第八十二話 最初の実地訓練
教室に入ると、机の上に一枚ずつ紙が置かれていた。
エイルは自分の席に座り、すぐに手に取る。
一番上には、大きな文字で書かれている。
『第一回 実地訓練』
「外?」
隣のカイが紙を覗き込んだ。
「みたい」
「魔物とか出るのかな」
「書いてない」
エイルが続きを読もうとしたところで、教室の扉が開いた。
入ってきたのはバルガだった。
「席につけ」
ざわついていた生徒たちが座る。
バルガは教壇の前まで来ると、黒板に四つの言葉を書いた。
『観察』
『共有』
『判断』
『帰還』
「一年生の共通課程には、野外で安全に行動するための実地訓練がある」
エイルは黒板を見る。
「この学校を出た人間が、全員騎士や兵士になるわけじゃない。役人になる者もいる。商人、職人、荷運び、薬草を扱う者、故郷へ戻って家業を継ぐ者もいる」
バルガは教室を見渡した。
「だが、何の仕事をするにしても、街の外へ出る可能性はある」
街道を通って隣町へ行く。
村へ荷物を届ける。
山や森で材料を集める。
別の土地へ仕事に向かう。
安全な街の中だけで一生を過ごすとは限らない。
そして街の外には、魔物がいる。
「だから一年生のうちに、野外で危険に遭遇したときの基本を全員が学ぶ」
カイが手を挙げた。
「魔物の倒し方ですか?」
「違う」
バルガは即答した。
「倒さずに済むなら倒すな」
カイが手を下ろす。
「今回の訓練で覚えるのは、まず周囲を見ることだ。何があるか。何が変わっているか。危険の兆候はないか」
バルガが『観察』を指す。
次に『共有』。
「一人が見つけても、ほかの人間が知らなければ判断に使えない。見たもの、聞いたものを一緒にいる人間へ伝える」
そして『判断』。
「進むのか。迂回するのか。戻るのか」
最後に『帰還』を指した。
「街の外で何か起きたとき、自分と一緒にいる人間を連れて帰ってくる。そのための基礎を学ぶ」
エイルが手を挙げた。
「魔物がいたら?」
「まず距離を見る。数を見る。こちらに気づいているかを見る。それから判断する」
「近かったら?」
「状況による」
「逃げられなかったら?」
「そのときは戦うこともある」
エイルは頷いた。
バルガは黒板を軽く叩いた。
「だから最初から戦うことを考えるな。戦わずに帰れるなら、それが一番いい」
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今年の一年生が行う野外安全訓練は、季節が変わるまでに全部で五回。
最初から難しいことをするわけではなかった。
第一回。
教師と一緒に歩き、野外で何を見るべきかを覚える。
第二回。
実際に魔物と遭遇した場合の対応を学ぶ。
第三回。
生徒自身で役割や経路を決める。
第四回。
現地で得た情報をもとに、進むか戻るかを判断する。
そして第五回。
それまでに学んだことを使う総合訓練。
「これは仕事の実習じゃない」
バルガが言った。
「一年生が、街の外で自分たちの安全を守るための基礎訓練だ。危険な魔物を探しに行く訓練でもなければ、討伐を経験するための訓練でもない」
紙にも同じことが書かれていた。
エイルは五回分の説明を見る。
「五回しかないの?」
「十分だ」
「一回目は歩くだけ?」
「歩くだけで済むかどうかは、行ってみないと分からん」
「そっか」
「だから訓練する」
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数日後。
一年生たちは学校の北側にある森へ向かった。
街からそれほど離れてはいない。
普段から人の出入りがあり、学校でも実地訓練に使っている場所だった。
それでも教師たちは、生徒を自由に歩かせなかった。
班ごとに分かれ、それぞれに教師がつく。
エイルの班も、バルガの後ろを歩いていた。
「昨日、この区域は教師が確認している」
バルガが言う。
「危険性の高い魔物の痕跡は確認されていない」
カイが安心したように息を吐く。
「じゃあ安全ですね」
「そうは言ってない」
「え?」
「確認したのは昨日だ」
バルガが振り返る。
「昨日何もいなかったから、今日も何もいないとは限らん」
「じゃあ確認した意味あるんですか?」
「ある。何も確認しないよりはずっといい」
