった。
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異変に気づいたのはノアだった。
「待って」
全員が止まる。
ノアが道の端を指した。
土が荒れている。
「足跡が多い」
近づきすぎないようにして確認する。
小さい。
いくつもある。
エイルにも見覚えがあった。
「牙ネズミ?」
「多分」
ノアが答える。
資料にも載っている。
この辺りで見られること自体は、おかしくない。
問題は数だった。
足跡が重なり、何匹分なのか分からない。
レオンがバルガを見る。
「先生」
バルガはすでに足跡を確認していた。
先ほどまでとは表情が違う。
「ここで待て」
声も変わった。
バルガは補助の教師を呼ぶ。
「連絡地点へ戻れ。牙ネズミのまとまった痕跡がある。東側の班を止めろ」
「分かりました」
教師が走っていく。
レオンが聞いた。
「俺たちは?」
「戻る」
バルガは即答した。
そこに班で相談する余地はなかった。
「来た道を戻る。隊列を崩すな」
六人が動き出した。
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森の別の場所でも、ほぼ同じ頃に異変が見つかっていた。
ある班は、複数の牙ネズミを遠くに確認した。
担当教師はすぐに生徒を後退させた。
別の場所では、新しい足跡が見つかった。
そこでも報告のため教師が連絡地点へ向かった。
一つ一つだけなら、まだ大きな異常とは断定できない。
牙ネズミは、この森にいる魔物だ。
数匹を見かけることもある。
だが、離れた場所から届き始めた報告を並べれば、普段とは違う動きが起きていることが見えてくる。
その情報が十分に集まるより先に、森の中で牙ネズミの群れが動き始めた。
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「止まれ」
戻る途中、バルガが突然言った。
全員が止まる。
前方の茂みが揺れた。
一匹。
牙ネズミが姿を現す。
続いて、もう一匹。
「後ろへ下がれ」
バルガが前へ出た。
レオンが反射的に盾へ手をかける。
「先生」
「下がれ」
短い声だった。
レオンもすぐに従った。
一匹目が飛び出す。
バルガが武器を振るい、地面へ叩き落とした。
二匹目が横から走り込んでくる。
もう一人の教師が前へ出て止める。
「走れ!」
六人が走り出した。
教師二人が後ろを守る。
訓練ではない。
そのことだけは、誰に言われなくても分かった。
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「右!」
カイが叫んだ。
木々の間を、小さな茶色い影が走っていく。
一匹。
その後ろにもいる。
だが、こちらへ向かってくるわけではない。
森の奥から、別の方向へ走っている。
「何だ、あれ」
「見るな! 前へ!」
バルガの声が飛ぶ。
エイルは前へ向き直った。
走る。
レオン。
セレナ。
ノア。
カイ。
ミナ。
走りながら、何度も前後を確認する。
全員いる。
出口まではまだある。
そのときだった。
後ろで、鈍い音がした。
「っ!」
振り返る。
ミナが地面に倒れていた。
木の根に足を取られたらしい。
「ミナ!」
エイルの足が止まる。
「止まるな!」
バルガの声。
けれどミナが起き上がれていない。
レオンも戻ろうとしていた。
「ミナ、立てるか!」
「待って、足が――」
その声の途中で、横の茂みが大きく揺れた。
牙ネズミが飛び出した。
近い。
「下がれ!」
教師が叫ぶ。
だが、ミナはまだ地面にいる。
エイルの身体が先に動いた。
覚えた身体強化を発動する。
踏み込む。
木剣を振った。
牙ネズミの横腹に当たる。
重い手応え。
魔物の身体が横へずれた。
止まった。
そう思った。
違った。
牙ネズミは地面を転がるようにして体勢を立て直した。
すぐにミナへ向く。
「くそっ」
エイルがもう一度踏み込もうとする。
足が合わない。
さっきの一撃で姿勢が崩れている。
間に合わない。
ミナが咄嗟に身体を捻り、腕で顔をかばった。
牙ネズミが飛びつく。
「きゃあっ!」
悲鳴。
エイルの目の前で、ミナの腕に牙が食い込んだ。
次の瞬間。
牙ネズミが横へ吹き飛んだ。
バルガだった。
一撃を受けた魔物は地面に落ち、そのまま動かなくなる。
「ミナ!」
エイルが駆け寄る。
腕から血が流れている。
肩の辺りにも爪が入ったのか、制服が裂けていた。
「動かすな」
バルガがしゃがむ。
「先生、俺――」
「今は傷だ。布を出せ」
もう一人の教師が周囲を警戒したまま、荷物から布を渡す。
バルガが傷を確認する。
「エイル、ここを押さえろ」
「はい」
「強く」
言われた場所を押さえる。
血が手についた。
ミナが顔を歪める。
「痛っ……」
エイルの手が緩む。
「緩めるな」
「でも」
「血を止める方が先だ」
「……はい」
エイルはもう一度、力を入れた。
手が震えていた。
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その後は、教師の指示だけを聞いて動いた。
ミナは補助の教師が背負った。
六人は固まり、バルガを先頭に来た道を戻る。
途中で連絡役の教師と合流した。
「東側でも複数確認! ほかの班も撤収中です!」
「怪我人一名。歩けない」
「先に出します」
短い言葉が飛び交う。
誰も立ち止まらない。
エイルはミナの後ろを歩いた。
腕に巻かれた布に、赤い色が広がっている。
自分の手にも血がついていた。
さっきまで普通に話していた。
何も起きなければいいと言っていた。
それから、そんなに時間は経っていない。
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森を出ると、すでに何班かが戻っていた。
生徒たちは班ごとに集められ、教師が人数を確認している。
「七組、東側! 六人全員!」
バルガが叫ぶ。
「怪我人一名!」
すぐに大人が来た。
ミナが運ばれていく。
「エイル」
ミナが呼んだ。
エイルが近づく。
「何?」
「手」
「手?」
「血、ついてる」
自分の手を見る。
真っ赤だった。
「これ、ミナの」
「うん」
ミナは痛そうな顔のまま、それでも少しだけ笑った。
「洗ってきなよ」
「でも」
「邪魔になるから、下がれ」
治療に来た教師に言われた。
エイルは立ち止まる。
「……分かりました」
ミナはそのまま運ばれていった。
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「担架!」
別の方向から声がした。
森の出口へ、大人たちが走る。
担架が運ばれてきた。
その上には、別の班の生徒がいた。
脚に厚く布が巻かれている。
それでも血が染み出していた。
付き添っている教師も、片腕を押さえている。
周囲の空気が変わった。
泣いている生徒がいる。
座り込んだまま動かない者もいる。
腕に布を巻かれた生徒。
頬に傷を作った生徒。
「道を空けろ!」
エイルたちは端へ寄った。
カイが何か言おうとして、やめた。
レオンも黙っている。
セレナは森の出口を見たままだった。
まだ戻っていない班がいる。
そのことに気づいてからは、誰もほとんど話さなかった。
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点呼は何度も行われた。
戻った班。
まだ森にいる班。
怪我人。
教師。
連絡役。
学校から追加の教師と、治療のできる者も送られてきた。
エイルたちは勝手に動かないよう指示され、その場で待った。
時間がひどく長く感じた。
やがて最後の班が森から出てきた。
「全員います!」
その声が聞こえたとき、あちこちから息を吐く音がした。
死者はいなかった。
だが、怪我人はミナだけではなかった。
複数の班が牙ネズミと遭遇していた。
軽い怪我をした生徒が数人。
生徒を守って負傷した教師もいた。
別の班の一人は、脚を深く噛まれていた。
すぐに命に関わる状態ではない。
そう聞かされても、いつもの実習が終わったときのような空気には戻らなかった。
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学校へ戻っても、振り返りは行われなかった。
生徒たちは教室へ戻され、教師の指示を待った。
廊下を何人もの大人が行き来している。
治療室の方にも人が集まっていた。
「ミナ、大丈夫かな」
カイが言った。
「分からない」
エイルは自分の手を見る。
血は洗った。
それでも、爪の間に少し赤い色が残っている。
しばらくして、バルガが教室へ入ってきた。
服には土がついたままだった。
「今日の実地訓練について、学校は野外実習を当面停止することを決めた」
誰も声を出さない。
「怪我をした生徒は治療中だ。家族への連絡も学校から行う」
エイルが顔を上げる。
「ミナは?」
「腕と肩に傷がある。今のところ、命に関わる状態ではない」
身体から少し力が抜けた。
「もう一人、脚を深く噛まれた生徒もいるが、そちらも治療を受けている」
バルガは続けた。
「何が起きたのかはこれから調べる。今日、どこで何を見たか。誰からどんな指示を受けたか。いつ異常に気づいたか。お前たちからも、順番に話を聞く」
レオンが手を上げた。
「先生。俺たちの班は、足跡を見つけてすぐ戻りました」
「ああ」
「それでも、途中で遭遇しました」
「そうだ」
バルガはそれ以上言わなかった。
「今は、覚えていることを勝手にまとめなくていい。聞かれたとき、自分が見たことをそのまま話せ」
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その夜。
寮の部屋に戻っても、エイルはなかなか眠れなかった。
向かいのベッドでは、カイも起きている。
「エイル」
「何?」
「寝てる?」
「寝てない」
「俺も」
それきり、しばらく話さなかった。
目を閉じる。
ミナが転ぶ。
茂みが揺れる。
牙ネズミが飛び出す。
自分が踏み込む。
木剣が当たる。
止めたと思った。
止まらなかった。
その先を思い出したくないのに、何度も同じところまで戻ってくる。
「カイ」
「何?」
「俺、当てたんだ」
暗い部屋で、カイはすぐには答えなかった。
「見てた」
「ちゃんと当たった」
「うん」
「でも止まらなかった」
また沈黙した。
エイルは布団の中で拳を握った。
もう少し強く打てていたら。
もう少し速く次へ動けていたら。
そうすれば、ミナは噛まれなかったかもしれない。
考えても答えは出なかった。
それでも、その夜のエイルには、ほかのことを考えることができなかった。