カイが難しい顔をした。
エイルは周囲を見る。
木。
草。
土。
鳥の声。
何を見ればいいのか、まだよく分からない。
「先生」
「なんだ」
「あれ」
一本の木に傷がついている。
「魔物?」
バルガが近づいて確認する。
「違う」
「なんで?」
「高さと形を見ろ。荷車を引っかけた跡だ」
「荷車?」
「この道は村の人間も使う」
エイルは傷を見る。
確かに、何かが横から擦ったようになっていた。
「魔物の爪じゃないんだ」
「何でも魔物にするな」
後ろでカイが笑った。
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しばらく歩いたところで、今度はバルガが止まった。
「ここを見ろ」
生徒たちが集まる。
地面に小さな跡が残っていた。
エイルはしゃがむ。
「足跡?」
「そうだ」
「何の?」
「分かる奴は?」
誰も答えない。
バルガはすぐに正解を言わなかった。
「まず見たままを言え」
一人の生徒が答える。
「四本……指があります」
別の生徒が言う。
「何個かあります」
「大きさは?」
エイルが自分の手と比べる。
「これくらい」
「ほかは?」
少し離れたところで、セレナが地面を見ていた。
「土が柔らかいです」
バルガが頷く。
「昨夜、雨が降った」
「じゃあ新しい?」
エイルが聞く。
「可能性は高い」
「今日?」
「そこまでは分からん」
エイルは足跡を見る。
足跡一つでも、分かることと分からないことがあるらしい。
「何の魔物?」
「小型の獣だ。この辺りでは珍しくない」
「危ない?」
「種類による」
「どこに行った?」
「分からん」
「何匹?」
「この跡だけでは断定できん」
エイルが黙った。
分からないことが多い。
「だから、見つけたものから勝手に話を作るな」
バルガが言う。
「分かったことだけ使え」
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さらに森を進む。
今度はバルガが手を上げた。
全員が止まった。
前方。
木々の間を、四本脚の生き物が横切った。
エイルの身体に力が入る。
「魔物?」
「そうだ」
小声でバルガが答える。
「動くな」
生徒たちはその場で待った。
魔物はこちらを一度見た。
だが近づいてこない。
そのまま森の奥へ消えていった。
しばらくして、バルガが歩き出す。
エイルは慌ててついていく。
「今のは?」
「こちらに来なかった。だから何もしない」
「追いかけない?」
「追いかけてどうする」
「……近くで見る?」
「駄目だ」
カイが吹き出した。
「何笑ってるの」
「いや、お前なら言うと思った」
エイルは後ろを振り返る。
もう魔物の姿は見えない。
魔物を見つけたからといって、必ず何かしなければならないわけではない。
向こうが離れていくなら、こちらも離れればいい。
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学校へ戻ると、班ごとに簡単な振り返りを行った。
何を見たか。
何が分かったか。
何が分からなかったか。
どう判断したか。
バルガが黒板に書いた四つの言葉を、エイルはもう一度思い出した。
観察。
共有。
判断。
帰還。
「今日の訓練は?」
バルガが聞いた。
カイが答える。
「魔物と戦わずに帰ってきました」
「そうだ」
「それで成功?」
「全員帰ってきただろ」
「はい」
「なら成功だ」
エイルは少し考える。
それでも、魔物と戦わなければならないときはある。
逃げられないとき。
誰かを守らなければならないとき。
そのときに弱ければ困る。
だから強くなることも、やっぱり必要だ。
「先生」
「なんだ」
「第二回は何するの?」
「魔物と遭遇したときの対応だ」
「今日と違う?」
「今日は見つけて、向こうが離れた。それで終わった。次は、そうならなかった場合をやる」
エイルは少し考えた。
「逃げられなかったとき?」
「そうだ」
「分かった」
隣でカイが紙を見ながら言った。
「俺は逃げられる方がいいな」
「俺も」
カイがエイルを見る。
「お前、さっき魔物見たとき前に出ようとしてなかった?」
「出てないよ」
「ちょっと出てた」
「ちょっとだけ」
「出てるじゃん」




